凄腕外科医は初恋妻を溺愛で取り戻す~もう二度と君を離さない~【極上スパダリの執着溺愛シリーズ】
はからずも「あーんして」の恩恵にあずかることのできた俺は大満足でそれを口にする。
「うん、うまい」
味がどんなものかわかる前にそう口をついてでたけれど、嘘じゃない。茉由里に食べさせてもらったものがまずいはずかない。
「ほんと? おいしいよね、日本でも食べられるのかなあ」
「近くの輸入食品スーパーに行ってみるのはどうだ? 台湾なんかでもよく食べられているらしいから、輸入されているかも」
「わ、いいね。行ってみよう」
ワクワクした表情が茉由里に浮かぶ。
きっと茉由里は知らないと思う。気がついていないはずだ。彼女の表情が、雰囲気が、少しずつちょっとずつ、以前の……なんの障害もなく付き合って婚約したころのものに戻っていっていると。
信頼に満ちた目。
俺が最も欲しかったものが目の前にあって、俺はこの幸福をどう表したらいいのか全くわからない。
今日向かうのは、グレートバリアリーフに浮かぶ小さな島だ。
「正確には、砂洲らしいが」
ケアンズの港を出た高速艇が、潮風を切り走る。塩味さえついていそうな濃厚な海風だった。抱っこされている祐希が気持ちよさそうに目を細めた。そんな祐希の髪の毛を整えてやりつつ茉由里が言う。
「さす? ああ、砂に州? 川なんかにできてるやつだね」
茉由里の白いティアドロップ型のワンピースが潮風にたなびく。首元で光るのは、昨日プレゼントしたバロックパールだ。
彼女が俺が贈ったもので身体を装うたびに、なんとも言えない満足感で胸がいっぱいになる。きっと独占欲の一種なのだろうけれど、それだけではないような気もする。
「そうだ。白砂や、白く砂状に砕けた珊瑚の死骸でできているらしい」
縦こそ四百メートルほどあるものの、幅は一メートルもない。そんな小島はグレートバリアリーフ観光の拠点であり、同時に海鳥のオアシスでもあった。
小島が見えてきたあたりで高速艇からミニボートへと乗り換える。この船では浅瀬まで入ることができないためだ。
「うわあ……」
祐希をぎゅっと抱きしめて、茉由里が目を輝かせる。透明で鮮やかなブルーの海に浮かぶ白い砂浜。引いては寄せる波、潮騒が耳に心地よい。ボートが着岸すると同時にカツオドリが何羽も飛び立つ。黒い体にミントグリーンの嘴が目に鮮やかだった。祐希が「ヒヨコ」と呟く。思わず茉由里と目を合わせる。
「えー、いま祐希、ひよこって言った? すごい」
「祐希、ひよこ。ほら言ってごらん」
カツオドリがどう見てもヒヨコでないのは棚に上げ、祐希から出た新しい単語にふたりではしゃぐ。
スタッフから上陸の許可が出て、まず俺が降りた。整備された港ではなく、砂浜に乗り付けているだけのため、下りた場所も足首が浸かる程度だけれど海の中だ。
茉由里から祐希を受け取り、片手に抱っこして茉由里に手を差し出す。茉由里は少し恥ずかしそうにしつつも俺に手を伸ばし、エスコートされるように船から降りた。
シュノーケリングを楽しむ観光客が、ガイドに続いて海へと向かうのを横目に見つつ、家族連れやカップルは浅瀬ではしゃいだり写真を撮っている。
「三十分もすれば別の船が迎えにくるから、それまで浜辺で遊んでいようか」
祐希に声をかけて、彼の膝くらいまでの浅瀬で遊ぶ。念のため、祐希だけスタッフから渡されたライフジャケットを着せていた。
「え、祐希見てごらん、お魚! わ、こっちは鮫! どうしよう宏輝さん、鮫!」
「落ち着け茉由里、それは人を襲わないやつだから」
かなりおとなしい種類の、十五センチ程度の鮫だった。茉由里が「へえ」と目を瞬く。
