振り返って、接吻
初雪が降ったその夜。ふたりで居酒屋さんに立ち寄った、そんなイレギュラーから始まった。
「雪が降った日は居酒屋さんで呑むに限りますなあ」
なんて常人には理解しがたいことを言いながら、朱色の暖簾をくぐる宇田は、会社帰りなのにすでに酔っ払っているような足取りだった。
宇田は走るのが得意なのに、歩くのが下手くそだ。常時千鳥足みたいになって、なんだか頼りない。
いや、天性の猫かぶり女であるので仕事中はしゃくしゃくと姿勢よく歩くけど、オフモードになった途端から踊るような足取りになる。たぶん、珈琲で酔える。
それから、たったの2時間ほど。
嗜む程度の品がある俺の前で遠慮もなく、がぶがぶと可愛げもなく目の前の酒を飲み干す女。もはや女じゃない。
「なんか嫌なことでもあったの」
興味ないけど、いちおう上司相手なのでたずねてみる。それと、しめ鯖、最後の一切れを食べやがったなオマエ。
「別に嫌なことじゃない」
「じゃあ、いいこと?」
「分かんない」
「ふうん」
ことん、音を立てて空のジョッキを置いた宇田は、ようやく酔いの回ってきたらしい表情でこちらを見た。
化粧の下からじんわりと赤く染まった頬の高い部分、ゆるりと緩んだ瞳、ふにゃんと柔らかくとろけた雰囲気にクるものがある。自分の浅い場所に眠る本能を正すように息をのんで、邪念を振り払った。
呂律はきちんとまわってるけど、呼吸も少し浅く感じる。そろそろやめさせないと。
「酔ってるでしょ、ちょっと休憩するか、もう帰ろう」
「ん、ユズルぜんぜんのんでないね」
「オマエが飲み過ぎなんだよ」
冷たい水を差し出してやると、砂糖のかたまりが溶けたようにあまく笑ったそいつに、まわりの客の視線が集まる。
宇田は絶世の美女ってわけじゃないと俺は思うのだけど、生まれもった華々しさと、類稀なるカリスマ性のおかげでよく目を引く。たしかに、筆舌しがたい魅力があって、でもそれは彼女の努力によるものだと知っている。
俺たちは、あまりにも、知りすぎている。
「ねえ、ハニー」
「やだ」
「きょう、泊めて?」
「だから、やだってば」
「えーだめー?おねがーい」
どうせ泊まってくくせに、軽薄な上目遣いで許可なんて取ろうとするな。わざとらしい。
安い誘い文句みたいなそれにも、理性が傾きそうになる俺も大概酔っているとしか思えない。甘えるように俺のネクタイあたりにおでこを擦り寄せる宇田に、俺はうっかり伸ばそうとした馬鹿な手を引っ込めた。