5回目のコール
5回目のコール 1話
重く暗い空が静かに、オレンジに染まりかけ、町並みがゆっくりと色つき始めた。
白く乾いた路地に、素早くすっと深い暗緑色の影が伸び、冷たく短い一日がようやく始まろうとしている。砕けたガラスのような粉雪が、秋のちからない朝日を受けて輝きながら、音もたてずに銀箔の衣をまとった蝶の様に、ちらりちらりと揺れながら舞うように降り続いている。
まるで参拝に向かう様な寂しげな長い人の列の繋がりが、俯きながら会社の中に静かに飲み込まれていく・・・。
岡崎と薫。二人は同じ会社の社員で、札幌のとある中堅IT関連会社の社員だ。
岡崎はそのとある会社の決して2枚目とは言えないが、いわゆる新進気鋭の独身プログラマーというやつで、開発部に属していた。
薫は、そのとある会社に、最近入社したばかりの数少ない女子社員の一人、ちょっと綺麗な女の子で、総務部に属していた。
もちろん独身である。
それは昼休み、会社の食堂での出来事である。
まだ人の数少ない広い食堂。
静かな食堂の古く丸い時計は12時を少し過ぎていた。
その時、岡崎がその食堂で一人、食事をしている薫に近づいたのだった。
岡崎は総務にちょっと綺麗な女の子が最近入社したのは知っていた。
そして誰から聞いたのか、彼自身にすら、すでに記憶は無かったのだが、そのちょっと綺麗な女の子がいつも昼休み食堂で一人、寂し気にうどんを食べていることも彼はその時には知っていた。
そのちょっと綺麗な女の子である薫に、その日、岡崎がさりげなく近づいただけだった。
たださりげなく。その日、その時の彼に特別な下心はなかったはずだった。
「こんにちは」
岡崎が手にしていたお盆の上の掛けうどんに眼を落としながら、そう言って笑顔で薫の向かいに腰を掛けると、彼女は最初そんな彼の笑顔に若干警戒心を見せ、ただ黙ったまま、素早く彼のネームプレートを見ただけだった。
すると、その名前は「開発課・岡崎」。それが社内で評判の、新進気鋭のプログラマーだと、彼女はすぐに気が付いた。社内の少ない女の子達からよく聞く名前だった。(それほどいい噂でもなかったが・・・)。
「いつもうどんかい?」そう言った彼の頭の中はその時、全く他の事、午前中に組んだプログラムに関する事で一杯だった。
岡崎は落としていた眼をあげ、まっすぐと薫を見つめた。
彼は社内の女子社員は、一通り声をかけていた。
総務部といえば、何気なく優子に声を掛けたら本気になられて振り切るのに一苦労したことがあった。
しかしそう言った彼が、その後の言葉を失ってしまったのだ。
岡崎は、あげた自身の眼に映った薫が思った以上に美しく見えたため、あろうことか尻込みしてしまったのだ。
二人は少々気まずい空気に包まれた。
その時の薫は、清楚な紺のスーツに真っ白なワイシャツを着ていただけである。
岡崎にはその清潔な美しさは、自分には手を付けられないような処女の気もした。
そんな彼女に声をかけた自分が犯罪者の様にさえ思われた。
しかし、真直ぐに彼を見つめていた薫のその黒くて大きな瞳は、間違いなく妖しげな女の色を宿し、長く肩に流した黒髪とその豊かな胸は、思わず、桃色の輝く様な彼女の裸体を思わせ、彼の視線を一目で彼女に釘付けにしてしまっていた。
そんな岡崎を見つめていた薫は、彼の眼が何を言っているのかすぐに気が付いた。
彼の視線の色がすべてを物語っていた。
彼女はそんな男の視線には慣れていたはずだったが、なぜか彼のその優しい視線、言葉は最近一人で淋しく過ごしていた彼女の心にまで優しく響き、彼女の胸中に少しの期待と少しの喜びと、それに少しの不安を呼び起こしていた。
「おいしいですよ・・・」
しかし、彼女は自分の気持ちを押し隠すように、そっけなく言い、敢えて無関心を装ってしまった。(それが彼女の本心ではなかったことは明らかで、そのことがこの物語の悲劇を生んだことも明らかだった。)
「仕事の方はどう?女の子が少ないから大変だろう?」
岡崎は出来立てのうどんに手を付けられずに、薫を見つめたまま苦しまぎれにようやく尋ねた。
