帝国支配目前の財閥御曹司が「君を落とす」と言って、敵方の私を手放してくれません
かりそめの恋のあとで~芙優side~
午前11時。
店のシャッターを上げると、歩道を温め始めた日差しとともに、いつもの商店街の風景が目に飛び込んだ。
まだ昨晩の快楽の余韻が重く体の底に沈んでいるような感覚。
ちょっと体を動かすと、ふと、一晩中抱かれながら全身に与えられた甘やかな愛撫を思い出して体が疼いてしまう。
隣の店のレイナさんが顔を出した。
「昨夜はどうだった?」
「もう、ほんとあんなこと、初めてで…」
「どうしたら君を落とせる?」そう言った時の大我の真剣なまなざしを思い出すと、胸がぎゅっと苦しくなって、膝の力が抜けて崩れ落ちてしまいそうになる。
一夜限りの逢瀬と心に決めたのに、彼のことで頭がいっぱい。あまりの住む世界の違いにこれ以上会う事を拒んだけど、そんなに意固地にならなくても良かったのかもしれない。
逃した魚は大きいとはこのことか。焼き上がった鯛焼きをトングでつまんでじっと見る。
昨夜出会った大我とのいきさつを話すと、レイナさんは目を丸くして乗り出した。
「すごい、それって白馬の王子様!連絡先交換してないの」
「うん」
「あんた、バカ?」
「住む世界がちがうもん」
「そんなこと関係ないよ。芙優は彼のことどう感じたの」
「素敵。スマートだし優しいし、強引だけど、自分の気持ちにまっすぐで。あれ以上一緒にいたら、好きがとまらなくなっちゃいそうだった」
「好きがとまらなくなっちゃえばいいじゃん」
甘やかに響く低い声。昨日耳元でなんども囁かれたその声が突然聞こえて、はっとして顔を上げた。
今朝別れた時とはまた違う色味の、上質なスーツを纏った大我が、店の前に立ってにっこりとほほ笑んでいる。
「大我さん、どうしてここに?」
「仕事で近くに来た。芙優に逢いたくて」
今の会話、聞かれてた。恥ずかしくてどきどきする。
「ひとつちょうだい」
そう言われて焼きたてを小さな紙に包んで手渡すと、手に持ったまま食べるんだよね、なんて聞くから、やっぱり住む世界の違いを痛感してしまう。
「うま…」
一口食べて目を丸くして微笑むと、クールな顔立ちが急に甘やかになった。
「ちょっとこの子、借りていいですか」
大我は爽やかな笑顔でレイナさんに言って、私の腕をつかんだ。
「ええどうぞどうぞ。店は見てますから」
レイナさんは大きくうなずくと、私たちの背中を押して店の奥の座敷に促し、からからと仕切り戸を閉めてしまった。
お茶を用意しようと奥の台所に進もうとした私の手を取って、大我は膝まづいた。
「改めて告白しに来た。芙優。俺と付き合って」
私は古い座敷を見回して言った。
「こんなに小さくてボロい家だけど、私にとってはここが一番のお城なの。大我さんと私は住む世界が違う」
「でも俺は芙優がいいんだ。芙優が言ってた通り、俺は自分の気持ちにまっすぐな男だ。簡単には諦めない」
大我さんはずるい。見上げるその目は真剣なのに、その奥には甘える子犬のような愛くるしさが潜んでる。
───私も大我さんが好き
熱のこもった告白を受けて、嬉しさと緊張で、力が入らない。ゆるゆると頷いて、小さな声でよろしくおねがいしますとつぶやくと、腕を引かれ抱きしめられた。
唇がゆっくりと近づいて来る。
直後、がらりと勢いよくガラス戸が開け放たれ、とっさに弾かれたように身体を離した。
車を運転していた男性が、息を切らして言った。
「失礼します、副社長、社長が…」
ただならぬ青ざめた表情だ。私は大我と蒼白の男性の顔を交互に見た。
「病院に搬送されたそうです」
「芙優、ごめん、また連絡する」
慌てた様子で大我は走り去って行った。
「大我さん、副社長なんだ…」
仕立てのいいスーツ、上品な身のこなし、高級ホテルのスイートルーム。やっぱり彼は住む世界が違う人だ。
*
その夜、美丘市役所の都市計画課の課長と、隣の店「鳥壱」の店主である商店街会長との話し合いがあった。
