振り返って、接吻
低血圧な自分に鞭打って目を覚ましたら、そこはいつもと変わらない朝だった。
ドア越しに聞こえる、がちゃがちゃと何かしている騒音。リビングにはよく知った人の気配。楽しげな鼻歌。は?朝から鼻歌?正気の沙汰じゃない。
そんな、いつもと変わらない朝だった。
たかがキスの感覚なんてもう残っていなくて、ただの朝だ。
そして、けっきょく、くちびるを重ねる以上のことはできず、ただ、それを繰り返すだけの夜だった。
どちらからということもなく、なんとなく、終わりが来た。酔いが醒めた、と表現するのが正しいかもしれない。
そのあと、きちんと別々に風呂に入って、宇田はソファ、俺は寝室で眠りについた。
何もなかった、のかもしれない。
だけど、宇田のことになると思春期も同然の俺にとっては、これまで触れずに保ってきた距離感をひとつ崩したというのはもはや事変だ。
何故だか抱えきれないほどの不安に押し潰されそうになった俺は、カーテンを開けて、窓の外に薄っすらと積もる雪を確認した。ここではじめて、昨日の朝とは違う点を見つけて、ほんの少しだけ安心する。
この程度の雪でも、電車は遅延があるかもわからない。今日の遅刻は大目に見てやらないと。
ベッドから抜け出すと、寝室はひんやりとしていて、妙に頭が冴えた。普段ならこんな寒い朝は、宇田に最強なうざさで起されるまで布団から出られないのだけど、今朝は着替えもせずにドアを開ける。
宇田の姿を一目見ないと不安だった。
ノリでヤってしまった夜、朝起きて隣に人がいない、そんなワンナイトラブは聞いたことがある。それに、帰ったやつの心情を理解はできる。
だけど、俺らの関係はそんな脆さじゃない。だから、そんなことで壊されたら困る。いや、一線は超えてないけれども。
「ゆづ、おはよ?ちゃんと起きて偉いね」
コーヒーを淹れながら軽い挨拶をしてきた彼女を見て、立ちくらみしそうなのをなんとか耐えた。
ああ、そういうこと。
この女にとっては、酔ってしまった際の仕事の火遊びなんて小さなミス。こうやって無かったことにするつもりなのか。
こうやって、俺との距離を変えずに、ずっと上手くやっていくつもりなのか。
「着替えてくる」
「まず挨拶でしょうが。まあ、いいけど、いってらっしゃい」
朝から口うるさい宇田は、無音で動揺しまくりの俺とはちがって、やっぱりいつも通りそのものだ。
ずっといっしょにいる、その儚い約束は腐りかけのまま一生かけて果たされていく。