振り返って、接吻
着替えを受け取った宇田はリビングを出ていった。脱衣場にでも行ったのだろう。
俺の服を着てるあいつ、悪くないんだけどな。なんていうかこう、自分より何年もずっと立場が上のやつをさ、支配してるみたいな気分。それだけじゃないかもしれないけど。
「また泊まってたんだね、社長」
仕事の資料を整理している茅根が、ひとりごとを呟くように俺の顔も見ずに言った。
とはいえ、ここはふたりっきり。「まあね」と答えるのは俺だ。
「もはや一緒に住んだほうがいいんじゃないの」
「絶対やだね」
「ふうん、でも社長ってあんな美人で独り暮らしだし、危険じゃない?」
「どこが危険なの」
もし、もしも気の狂ったやつがあいつを犯そうとしていたとしても、あんな変人、ストーキングしてる途中で萎えるわ。
そして、なんとなくミント色のネクタイを思い出して。
「茅根もあいつの家、行ったりするんでしょ?」
余計なことを言ってしまった、けど、もう遅い。もしかして、俺が気にしてるみたいに聞こえる?マジで、そんなはずないのに。
3人分の仕事をきっちりと整理して並べた社長秘書は、甘い顔立ちに色気を孕ませて「たまにね」とだけ答えた。
茅根は俺とふたりっきりになっても、余裕のある笑みを浮かべていて、おそらくこれがこいつの真顔なんだと思う。でも、余裕のない今日の俺は、それがちょっとだけ腹立たしく感じたりする。
八つ当たりしても良いのかな、良いよね、だってほら、上司だし。
そんな野蛮なことを考えていることを察したのか、「糖分足りてないんじゃないですかあ?」とアーモンド型の目を細めて笑う茅根。
……宇田と茅根がいる職場では、どれだけチョコレート食べたって足りずに苛々するに違いない。
うん、と自分で肯定して、手のひらを丸めようとしたところで。
「ただいま戻りました!よし!働くぞ!おー!」
うるさいやつが着替えを済ませてリビングに入ってきた。いっきに活力が低下、この宇宙人は俺の士気をぐんと下げる。
「おー!今日の仕事はこれだけですよ、頑張って終わらせましょうね」
「……あ、ありがとう」
にっこりと甘ったるく微笑んで、『これだけ』の仕事が書かれたメモを社長に渡す秘書。俺には『これほど!どれだけ!』の量に見えるけど、まあ、手伝う気は無いし所詮他人事だ。
俺は俺の仕事が『これだけ』ある。俺はパソコンと資料で自分の周りを聖域として固めてから、仕事を始める支度を整えた。
何も考えずに目の前の作業に没頭する。自分に言い聞かせて、眠っているパソコンを立ち上げた。