しかし彼女は固く口を閉ざし、流れ出て行きそうな自分の感情を堰き止めようと、何となく微笑んだだけだった。
しかしそんな薫の微笑みは、岡崎の心に妖しくさえもある紺色の薔薇の花に映り、一目でその紺色の薔薇に、彼の心は奪われてしまっていた。
そろそろ会社の食堂は休憩時刻のピークにかかり、ざわついてきていた。
集まった人の会話がまるでセミの鳴き声の様に入り乱れてくるようだった。
同じ部署の女子社員の顔も少し見えてきた。
この会社では数少ない女子社員が男性社員と二人きりで食事をしていたら、どんな噂が立つか知れたものではなかった。
相手が「新進気鋭のプログラマー」となると尚更である。
早速、優子が横目を流していった、彼女も総務部だった。
薫は何も言わずにもう一度なんとなく微笑むと、自分の中に湧き上がる切ない思いを振り切る様に立ち上がり、食べかけのうどんの載ったお盆を持って、何も言わずに振り返り、行ってしまった・・・。
岡崎はそんな薫を、大きく開いた紺色の薔薇が散っていくような思いで見つめ、その彼女の後ろ姿、肩にかかる輝く長い黒髪を見つめていた。
そしてその時のそんな二人を、少し離れた席で一部始終、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、美人、おんな人事部長の真知子が面白そうに見つめていたのだ。
その日、何時もと変わらない1日を終え、流れ出ていくような人波の中に混じりこんで会社から帰ろうとする時、薫はなんとなく何時もより憂鬱だった。何時もより・・・、というより何時もと違った憂鬱さだったのだ。そんな日の彼女は、いつもバスに乗る道を一人で歩いて帰るのだった。西の空に鳴きながら飛んでく黒い一匹のカラスを見つめながら・・・。その道は部屋までバスだと5分で着くのだが、歩くと30分以上はかかる道だ。もう、すでに日は暮れかけて、オレンジの夕日が彼女にはすこしまぶしかった。街の中のまだ灯かない街灯の影が、誰も歩かない黒い道に、斜めに寂しく伸びていた。その帰り道、バス通りの途中、薫はなんとなくその店に入っていった。真っ直ぐと帰りたくない日、少し憂鬱なそんな日に、何時も寄りたくなるその店。
バス通りに面している、一軒のそのボロボロの雑貨店。
彼女が幼い頃からそこにあった、一軒のボロボロの雑貨店だった。雑貨店だと思っていた。彼女の幼い頃からボロボロだったので、彼女はその頃から少し気になっていた。最近になって何故か時々、ちょっと憂鬱なそんな日に足が向くようになったのだ。
真っ直ぐと帰りたくない帰り道、ちょっと憂鬱なそんな帰り道に、何となく薫は寄りたくなるのだった。そのボロボロの雑貨店・・・。
じつは喫茶店だった。
そしてその日、いつもの様に、その店の深い木目の古く重いドアを、彼女は音をたてないように静かに開けた。すると美しいママがカウンターの向こうから突然振り向き、澄んだ奥深い緑の瞳で薫を見つめた。
「いらっしゃいませ・・・」ママはまるで、客など予想していなかったかのような戸惑いようだった。薫は彼女を見つめると、そのママの美しさに戸惑ってしまった。そして「ボロボロ喫茶の澄んだ瞳の美人ママ・・・。」そんなことを思いながら、店に入っていった。
「あら、あなただったの・・・」そんな彼女に、少し拍子抜けしたようにママは言った。
店の中には3つの円形テーブルがおしゃれに配置され、カウンターには3つの椅子が並んでいた。その一つのテーブルに何も言わずに着席しようとした薫は、その時、夕食をしていない事を、ふと思った。
そして取り敢えずママに言った。
「コーヒーとセットで何かある?」席に着きながら薫は聞いた。
彼女は、本当はコーヒーが苦手だった。
彼女にとってコーヒーは、幼い頃飲んだオブラートに包まない風邪薬の様だった。
要するにただ苦かった。
しかしコーヒーを注文しないとママが怒るのだった。
「ごめんなさい食事は、今日はもう終わっちゃったの、飲み物しかないわ」
