源次物語〜未来を生きる君へ〜

第33話〈東京大空襲〉

 3月10日……その日はとても寒くて空気が乾燥した風の強い日だった。
 0時08分……最初の焼夷弾が深川に雨のように降り注いだ。
 江東区・墨田区・台東区一帯を中心に周囲を囲むように次々投下され、強風も伴ってあっという間に広範囲に燃え広がっていく……
 344機のB-29が来襲し、約2時間半の間に投下した弾量は約32万発……
 約1700トンもの焼夷弾が東京に降り注いだ「東京大空襲」は、下町の人情に溢れる密集した木造家屋を一瞬のうちに火の海にした。

 空襲警報が発令されたのは0時15分……
 僕達は外に飛び出したが、空襲警報は鳴っていなかったのでラジオを聞いていない者は知らないようだった。

「そんな……空が明るい……昼間みたいだ」

「なんや……空襲警報の前に攻撃されとるやんけ」

 油脂焼夷弾は六角形の鉄筒の中にゼリー状のガソリン等が入った38本の筒が束ねられ、落下する途中に飛び散って炎の筒が屋根などに突き刺さって燃えていく。
 まとめたものがバラバラになって火がついたまま地上に降ってくるので、遠くから見ると火の雨のようだった。
 深川方面の空は真っ赤で……どんどん東の空が赤くなっていった。

ウゥゥーーーーウゥゥ
ウゥゥーーーーウゥゥ

「なんじゃあ今頃! 空襲来た後に鳴ってどないすんねん!」

 僕達は純子ちゃん達が心配で、急いで播磨屋に走った。
 もしもの時用に色々詰めたカバンをひっさげ、御茶ノ水駅前の橋を駆け抜けて自分でも信じられない速度で走り続け……歩いて30分以上かかった道を10分で駆け戻った。

「大変だ! 2階が燃えてる!」

 播磨屋の中に入ると1階にも火がつき始めていたが、幸い階段は燃えていなかったので急いで家じゅうを探した……が、純子ちゃん達はいなかった。

「多分、その床下の防空壕や! 俺は念の為そこの小学校行って聞いてくる!」

 ヒロの指差した1階の居間の畳を上げると……下に簡素なフタ付きの防空壕があった。

「純子ちゃん、みんな? よかった~ここにいたんだね」

「源次さん?」

「早く、ここから逃げるんだ!」

「でも逃げないで火を消しなさいって……」

「2階に火がついてる! 1階も燃え始めてる! こんな所にいたら出られなくなって蒸し焼きになるよ!」

「でも……」

「逃げていい! 自分を守るためなら堂々と逃げていい! 君達には生きててもらわなきゃ困るんだ! 君は僕達の希望なんだよ!!」

「希望……?」

「純子! 来い!!」

 僕は、おずおずと伸ばしていた純子ちゃんの手を強く握って引き上げた。

 防空壕の奥にいた静子おばさんと浩くんも外に連れ出した頃、ヒロが帰ってきた。

「よかった~みんなやっぱりここにおったか~さっき小学校行ったら、もう定員いっぱいやって入れてもらわれへんかったんや……はよどっかに逃げるで!」

 純子ちゃん達に水で濡らした布団をかぶらせ、数が足りないので僕はそのまま出ようとしたら……純子ちゃんから玄関にあった僕が昔あげた傘を「せめてコレ使って!」と渡された。

「とりあえず川の方に逃げるで?」

 神龍小学校近くの鎌倉橋の方に向かって走り出すと純子ちゃんが……

「そっちに行っちゃ駄目! 前に……」 

ダダダダダダダダダダッ

「危ないっ!」

 ものすごい機銃掃射の嵐で橋にいた人達が一斉に撃たれた。
 橋の周りには人が殺到していて……川に飛び込む以前に渡るのも危険だった。

 炎の中で逃げ惑う人達が行き交い、どこに逃げたらいいのか分からない……
 その時ヒロが、近くにあったコンクリート建てのアパートの地下室に入る扉を閉めようとしている人を見つけた。
 
「すんません! 小学校に行ったらもういっぱいや言われて……入れてもらえまへんか?」

「こっちだっていっぱいだよ! 他、当たってくれ!」

 そのおじさんは、そう言うと鉄製のドアを完全に閉めてしまった。

「どうしよう……僕のアパートの近くなら大きい防空壕があるけど、行くには遠すぎるし……人が殺到している橋を渡るのは危険だし」

「だったら、うちの女学校に行きましょう! 立派な講堂があるの……歩いて15分位だけど、あそこなら頑丈な建物だから大丈夫なはずだわ!」

「風向きを読みながら逃げ続ければ辿り着けるかもしれない! 行こう!」

 僕は走りながら傘で降りかかる火の粉を遮ぎっていたが……火の勢いがすごくて走り出してすぐ燃えてしまい、道端に捨てるしかなかった。

「源次さんに貰った思い出の傘が……あ……どうしよう……ない……二人に貰った誕生日お祝い持ってきてない……すぐに持ち出せるよう防空壕の木箱に入れておいたのに、みんな燃えちゃう……取ってくる!」

