振り返って、接吻

上着を羽織って副社長室から出ると、普段、社長室と副社長しか使われていないこの階の廊下は静まり返っていた。防音設備のおかげである。基本的に宇田と茅根はうるさいので、おそらく社長室は今日も賑やかだ。




交渉で手土産として頂いた和菓子を持って、ふらりと社長室に立ち寄る。いちおうポーズとしてノックをしたけど、昨日のやり返しとして返事を待たずに重厚なドアを開けた。


無言で入ってきた俺にすぐさま気づいたふたりは、どうやらのんびりと仕事の話していたらしい。ふたりが同時に顔を上げて、資料から視線を俺へと移した。



「おつかれハニー」

「お疲れ様ですハニー副社長」

社長様の偉そうなデスクに着いている宇田は、片手をあげて気持ち悪い挨拶を。秘書である茅根も便乗して、席から立ち上がって「お茶淹れてきますね」と微笑んだ。


コーヒーではなく、お茶。俺が提げているの虎が描かれた黒い高級感のある紙袋から、土産が和菓子であることをすぐに見つけたのだろう。



茅根はすっと音もなく給湯室に向かったらしい。必然的に宇田とふたりっきりになる。急かすのも申し訳ないので、鼻歌を歌いながら仕事をさくさくと片付けているのを黙って眺めた。


それからある程度仕事が片付いたらしい宇田は、先に俺が勝手にくつろいでいた接待で使うソファに移動してきた。俺の正面、向かい側に座る。

仕事モードの凛々しい横顔はもうなくて、楽しそうな瞳には光が集まっていた。


「ねえねえ知ってる?」

「知ってる」

「いや、たぶん知らないよ」

「じゃあ知らなくていい」


どうせくだらない内容なのは分かりきっている。そう知りながらも「なんなの」と促す俺は、間違いなく良い部下だと思う。


「社内の女の子たちでね、副社長派と茅根さん派があるらしくてさ!」

「へえ」

「もう女の子たちのお話って、なんであんな面白いんだろうね!いっしょにランチしちゃったよ!」


ほら、やっぱりくだらない。
でも、話しかけにくい副社長の自覚はあるから、オマエがそんなで良かったよ。茅根のお茶を待ちながら、適当に話を聞き流す。

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