その日、ママがそう言った。それを聞いて恐る恐る薫は言った。(コーヒーはもう注文したのだ・・・。)
「じゃあ、オレンジジュースでいいわ・・・」
「・・・・・」彼女は少し顔をしかめて薫を見つめた。
「仕方がないわね・・・」ママは取り敢えず今日のところは許すことにした。
内心ホッとして席に着いたまま薫はあたりを見渡した。そこにはいろいろな下手くそな手作りアクセサリーのようなものが窓際に山のように並び、それ以上に下手くそな絵が3枚ほど店の壁に飾られていた。しかしそこにゴッホの絵が掛かっていたとしても、ピカソの絵が掛かっていたとしても、彼女は下手くそな絵だと思っただろう。
しばらくすると、ママがオレンジジュースを持ってくると薫の座ったテーブルの前にそっと置いて、薫の表情を見つめながらママが優しく言った。
「何かあったの」そう言われても薫の目は、横に立っているママの顔を見ようとしなかった。
「何もないわよ」彼女はそう言って、テーブルの上のオレンジジュースを手に取ると、ママから目をそらせたままオレンジジュースにささっている白のストローを口にくわえた。ママは少し薄く口紅を塗った彼女の柔らかい唇の左側を少し持ち上げて、ちょっと微笑んだようだった。
「その顔は仕事じゃなさそうね・・・。」彼女は薫をいたわる様な優しい声でそう言うと、その透き通る様な美しい瞳で薫を見つめ、自分から目をそらせようとする薫の横に立ち、その瞳を追いかけた。そんな美しい天使の様なママの瞳は、薫の心の中に入り込んで来るようだった。
「自分の気持ちに素直にならなきゃだめよ」ママがそっと言った。
「・・・・・・」しかし薫は黙ったままだった。
「あなたはね・・・」ママがもう一度、言いかけた。
「やめて!」薫の顔は紅潮していた。
彼女はその天使のような瞳で薫を見つめながら半分あきれたように言った。
「まあ、好きにすればいいわ・・・。その心でもって一生苦しめばいいのよ」
そしてママは振り向き、カウンターのむこうに歩いて入っていくと腰を掛けて、細く美しい足を組みタバコをくわえて火をつけた。
「・・・・・」結局、薫はストローをくわえたまま黙ったままだった。
ママもそれ以上、彼女に何も言わなかった。が、彼女には薫が何を悩んでいるのかは手に取るように見えていた。
そしてそれがこの後の彼女の人生にどうのように響いてくるのかも眼に映る様だった。(それが何故かは、あえて語らない・・・。)
しばらくし、薫がオレンジジュースを半分残したまま店を出ると、秋の暮れかけた街中はすでに冷え込み、空は暗く、紫色に染まっていた。
少し歩き、バス通りから離れると、住宅街にはいつのまにか寂しげに街灯も灯いていた。薫は思わず街灯を見上げた。
そして、うつむくと、薄暗い夜道に映る自身の影を踏みつけながら薫は一人で歩き続けた。
部屋に着くと、振り向いて声をかけようとした認知症の症状の見え始めた母に、何も言わずに、彼女は二階の自分の部屋に上がった。
そして前の会社のボーナスで買った、通勤用に使っている白のグッチの鞄を床におもいっきり投げつけ、着替えもせずにベッドの上の天井を見つめて大の字におおきく横になった。
少しの間、天井を見つめていたが、しばらくすると目を瞑った。
そして何も考えずに、しばらく目を瞑ったままベッドの上に手足を広げて転がっていた。
すると何故か前の会社で付き合っていた男のことが脳裏に浮かんできた。「散々だったのだ。しばらく男は・・・」そう思っていたはずだった。「しばらく男は・・・」彼女は思いかけた。でも今度は「新進気鋭のプログラマー・・・」、そう「新進気鋭・・・」、そうなのだ「新進気鋭」。薫は目を開けつぶやいた。
「あの男に賭けてみようかしら」
彼女は鬼のような表情で自身の中の発作的な思いでつぶやいていた。
確かなことはその思いは恋愛という思いではなかったことだった。
その時の薫の心にはあの時のママの想いはとどいていなかった。
彼女は3時の休憩時間に岡崎がいつも休憩室で一人、コーヒーを飲んでいることを知っていた。
