振り返って、接吻
————いま、由鶴はわたしから離れて自由になるチャンスだ。
おそらくこれを逃せば、由鶴は一生わたしの半歩後ろで、わたしの示す場所だけを歩くことになる。
あとひとこと。あと一言だけわたしが傷付けることを言えば、彼はわたしのもとから立ち去るだろう。
逆にここで、由鶴を甘やかすような言葉をかけてあげるだけ。それだけで彼がわたしに囚われてしまうのを分かっていた。
分かっていたけど、わたしは何も口には出さなかった。
これ以上傷付けたくなかったし、本当にわたしから離れてしまうのは寂しかった。
それに、少し我にかえると、さすがに言い過ぎたなと反省もした。
わたしが悪いと思う。今回の件について、由鶴に罪はない。あえて言うならちょっと無神経だったけど、まあ、それだけだ。
わたしが勝手に勝負して、勝手に負けただけ。
だけど由鶴は、わたしに勝ったとか負けたとか思っていないんだろうなと思うと、それがまたひどく悔しくて腹立たしかった。
それなのに彼は、扉に背中を預けたまま、ずるずるとしゃがみこんで負け犬みたいに鳴いた。
「大嫌いなんて、言うなよ」
ニキビひとつない滑らかな肌をナイフでざくざくやられたみたいな苦しそうな表情は、初めて見るもので、わたしはゾクっとした。
わたし以外の誰も、この美しい顔を見ることはできないのだ。
だってわたし以外の誰にも、深月由鶴をここまで深く傷つけることはできないから。