振り返って、接吻
エレベーターが一階に到着すると同時に、先ほど聞いてしまった宇田の無神経発言が脳裏をよぎった。
彼氏にするとなると、話は別。
そう、誰よりも近くにいて、理解して、依存しあっているくせに。
俺は、宇田にとっての恋人としての対象にはなれない。
「お疲れ様です、副社長」
いかにも話しかけにくい俺に、珍しくかけられた声の主に視線を向ける。肩のあたりで短く切り揃えられた黒髪の女、秘書の千賀だった。
出来るキャリアウーマンを形容したような彼女は、深い灰色のスーツを着て、もう夜だというのに、うちの会社の化粧品のおかげで完璧な顔を保っていた。
立ち止まることもない俺に、同じ速度で隣を歩く千賀が話し続ける。
「もし良かったら、今からお食事いきませんか?」
「食べたい気分じゃない」
「副社長、声をかけないと昼食もとらないので心配です」
「余計なお世話だよ」
たしかに俺は食べることにあんまり執着がないけど、それは欲求が人より少ないだけの話だ。ほら、その証拠に生きているし。
というか、秘書とわざわざ食事をすることのほうが疲れる。意味がわからない。
それなのに、千賀は何を思ったのか。
「社長と茅根さんもご一緒でしょうし、私達も行きましょうよ」
艶のある髪を片耳にかけながら、囁くように誘ってきた。
ああ、そういうこと。俺はその姿を見て、妙に興醒めした気分だった。
「ねえ、千賀」
俺はそっと露になった彼女の耳にくちびるを寄せて、その誘惑に乗るような素振りを見せる。
驚いたように息を吸い込む女はもう、秘書としての千賀じゃない。ひとりの女だ。
優秀な秘書である彼女に対しては、部下として大切に接しているつもりでいたけれど。ひとりの女として接してほしいなら、俺には無理な願いだ。
わるいけど、俺は無愛想だとか感情表現が下手だとか、そんな不器用で可愛げのある人間じゃない。
他人なんかに、抱く感情も無いってだけ。
駐車場にたどり着き、もう自分の車が見えている。はやく帰りたい。
そのためにはこの女を振り払わないと。
「宇田に憧れているなら、安い女はもう捨てろよ」
俺に色目使っているようでは、憧れの女社長にはなれないよ。
立ちすくむ彼女を残して、俺は自分の車に乗り込んだ。
宇田の乗らない車内は物足りない程の静けさで。ああ腹立つ。宇田は今夜、茅根に手料理でも振る舞うのだろうか。俺の貰ってきた羊羹食ったくせに。
このとき、もうすでに秘書のことなんて頭の隅にもなくて、薄情な自分に後から気付いてわらってしまった。