白く乾いた路地に、素早くすっと深い暗緑色の影が伸び、冷たく短い一日がようやく始まろうとしている。砕けたガラスのような粉雪が、秋のちからない朝日を受けて輝きながら、音もたてずに銀箔の衣をまとった蝶の様に、ちらりちらりと揺れながら舞うように降り続いている。
まるで参拝に向かう様な寂しげな長い人の列の繋がりが、俯きながら会社の中に静かに飲み込まれていく・・・。
岡崎と薫。二人は同じ会社の社員で、札幌のとある中堅IT関連会社の社員だ。
岡崎はそのとある会社の決して2枚目とは言えないが、いわゆる新進気鋭の独身プログラマーというやつで、開発部に属していた。
薫は、そのとある会社に、最近入社したばかりの数少ない女子社員の一人、ちょっと綺麗な女の子で、総務部に属していた。
もちろん独身である。
それは昼休み、会社の食堂での出来事である。
まだ人の数少ない広い食堂。
静かな食堂の古く丸い時計は12時を少し過ぎていた。
その時、岡崎がその食堂で一人、食事をしている薫に近づいたのだった。
岡崎は総務にちょっと綺麗な女の子が最近入社したのは知っていた。
そして誰から聞いたのか、彼自身にすら、すでに記憶は無かったのだが、そのちょっと綺麗な女の子がいつも昼休み食堂で一人、寂し気にうどんを食べていることも彼はその時には知っていた。
そのちょっと綺麗な女の子である薫に、その日、岡崎がさりげなく近づいただけだった。
たださりげなく。その日、その時の彼に特別な下心はなかったはずだった。
「こんにちは」
岡崎が手にしていたお盆の上の掛けうどんに眼を落としながら、そう言って笑顔で薫の向かいに腰を掛けると、彼女は最初そんな彼の笑顔に若干警戒心を見せ、ただ黙ったまま、素早く彼のネームプレートを見ただけだった。
すると、その名前は「開発課・岡崎」。それが社内で評判の、新進気鋭のプログラマーだと、彼女はすぐに気が付いた。社内の少ない女の子達からよく聞く名前だった。(それほどいい噂でもなかったが・・・)。
「いつもうどんかい?」そう言った彼の頭の中はその時、全く他の事、午前中に組んだプログラムに関する事で一杯だった。
岡崎は落としていた眼をあげ、まっすぐと薫を見つめた。
彼は社内の女子社員は、一通り声をかけていた。
総務部といえば、何気なく優子に声を掛けたら本気になられて振り切るのに一苦労したことがあった。
しかしそう言った彼が、その後の言葉を失ってしまったのだ。
岡崎は、あげた自身の眼に映った薫が思った以上に美しく見えたため、あろうことか尻込みしてしまったのだ。
二人は少々気まずい空気に包まれた。
その時の薫は、清楚な紺のスーツに真っ白なワイシャツを着ていただけである。
岡崎にはその清潔な美しさは、自分には手を付けられないような処女の気もした。
そんな彼女に声をかけた自分が犯罪者の様にさえ思われた。
しかし、真直ぐに彼を見つめていた薫のその黒くて大きな瞳は、間違いなく妖しげな女の色を宿し、長く肩に流した黒髪とその豊かな胸は、思わず、桃色の輝く様な彼女の裸体を思わせ、彼の視線を一目で彼女に釘付けにしてしまっていた。
そんな岡崎を見つめていた薫は、彼の眼が何を言っているのかすぐに気が付いた。
彼の視線の色がすべてを物語っていた。
彼女はそんな男の視線には慣れていたはずだったが、なぜか彼のその優しい視線、言葉は最近一人で淋しく過ごしていた彼女の心にまで優しく響き、彼女の胸中に少しの期待と少しの喜びと、それに少しの不安を呼び起こしていた。
「おいしいですよ・・・」
しかし、彼女は自分の気持ちを押し隠すように、そっけなく言い、敢えて無関心を装ってしまった。(それが彼女の本心ではなかったことは明らかで、そのことがこの物語の悲劇を生んだことも明らかだった。)
「仕事の方はどう?女の子が少ないから大変だろう?」
岡崎は出来立てのうどんに手を付けられずに、薫を見つめたまま苦しまぎれにようやく尋ねた。
しかし彼女は固く口を閉ざし、流れ出て行きそうな自分の感情を堰き止めようと、何となく微笑んだだけだった。
