振り返って、接吻
すんすんと鼻をならす彼女は、昔から、何かあると俺の匂いを嗅ぎたがる。前世は犬なのかもしれない。今世には、そんな可愛げないけど。
「わたし、由鶴の匂い大好きなんだよねえ」
「あ、そ」
「やっぱり落ち着くなあ」
「オマエは酒臭い、離れて」
そう言いつつも無理に突き放さないあたり、ね。はいはい、察してくれ。
俺の胸に寄りかかるような体勢になった宇田に、さすがにまわりの視線も考慮して、俺は店を出ることにした。会計の際、きっちり領収書を切るのも忘れない。もちろんあとで社長に支払わせるつもりだ。
呼びつけた代行業者は、中年の男。ふわふわと覚束ない酔っ払いの宇田にわかりやすく欲を帯びた視線を向けてくるので、どうやらゲテモノ好きらしい。
俺はそんなゲテモノをそっと隠すように、自分のコートを脱いで頭から被せた。スーツだけでも平気な温度の車内。車の外は、雪が降り始めたばかりだ。
常識的に考えれば彼女の自宅に送り届けてやれば良かったが、何故か俺は自分の住むマンションに彼女とふたりで降りた。
運転手に短くお礼を告げて、お金を払う。もちろん領収書を受け取るのは忘れない。
宇田は俺のぶかぶかのコートを肩に掛けるようにして、その内側では俺の右腕に両腕を絡めている。こんな白ける誘惑さえも理性を壊しにかかるのだから、もう、勘弁してほしい。
だけど、俺にとっては性欲なんて浅くてやさしいものだ。宇田凛子という人間に対しては、もっと深くて、穢れていて、色の濃い欲求が複雑に絡み合っている。
「そういえば、茅根がさ、」
宇田の話の大半は、茅根に関することだ。四六時中ともに過ごしているのだから、それは必然的なのかもしれないけれど、気分は晴れない。
でも、これは俺が悪い。清らかな関係を築いていけないのは、俺の一方通行な重たい熱量のせいだ。
「ゆづ、ずっといっしょにいようね」
まるで、呪いだ。
それだけの言葉に俺は呆気なく囚われて、身動きなどできずに縛られている。
「どういう意味で言ってるの」
エレベーターという密室でふたりきり、潤んだ上目遣いでこちらを見るそいつに、怪訝な声を吐いてしまった。
自分の中の独占欲がぐつぐつと沸騰してきたのを感じた。冷徹なんかじゃない、俺はこんなに熱い人間だったのか。
この先、唯一の男として俺を選んではくれないくせに、無責任に俺を繋ごうとする。残酷な女にうんざりしながら、俺はどこかで安堵する。
この関係がじんわりと歪みだしたのは、いつからだったか。
「意味なんかないよ、ただ、いっしょにいたいの」
きれいにマスカラが塗られた長い睫毛を伏せて、そっと微笑む宇田。ぼんやりとそれを眺める俺を置き去りにして、彼女は慣れたように俺の家に入っていった。