振り返って、接吻

正面に立つ社長秘書を務める男は、栗色の柔らかそうな髪を耳にかけて、ふわふわとこれまた柔らかい笑みを浮かべている。仕事中とは思えないほど甘ったるい奴だ。


その男は、上品な腕時計に視線を投げて、「そろそろ行きましょうか」と宇田にだけ声をかける。副社長と遊んでる場合じゃないですよ、とでもいうように。


完全に一方的に絡まれていたのは俺なのに。完全なる巻き込まれ事故、さらには当て逃げのようなそれは、すごく理不尽だ。

わざと聞こえるように舌打ちを鳴らすが、もちろん奴らは気にすることなく。


「じゃあ、また後でね!由鶴、例の企画よろしく」

「失礼します、では、きょうも一日がんばりましょうね」


それぞれにうざい言葉を投げかけて、去っていった。こちらの返事は期待していないらしく、言い捨てだ。


最悪なコンビのせいで何か大事なものを朝から失った俺は、とりあえず無心で副社長室を目指す。


仕事自体は好きだし、というか仕事くらいしか好きなものがないのだけど、とにかく、憂鬱な朝も出勤できるくらい俺はこの仕事が好きらしい。



ここは、まだ歴史の浅い化粧品会社。数年前に立ち上げたばかりだが、愛用してくれている有名人の紹介をきっかけに人気に火が付き、手が届くデパコスとして若い女性をターゲットに業績を伸ばしている。


宇田の感性は、ほんとうに神からの授かりものだ。信じたくないけど、俺はそれを誰よりも知っている。そうでなきゃ、あんな気色悪い女と組んで、会社を立ち上げたりしていない。



俺たちは、大学生のときにあらゆる化粧品会社でバイトやインターンシップをして、就活生になると同時に起業した。もう、6年前のことだ。


宇田がつけた会社名を、俺はあんまり気に入っていない。というか、ちょっと恥ずかしい。自分の名前が入っている社名をどんな気持ちで俺が呼んでいるか、宇田は知っているのだろうか。



だがそんな会社名さえも、女の子たちから話題を呼び、商品が売れるわけで。社名のほんとうの由来を知っている人は少ない、というか、副社長の俺も知らないのだけど。

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