源次物語〜未来を生きる君へ〜

第41話〈最後の願い〉

 8月に入っても空襲は続き、8月1日に新潟の長岡・富山、8月5日に群馬の前橋・高崎で空襲があり、九死に一生を得た人もいた。

 そして1945年8月6日午前8時15分……
 朝から晴れ間が広がっていたその日、人類史上初の原子爆弾が広島に落とされた。
 原子爆弾は目も眩む閃光を放って中心温度100万度の火球を作り、秒速440mの灼熱の爆風が爆心地周辺の全てを吹き飛ばした。

 直後に巨大なキノコ雲が発生……爆心地周辺の地表の温度は鉄が溶ける1500度を遥かに越した3000~4000度にも達し、熱線による自然発火と倒壊した建物からの発火で大火災が発生して爆心地から半径2km以内は完全に焼失……

 爆心地にいた方達は一瞬で炭化して黒焦げの塊となり、周辺地域の屋内にいた者は熱線は免れても爆風で吹き飛んだ大量のガラス片を浴びて重傷、倒壊した建物の下敷きで圧死や延焼で焼死……
 強烈な熱線で皮膚は焼けただれ、周辺地域では指の先に皮膚が垂れ下がった状態の人々が水を求めて彷徨い歩き、川は大勢の遺体で埋め尽くされた。
 「水が飲みたい」という最後の願いは、ほとんど叶わなかった。

 亡くなった乳飲み児を胸に抱き締めた女性、親兄弟を泣きながら探し歩く子供、水道の蛇口近くで息絶えた老人……
 全身やけど状態で一生懸命近付いて来る人物が自分の家族だと分からず、逃げた後でそれが家族だったと知った者もいたそうだ。

 原子爆弾から放出された大量の放射線は長期間にわたり人体に深刻な影響を引き起こし、直後に降った放射性物質を含む「黒い雨」を浴びた人や家族を助けに来て放射線を浴びた人の中には、放射線障害により胎児に影響が出たり白血病やがんを発症して亡くなる方が続出し……

 結局、年末までに広島では35万人のうち約14万人が死亡してしまった。

 8月7日には愛知・豊川空襲、8月8日には福岡・八幡大空襲……
 同日8月8日にソ連対日宣戦布告があり、翌9日に150万の軍が一斉に国境を越えて侵攻……

 そして1945年8月9日午前11時2分……
 長崎に2つ目の原子爆弾が投下され、人類史上最悪な悲劇が繰り返されてしまった。
 長崎では爆心地から1km以内の地域の家屋が原型をとどめないほど破壊され、年末までに24万人のうち約7万4000人が死亡してしまった。
 黒焦げとなった少年や赤ん坊を背負った黒焦げの女性……爆風、熱線、放射線が襲う想像を絶する地獄……直前まで慎ましくただ一生懸命に暮らしていた人達が、一瞬にして生きたまま焼かれた。

 焼け野原となった長崎は、この先70年草木は生えないだろうと言われていたが……約1ヶ月後には草木が芽吹き、人々は生きる希望を見出したという。

 広島では原爆投下後の夜、大勢の負傷者たちが避難した死臭や血の匂いが漂う地下室で、「赤ちゃんが生まれる」との声を聞いた人々が自分の痛みを忘れて妊婦を気遣い……
 大やけどをしてうめき声をあげていた助産師が自らの命を顧みず、赤子を無事に取り上げたそうだ。

 助けたくても助けられなかった沢山の命が失われた地獄で生まれた新しい命……
 どんな状況でも生き物には生命力があり、人は人を助けようとする。
 人の優しさこそ未来の命を救う希望なのではと思った。

 百里原海軍航空隊では8月3日に第十航空艦隊第十五連合航空隊が新編、転入され決戦体制に移行していた。
 百里原で再編成された第六〇一海軍航空隊は『第四御盾隊』と命名され、百里原基地から直接8月9日、13日、15日に出撃することとなり……僕は8月15日の編成メンバーになった。

 ヒロが僕を出撃させないよう上官にお願いしに行ったところ「そんな腑抜けな事を言う奴に飛ぶ資格はない」と自身の出撃は禁じられ、僕が出撃することに決まったらしい。
 ヒロは何度も僕に謝ってきたが、元々ヒロに決まったら代わろうと思っていたので純子ちゃんとの約束を守れそうで安堵した。

 最後の機体は「彗星」……後方の偵察員とともに出撃する二人乗りの艦上爆撃機だった。

 同期の仲間に何も知らせないで出撃するのは「仲間はずれ」みたいで嫌だから、土浦にいる平井くんに届くかどうか分からない手紙を送った。

 あっという間に8月14日の夜になり……ヒロと過ごせる最後の晩に何を話そうか悩んでいると、ヒロがふと呟いた。

「今年は1945年で昭和20年か……今はこんな時代でも、いつかは平和な世の中になるんかのう……今日の21時のニュースで明日の正午に天皇陛下が自らラジオ放送して下さるって言っとったけど、何じゃろうのう……」

「昭和か……本当は『国民の平和や世界各国の共存繁栄を願う』という意味が込められた名前なのにな……」

「そうなんか? それは知らんかった……源次は時々、先生みたいなことを言いよるのう……こんな時代やなかったら、先生になってそうじゃ……大学の教授にもなれそうやな」

「せや、俺の秘密、今のうちに話しとくな……お前、初めての授業で俺の鉛筆拾ってくれたやろ? あの時わざと落としたんや……思い出すかな思て」

「なんで? 何を?」

「お前は覚えてへんかもしれんけど受験の時お前と俺は偶然、隣の席でな……試験が始まる前に消しゴムを忘れて慌てている俺に、自分の消しゴムを半分に折って渡してくれたんや」