しかしそんな薫の微笑みは、岡崎の心に妖しくさえもある紺色の薔薇の花に映り、一目でその紺色の薔薇に、彼の心は奪われてしまっていた。
そろそろ会社の食堂は休憩時刻のピークにかかり、ざわついてきていた。
集まった人の会話がまるでセミの鳴き声の様に入り乱れてくるようだった。
同じ部署の女子社員の顔も少し見えてきた。
この会社では数少ない女子社員が男性社員と二人きりで食事をしていたら、どんな噂が立つか知れたものではなかった。
相手が「新進気鋭のプログラマー」となると尚更である。
早速、優子が横目を流していった、彼女も総務部だった。
薫は何も言わずにもう一度なんとなく微笑むと、自分の中に湧き上がる切ない思いを振り切る様に立ち上がり、食べかけのうどんの載ったお盆を持って、何も言わずに振り返り、行ってしまった・・・。
岡崎はそんな薫を、大きく開いた紺色の薔薇が散っていくような思いで見つめ、その彼女の後ろ姿、肩にかかる輝く長い黒髪を見つめていた。
そしてその時のそんな二人を、少し離れた席で一部始終、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、美人、おんな人事部長の真知子が面白そうに見つめていたのだ。
その日、何時もと変わらない1日を終え、流れ出ていくような人波の中に混じりこんで会社から帰ろうとする時、薫はなんとなく何時もより憂鬱だった。何時もより・・・、というより何時もと違った憂鬱さだったのだ。そんな日の彼女は、いつもバスに乗る道を一人で歩いて帰るのだった。西の空に鳴きながら飛んでく黒い一匹のカラスを見つめながら・・・。その道は部屋までバスだと5分で着くのだが、歩くと30分以上はかかる道だ。もう、すでに日は暮れかけて、オレンジの夕日が彼女にはすこしまぶしかった。街の中のまだ灯かない街灯の影が、誰も歩かない黒い道に、斜めに寂しく伸びていた。その帰り道、バス通りの途中、薫はなんとなくその店に入っていった。真っ直ぐと帰りたくない日、少し憂鬱なそんな日に、何時も寄りたくなるその店。
バス通りに面している、一軒のそのボロボロの雑貨店。
彼女が幼い頃からそこにあった、一軒のボロボロの雑貨店だった。雑貨店だと思っていた。彼女の幼い頃からボロボロだったので、彼女はその頃から少し気になっていた。最近になって何故か時々、ちょっと憂鬱なそんな日に足が向くようになったのだ。
真っ直ぐと帰りたくない帰り道、ちょっと憂鬱なそんな帰り道に、何となく薫は寄りたくなるのだった。そのボロボロの雑貨店・・・。
じつは喫茶店だった。
そしてその日、いつもの様に、その店の深い木目の古く重いドアを、彼女は音をたてないように静かに開けた。すると美しいママがカウンターの向こうから突然振り向き、澄んだ奥深い緑の瞳で薫を見つめた。
「いらっしゃいませ・・・」ママはまるで、客など予想していなかったかのような戸惑いようだった。薫は彼女を見つめると、そのママの美しさに戸惑ってしまった。そして「ボロボロ喫茶の澄んだ瞳の美人ママ・・・。」そんなことを思いながら、店に入っていった。
「あら、あなただったの・・・」そんな彼女に、少し拍子抜けしたようにママは言った。
店の中には3つの円形テーブルがおしゃれに配置され、カウンターには3つの椅子が並んでいた。その一つのテーブルに何も言わずに着席しようとした薫は、その時、夕食をしていない事を、ふと思った。
そして取り敢えずママに言った。
「コーヒーとセットで何かある?」席に着きながら薫は聞いた。
彼女は、本当はコーヒーが苦手だった。
彼女にとってコーヒーは、幼い頃飲んだオブラートに包まない風邪薬の様だった。
要するにただ苦かった。
しかしコーヒーを注文しないとママが怒るのだった。
「ごめんなさい食事は、今日はもう終わっちゃったの、飲み物しかないわ」
その日、ママがそう言った。それを聞いて恐る恐る薫は言った。(コーヒーはもう注文したのだ・・・。)
「じゃあ、オレンジジュースでいいわ・・・」
