振り返って、接吻
こうして朝から上司に根こそぎ精神力を奪われているのに、ほんと、よく仕事続けてるよね。自分に拍手を送りたい。ついでにあの女の口を縫いたい。
まあ、どうせ口を縫ったところで、声以外の何かで俺の精神力を削り落とすに違いない。そうでなきゃ、とっくにミシンで細かく丁寧に縫い付けている。
9時をまわったことを確認し、ようやく仕事に専念しようと指の関節を鳴らす。これは悪癖。
それと同時に、控えめなノックが聞こえた。相手を見るために視線を投げることもせず、「どうぞ」と応えると、ドアが開いて聞き慣れたヒールの音が副社長室に響いた。
「副社長、おはようございます」
「うん、おはよう」
秘書の千賀がどこか驚いたように俺を一瞬見て、冷静さを取り戻すように素早く持っていたタブレットに視線を落とす。
「本日のスケジュールは——、」
彼女の声を適当に聞き流しながら、パソコンを立ち上げる。早くひとりになって仕事したいけど、彼女もこれを伝えるのが仕事なのだから仕方ない。
いつも通りきちんと聞かない俺を咎めることもなく、千賀は今日のプレゼンについて説明している。なんか、秘書って大変そうだな。俺とか宇田とかに付き添って働くの、まともな人間ならやってられないと思う。
茅根は同類だからいいとして、千賀は俺らよりも若いし。もう少し労ってあげようと思わないこともない。
ふと、あの気色悪いコンビも今頃社長室で同じようなことをしているのだろうか、と考えた。奴らは異様に息が合うから、もっと楽しくやるのかもしれない。
きっと茅根はお得意の甘ったるい仕草で、今日の仕事内容を説明するのだろう。あいつこそハニーなんじゃないの。
余計なことを思い出したせいで、胃がむかむかして気分が悪くなった。慰謝料とらなきゃ。
「本日のスケジュールはこのようなもので、」
「そう、ありがとう」
「はい、それと、あの、」
まだ話したいことがあるようなので、「なに?」と促す。興味は一切ないけど、マナーかなと思って。