「そんなのどうでもいいじゃないか!」

「どうでもよくない! なんで黙ってたの? 今日が最後かもしれないって……あれは私の宝物なの! もし……もし二人がいなくなってしまったら、あれしか形見がないの!」

「言っただろ! 君が……」

「希望なの! 二人が描いた『未来を生きる君へ』は後世に残さなきゃいけない、絶望しているみんなの希望の物語なの! 今ならまだ間に合うから取ってくる!」

 その時、静子おばさんが……

「待って、母さんが行く! 母さんもお父さんの大切な位牌を置いてきてしまったの……一緒に持ってくるから、あなた達は早く逃げなさい!」

「おばさん! 戻ったら危ないです!」

「大丈夫! すぐ戻って純子の学校に必ず行くから……二人を……お願いね?」

「じゃあせめて……この布団を二重に被っとって下さい」

「僕、お母ちゃんと行く~」

「浩! お姉ちゃんと一緒に先に行きなさい!」

「お母ちゃーん! お母ちゃーん!!」

「純子ちゃん、浩くん、早く行こう!」

 ヒロが浩くん、僕が純子ちゃんの手を引いて走り出そうとすると……前に憲兵が立ちはだかった。

「おいお前ら、逃げるな! 早く火を消せ~もっと水とバケツを持ってこい!」

「こんなもんで消せるわけあるかい!」

「踏みとどまって消火しろ! この非国民が!」

「あんたも逃げんと、ほんまに死ぬで?」

「俺は火を消すよう命令されたんだ……命令は絶対だ……簡単に消せるはず……」

 バケツで水を掛けていたが、消えるどころか益々激しく燃え上がっていく……

 ふとさっき通った場所を見ると、アパート近くに焼夷弾が落ちて鉄の扉が爆風と熱でひしゃげでいた。

「出られないー! 出してくれー!」

「今、開けます! 熱っ……」

 ヒロと二人でドアを開けようとしたが、鉄製の扉の取っ手が想像以上に熱を持っており……
 二人とも手に酷い火傷をしてしまったが、渾身の力を込めた。
 
「せ~のっ、開けーーー!!」

「駄目だ……ビクともしない……このままやと純子達が危ない! 源次、ほら行くぞ!」

「え、でも……………………すみません!!」

「待ってくれ~置いてかないでくれ~」

シャーーーシャーーー
 束ねられていた焼夷弾がバラバラに広がる音がした後に……
ヒューーーードゥオーーーン
 ……というどこかに落ちた衝撃と熱波がやって来る。
 銀色の大きな飛行機が見えて、そこから次々に焼夷弾が落ちて……まるで空からガソリンをまいて火をつけられたのと同じだ。
 油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾や高温・発火式のエレクトロン焼夷弾などおびただしい量の焼夷弾の雨が降り、逃げ惑う市民には超低空から機銃掃射が浴びせられた。
 エレクトロン焼夷弾は地上に落ちてから花火の親玉のように炸裂して金属をも溶かす高温と火花を飛び散らせ……コンクリート製の不燃性の高い建物などにも突き刺って激しく燃えた。

 僕達は火の雨の中を必死に逃げた。
 ヒロは浩くんと僕は純子ちゃんと……一つの布団を二人で被り、お互いはぐれないように手を繋いで走った。
 辺り一面火の海で地面も燃えていて……熱風だけでなく黒煙がすごい勢いであがっているので布団の端で口を覆っていないと息ができない。

 焼夷弾は音と光だけは、まるで花火のようだった。
 本当の花火だったら幸せな気持ちで空を見上げているはずなのに……目の前にあるのは地獄のような光景と信じられない熱さと恐怖の断末魔の叫びだった。
 猛火の中で退路を断たれた人達が右往左往、逃げ惑う……

「小さな公園じゃ駄目だ! 2月の空襲で焼けた場所ならそれ以上燃えない! それか燃え移るものがない広い公園に逃げろ!」

「風下に逃げちゃ駄目だ! 関東大震災の時は風上に逃げた人が助かったんだ!」

「どっちに逃げたらいいの?」

「ヒィーアァァー」
 
「オカアチャーンどこ? オカアチャーン!!」

「こっちはもう駄目だー!」

「ギィャャァァーアヅイー!!!」

 火と熱風により逃げ場を失った人達に次々に火が燃え移り……
 あっという間に燃え広がって全身火だるまでのたうち回りながら断末魔の声を上げ、やがて動かなくなっていく……

 小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注いだ焼夷弾は、子供を背負った母親や上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さって即死……
 そのまま爆発的に燃え上がり、周囲の人々を巻き添えにするという地獄のような光景がそこらじゅうに広がっていた。

 走り出して大分経った先に辿り着いた場所は火の勢いが弱くて安心したが……逃げる途中の道端の防空壕を覆っているトタンが青白い炎を立てて燃えていた。
 中にいる者は多分……

「こっちよ……講堂までもうすぐ……」

 希望が見えてきたその時、ヒロ達が通ろうとした側で燃えていた電柱が倒れてきた。

「ヒロ! 浩くん! 危ない!!」
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