「・・・・・」彼女は少し顔をしかめて薫を見つめた。
「仕方がないわね・・・」ママは取り敢えず今日のところは許すことにした。
内心ホッとして席に着いたまま薫はあたりを見渡した。そこにはいろいろな下手くそな手作りアクセサリーのようなものが窓際に山のように並び、それ以上に下手くそな絵が3枚ほど店の壁に飾られていた。しかしそこにゴッホの絵が掛かっていたとしても、ピカソの絵が掛かっていたとしても、彼女は下手くそな絵だと思っただろう。
しばらくすると、ママがオレンジジュースを持ってくると薫の座ったテーブルの前にそっと置いて、薫の表情を見つめながらママが優しく言った。
「何かあったの」そう言われても薫の目は、横に立っているママの顔を見ようとしなかった。
「何もないわよ」彼女はそう言って、テーブルの上のオレンジジュースを手に取ると、ママから目をそらせたままオレンジジュースにささっている白のストローを口にくわえた。ママは少し薄く口紅を塗った彼女の柔らかい唇の左側を少し持ち上げて、ちょっと微笑んだようだった。
「その顔は仕事じゃなさそうね・・・。」彼女は薫をいたわる様な優しい声でそう言うと、その透き通る様な美しい瞳で薫を見つめ、自分から目をそらせようとする薫の横に立ち、その瞳を追いかけた。そんな美しい天使の様なママの瞳は、薫の心の中に入り込んで来るようだった。
「自分の気持ちに素直にならなきゃだめよ」ママがそっと言った。
「・・・・・・」しかし薫は黙ったままだった。
「あなたはね・・・」ママがもう一度、言いかけた。
「やめて!」薫の顔は紅潮していた。
彼女はその天使のような瞳で薫を見つめながら半分あきれたように言った。
「まあ、好きにすればいいわ・・・。その心でもって一生苦しめばいいのよ」
そしてママは振り向き、カウンターのむこうに歩いて入っていくと腰を掛けて、細く美しい足を組みタバコをくわえて火をつけた。
「・・・・・」結局、薫はストローをくわえたまま黙ったままだった。
ママもそれ以上、彼女に何も言わなかった。が、彼女には薫が何を悩んでいるのかは手に取るように見えていた。
そしてそれがこの後の彼女の人生にどうのように響いてくるのかも眼に映る様だった。(それが何故かは、あえて語らない・・・。)
しばらくし、薫がオレンジジュースを半分残したまま店を出ると、秋の暮れかけた街中はすでに冷え込み、空は暗く、紫色に染まっていた。
少し歩き、バス通りから離れると、住宅街にはいつのまにか寂しげに街灯も灯いていた。薫は思わず街灯を見上げた。
そして、うつむくと、薄暗い夜道に映る自身の影を踏みつけながら薫は一人で歩き続けた。
部屋に着くと、振り向いて声をかけようとした認知症の症状の見え始めた母に、何も言わずに、彼女は二階の自分の部屋に上がった。
そして前の会社のボーナスで買った、通勤用に使っている白のグッチの鞄を床におもいっきり投げつけ、着替えもせずにベッドの上の天井を見つめて大の字におおきく横になった。
少しの間、天井を見つめていたが、しばらくすると目を瞑った。
そして何も考えずに、しばらく目を瞑ったままベッドの上に手足を広げて転がっていた。
すると何故か前の会社で付き合っていた男のことが脳裏に浮かんできた。「散々だったのだ。しばらく男は・・・」そう思っていたはずだった。「しばらく男は・・・」彼女は思いかけた。でも今度は「新進気鋭のプログラマー・・・」、そう「新進気鋭・・・」、そうなのだ「新進気鋭」。薫は目を開けつぶやいた。
「あの男に賭けてみようかしら」
彼女は鬼のような表情で自身の中の発作的な思いでつぶやいていた。
確かなことはその思いは恋愛という思いではなかったことだった。
その時の薫の心にはあの時のママの想いはとどいていなかった。
彼女は3時の休憩時間に岡崎がいつも休憩室で一人、コーヒーを飲んでいることを知っていた。
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