振り返って、接吻

「働こ、」


誰もいない静かな副社長室に入り、今日のスケジュールを頭の中で整理する。あと数分もすれば、秘書の千賀が来るだろう。

彼女はわざと、俺よりも遅くこの部屋に入ってくる。数分でも、ひとりの時間がないと朝の俺にはしんどい。我ながら、起業せずにどこかの組織に就職していたら、短命だっただろうなと思う。

当然ながら、社会は俺を中心に回ってはくれない。それができるのは、宇田だけだ。



俺のボールペン字でメモされた白い付箋がいくつか貼られたデスクに、見慣れた字が書かれた黄色の付箋が1枚目立っている。


わざと右肩上がりに書く力強いその文字は、「業績も右肩上がりになるように!」という頭のおかしい女の願いが込められている。字は体を表すというけど、たしかにその字には自信と教養が映されていた。



『ハニーへ。午後3時から企画部のプレゼンあるのだけど、わたし行けないから記録おねがいしていい?』



ダーリンより、と記されたそれを読んで内容を理解した俺は、呪われる前に即座に破り捨てた。やば、鳥肌が立っている。


断じて、俺と宇田はハニーとダーリンの甘い男女仲ではない。そんなことは軽々しく言っちゃいけない、縁起でもない、不吉すぎる。



由来を説明すると、単純なこと。彼女の名前は、宇田凛子(うだりんこ)という。で、その、ウダリンコから、ウ、ダリン、コ、それで、ダーリンとなったらしい。

ああああ、言葉にしただけで喉がかゆくなった。なるほど、これがアレルギー反応か。



俺がハニーと揶揄われるのも同じような理由で、深月由鶴(みつゆづる)という名前のせいだ。ミツキユヅル。ミツキのミツを蜂蜜の蜜と捉えて、ハニーと呼ぶのだ。もちろん、自称したことはないし認めたこともないし、気に入ってるはずもない。はいはい、どうぞ笑えば?

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