「全然、覚えてない……」

「お前は試験中に自分の消しゴム途中で落として、俺はこっそりお前に返そうとしたけど……ごっつ集中して試験に取り組んで、一回も消しゴム使いたそうな素振りせえへんかった…………そして二人とも合格した」

「そうだったんだ……」

「ありがとうな源次……俺はお前に恩返しがしたいって、ずっと思ってたんや……だから俺が言ったくだらない冗談でお前が笑ってくれるのか本当に嬉しかった。実はな…………何でもない……」

「ヒロ……こちらこそ、今までありがとね……」

 僕は伝えたいことがありすぎて、涙が止まらなくて……その日の夜は一睡もできなかった。

「そうか……僕は明日、死ぬのか……」

 深い絶望と色んな想いが込み上げてきて、母さんや純子ちゃん、ヒロや平井くんへの最後の手紙を書いていたら、あっという間に夜が明けてしまったが……

 8月15日の朝になって驚いた。
 掲示板の下に僕の名前入りの編成表が落ちていて、壁の編成表の中にヒロの名前があったから……

 僕は急いで上官に会いに行き、落ちていた紙を見せながら尋ねた。

「これってどういう事ですか? 本当の事を教えてください!」

「実はな、高田……先月、篠田が『絶対に高田を出撃させないで下さい』と頭を下げに来たんだ……『もう二度と仲間を失いたくないから』と…………お前だけは『絶対に失いたくないからお願いします』と懇願されたよ」

「自分一人が編成メンバーになると、あいつはどんな手を使っても自分と代わろうとするから……高田を編成メンバーとして発表して、当日入れ替えにしてくれって」

 通常だったらそんなお願いは聞き入れてもらえないが、人の懐に入るのがうまいヒロの人柄によるものだろう……

「そ、んな…………何だよそれ!」

 僕は急いで部屋に戻り、紙を見せながらヒロを問い詰めた。

「これってどういうこと?」

「おはよう源次……ってなんや気付いてしもたんか……やっぱり俺に出さしてくれって頼んどいたんや! 俺にはもう家族がいないから俺が行った方がええんじゃ!」

「何だよそれ……俺にはもう家族がいない? ずっと言うのを我慢してたんだけどさ、純子ちゃんという血を分けた従兄妹がいるだろ! お前の未来の嫁さんになるかもしれない、大切な家族がいるだろ!」

「純子ちゃんだって家族を失ったけど諦めずに一生懸命生きてる……親も弟も亡くして、なぜあんな細い身体でもう一度立てたか分かるか? お前がいたからだよ! お前の事が好きだからだよ! お前は生きてあの子の元に戻らなきゃいけないんだよ!」

「お前は、ほっんまにニブイ奴やな! 純子が男として好いとるのは源次……お前や! お前が純子の隣におらんとあかんねん」

「でも駅伝の時も卒業式の前日も、二人は熱い抱擁をしてたじゃないか!」

「アレは俺の最後の悪あがきじゃ……って見とったんか、恥ずかし……あいつの性格はよう分かっとる……恥ずかしがり屋の純子が人前で抱きついてきた時も卒業式前日に泣いてた時も思い知らされたわ……異性として意識されてへん兄弟のような存在なんやって」

「昨日も言ったやろ……俺はお前に恩がある……今こそ、その恩を返したいんや……実はな、受験に落ちたら俺は戦地に行く話になっとんたんや……兵役法では志願によって17歳からやから」

「そんなの志願しなければいいじゃないか!」

「生みの親がいない俺は、学生っちゅう肩書がなかったら志願しないとあかんって近所の人から店に嫌がらせされてな…………落ちてたら前線に送られてもっと早く死んどったかもやけど、源次のおかげで大学受かって楽しい思い出沢山できたわ…………俺が今日まで生きてこれたんは、お前のおかげなんだ……だから源次、お前には生きてて欲しいんだ!」

「そ、んな……」

 ヒロは僕の手紙を持ってきて読んだ。

「それに何やこれ! 僕はずっとヒロと一緒にいたかった? 純子ちゃんと一緒に生きていたかった? どうかヒロと幸せになって下さいって? こんな手紙書いて、勝手に諦めて……純子が本当に好きなのはお前だ! 待ってるのはお前だ! お前が純子を幸せにするんだよ!」

 一晩悩んで書いた手紙はビリビリに破かれた。

「残念だったな……この手紙の言葉は全部、自分で直接伝えろ」

 僕はカッとなって咄嗟にペンを探した。

「お前と俺のペンは隠した! お前、そんなに俺と絶交したいんか?」

「違うよ! 僕だって同じなんだよ……ヒロに……たった一人の親友に、ただ生きてて欲しいだけなんだ!」

「お前から、そんな言葉が聞けると……は……なっ」

 僕はヒロに思いきり左目の上を殴られた。

 みるみる腫れていき視界が遮られる。
 きっと今、上官に会ったら出撃を止められるだろう……

「いつかのおかえしや……これでお前は出撃でけへん。代わりに俺がいく!」

「お前には純子を幸せにする義務があんねん……ずっと好きやったんやろ? なのに俺に気を使うて自分の気持ち隠して…………これからはもっと正直に、素直に生きなあかんで? ほな行ってくるわ」

「待ってよヒロ……行かないでくれ」

「今までおおきにな源次……お前の言葉……めっちゃ嬉しかったわ」

「待っ……て…………」

 僕は殴られた事による目眩と過度の興奮と寝不足がたたって、その場に倒れてしまった。
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