振り返って、接吻
ここから会社まではそう遠くない。宇田もそれを知って、呼び出しているのだろうし。
夜も深くない時間のわりに、道にそれほど車は走っていなかった。
信号も調子よく進み、景色が流れるように窓に映る。車内は無音だ。音楽も流さず、ほんのわずかに聞こえる外の音を聞く。
15分程度車を走らせれば、毎日通っている俺らの会社が見えてきた。まわりも同じような建物が並んでいて、ここはいわゆるオフィス街。
道中に、自分の実家が経営している一際立派なビルのひとつが見えて、なんともいえない気持ちになる。親の背中はあまりにも遠くて、学生までは当たり前に与えられてきたものの偉大さを知る。
そのまま慣れ親しんだ自分の会社に車を停めて、運転席から宇田に電話をかける。履歴のいちばん上。
1コールで『もしもし?ダーリンだよ』と鳥肌が立つようなことを言ってきた宇田の声が、俺の足りない部分を満たしていく。
「いま地下の駐車場ついたからはやく来て」
それだけ伝えて、気持ち悪い言葉を返される前に通話を切った。
あいつとの会話はなるべく少なくないと俺の寿命がもたない。ちなみにこれは決して、断じて、ロマンスのあるドキドキという意味ではないから間違えないように。
乗馬みたいなブーツを履いた宇田が見えたので、俺は車を出してそちらに寄せた。立ち止まる宇田の表情にはいつものようにへらりと薄い笑みが貼られていなくて、少し疲れているみたいだ。
「いきなりごめん、ありがとうね、ハニー」
「そう思ってるなら深月って呼べば?」
「ハニー、お酒買ってかえろ」
いつでも宇田を迎えに行けるよう、烏龍茶を飲んだ俺。それを分かっているこの女は、シートベルトを締めながらようやく笑った。
だってもし、俺と離れているときにこいつに何かあって、駆けつけることができなかったら?どんなに小さなことでも、俺は必ず後悔する。
俺は酒が飲めないわけじゃない。でも、宇田と離れているときにわざわざ飲酒しようとは思わないし、そうなると必然的に宇田としか酒を飲む機会がない。ほんと良い部下だよね、俺って。