振り返って、接吻
誰もいない廊下に出てきても、まだ心臓の動きが大きかった。俺はまだ心拍数が上がっているのを感じながら、すぐそばの副社長室に入る。中ではすでに秘書の千賀が仕事をしていた。
彼女は俺が入ってきたのに気付くと立ち上がって、挨拶をする。
「おはようございます」
「おはよう、ごめん遅くなって」
「いえ、今日は宇田社長のお誕生日でしたよね?」
「そう、いま会ってきた」
千賀は優秀な秘書だ。めちゃくちゃ気を許してるわけでもないし、あんまり仲も良くないけど、やっぱり毎日顔を合わせてる関係だなって思う。だって、 なんだか、彼女と話したらちょっと呼吸が整ってきた。
「何かプレゼントお渡ししたんですか?」
しばらく仕事に向き合えそうにない俺に、作業の手を止めた千賀は、軽い口調で話しかけてくれた。
千賀は俺よりも2つ歳下の、3年程前に雇った秘書だ。もとは茅根が俺と宇田ふたりぶんの面倒を見ていたのだけど、会社が軌道に乗ってきて、茅根だけでは手が足りなくなったせい。
でも、あらゆる意味で優秀な茅根の後を引き継げる者はなかなか現れない。そこで取引先の大手企業で秘書をしていた千賀に、俺と宇田と茅根の渾身のスカウトで入ってもらったのだ。
たまに色目を使われるのが嫌だったけど、婚約発表の後はそんなこと一切無くなったし、千賀はかなり優秀な秘書だと思っている。元から仕事中にそういうことは無かったし、まあ、色目を使われるのは正直慣れてるし。
だから、なんだかんだ信頼していて、俺はつい、打ち明けてみた。
「プレゼントっていうほどじゃないんだけど、」
「ええ?」
「婚姻届、渡してきた」
ちょっとだけ早口になってしまった俺に、彼女は珍しいほど表情を崩していた。目と口を開いて、ぽかんとしてる。
「そんなに驚くことじゃないだろ」
普段冷静沈着な部下が間抜けな顔を見せてくるから、思わずムッとした。だって、俺と宇田っていちおうは婚約者だし。