「じゃあ、少し観察しても大丈夫? 噛まない?」
「大丈夫だ。噛んだとしても血も出ないと思う」
茉由里は祐希と手を繋ぎ、ワクワクした様子で鮫を見守っている。どこまでも透明な、本当に水が存在するかもわからないような美しい浅瀬でその小さな鮫が身を翻す。そうしてすいすいと沖の方に泳いでいってしまった。
「しゃめ……」
またもや俺と茉由里はバッと祐希を見つめる。いまのは「さめ」でいいだろう。
「さめ? さめさん行っちゃったね祐希。おっきなお魚」
祐希は「うーん」と言って明後日の方向に手を振る。
「ばーい」
「ばいばいさめさーん」
茉由里もニコニコと手を振り、それから俺を見上げて眉を下げ笑う。
「なんか、旅行きてから一気に言葉が増えた気がする」
「刺激が強いんだろうなあ」
「あとで熱を出さないといいけど」
「こちらで小児科医をしている日本人の知人がいる。一応連絡はしておいたから」
「そうなの? ありがとう」
茉由里が目を瞬く。祐希は海水の中の白砂を手で掬うのが面白くなったらしく、夢中で手にしてはきゃはきゃはと笑っていた。
「感触が面白いのかな? 砂場とは違うよね」
顔を上げて茉由里が微笑んだとき、祐希が俺のTシャツの裾を引く。
「ん?」
「しゃめ」
また鮫が来たのかと足元を見れば、日差しのゆらめきが見える透明な海の中を小さな海亀がすいっと泳いで去っていく。
「どうしたの?」
「海亀がいて。祐希が教えてくれた」
「え! 見たい」
茉由里が慌ててあたりを見回すものの、どこへ行ったのか見当たらない。残念そうにする茉由里の手を取り微笑む。
「大丈夫、きっと見れるから」
不思議そうにする茉由里に海原を示す。今から乗る予定の海中展望船だった。
半潜水型のその船は、両側に大きな窓があり海中の様子を観察することができる。海中散歩気分を味わいながらランチ、という予定だったのだけれど……。
グレートバリアリーフの珊瑚礁を彩る鮮やかな魚たちが青く澄み切った水の中をひらひらと泳いでいく。さっきいたのより大きな鮫やエイ、日本ではあまりみかけない形状の魚など。祐希も茉由里もかぶりついて見ているせいでランチは二の次になっているようだ。
俺は頬を緩ませアイスコーヒーを口にしつつふたりをこっそりとスマホで撮影する。その様子に気がついた茉由里がはにかむ。
「変わらないね、宏輝さん」
「なにが?」
「自分の好きなことより……今は祐希もだけど、私の楽しめることを優先してくれるところ?」
「君なんか基本的に他人優先じゃないか。俺よりも、ずっと」
「え、……そう?」
ん、と微笑んで髪の毛を撫でた。
名前も知らない他人の命を救うためだと言われ、俺の前から姿を消した。
「しゃめ! しゃめ!」
祐希が興奮して叫んで、目をやれば大きな海亀が悠々と泳いでいくところだった。茉由里がわあ、と手を口元に当てて目を輝かせる。それだけで俺はここに来てよかったと心から思える。
翌日からは動物園でコアラを抱っこしたり、カンガルーの保護施設を訪れたりと「オーストラリアらしい」ことをしつつビーチウォークなど子どもも楽しめるアクティビティをして過ごした。
「よかったあ、熱出なかったね」
日本に着いて入国手続きもつつがなく済み、あとは帰宅するだけという段になり、荷物を抱えて駐車場へ向かう通路で、ひとりの中年男が立ちはだかってきた。反射的に祐希を抱っこした茉由里を庇い二人の前に立つ。
「上宮宏輝さんですね?」
煙草で枯れたと思しき年齢の割に嗄れた声と狡賢そうな眼光。軽く眉を寄せて返事の代わりにすれば、男は下卑た笑い方をしてスマホを俺に向けてくる。アプリで録音してあるのだろう。その仕草で男が週刊誌の記者ではないかと頭に浮かんだ。