会長に同席を頼まれていた私は、会合場所の「鳥壱」の二階の座敷を尋ねた。
「再開発計画を見直してください。駅直結のタワーマンションには新規の住民を誘引するとありますが、これまで住んでいる人たちへの配慮が一切ありません」
必死に説く私を前に、都市計画課長はにこにこと愛想笑いを顔に貼り付けて聞いている。なのに、こちらがわの意見には一向に首を縦に振らず、どんな角度から説得しようとも頑なに役所の主張を繰り返してくる。
「建物の一階に設置する各専門のクリニック、デイサービス、保育所は、現在お住まいの皆さんにも利用いただけるものです」
都市計画課長は私をなだめようとするかのように穏やかに言った。
「確かに利用できるでしょうけど、明らかに新しいクリニックは新しい住民のためのものでしょう?じっさい、私たちのかかりつけのお医者さんは立ち退きを迫られて移転したんですよ?…」
都市計画課長は相変わらず同じ微笑を浮かべたままだ。何を言ってものらりくらりとはこのことだ。
話し合いは平行線をたどり、打ち合わせ時間も終了となった。
課長が場を辞すると、「鳥壱」店主の商店街会長は、こわばった表情を緩めて微笑んだ。
「芙優ちゃんは俺らの思いをちゃんと伝えてくれて、助かるよ。俺たちにはアタマもないし、年も年で、元気もないときた。今は芙優ちゃんだけが頼りだ」
「会長、そんな弱気にならないで?私は鳥壱の味をずっと守りたいの。鯛焼き屋も、この商店街も」
会長は頭の後ろを手でかきながら呟く。
「今日の昼なんかも、芙優ちゃんと副社長が直談判するのを見て、申し訳なくてなぁ」
「直談判ってなんのこと?」
「来てたじゃないか。次期社長が。あいつぁ駅前再開発の建設会社を持つ財閥グループの御曹司だろう」
「御曹司?あのひと鳳条財閥のひとなの?」
そうか…彼の狙いはそれだったのか。
───「どうしたら落とせる?」
───「簡単には諦めない」
大我が言った言葉がいま、違った意味を持って私の中に響いた。
私の中でどうにも腑に落ちなかったことが、ひとつひとつ繋がりあって一つの像を結んだ。
膠着状態が続いている再開発計画を推し進めるために、建設会社の次期社長は反対派リーダーの私を陥落しようとしているのだ。
店のシャッターを上げると、歩道を温め始めた日差しとともに、いつもの商店街の風景が目に飛び込んだ。
まだ昨晩の快楽の余韻が重く体の底に沈んでいるような感覚。
ちょっと体を動かすと、ふと、一晩中抱かれながら全身に与えられた甘やかな愛撫を思い出して体が疼いてしまう。
隣の店のレイナさんが顔を出した。
「昨夜はどうだった?」
「もう、ほんとあんなこと、初めてで…」
「どうしたら君を落とせる?」そう言った時の大我の真剣なまなざしを思い出すと、胸がぎゅっと苦しくなって、膝の力が抜けて崩れ落ちてしまいそうになる。
一夜限りの逢瀬と心に決めたのに、彼のことで頭がいっぱい。あまりの住む世界の違いにこれ以上会う事を拒んだけど、そんなに意固地にならなくても良かったのかもしれない。
逃した魚は大きいとはこのことか。焼き上がった鯛焼きをトングでつまんでじっと見る。
昨夜出会った大我とのいきさつを話すと、レイナさんは目を丸くして乗り出した。
「すごい、それって白馬の王子様!連絡先交換してないの」
「うん」
「あんた、バカ?」
「住む世界がちがうもん」
「そんなこと関係ないよ。芙優は彼のことどう感じたの」
「素敵。スマートだし優しいし、強引だけど、自分の気持ちにまっすぐで。あれ以上一緒にいたら、好きがとまらなくなっちゃいそうだった」
「好きがとまらなくなっちゃえばいいじゃん」
甘やかに響く低い声。昨日耳元でなんども囁かれたその声が突然聞こえて、はっとして顔を上げた。
今朝別れた時とはまた違う色味の、上質なスーツを纏った大我が、店の前に立ってにっこりとほほ笑んでいる。
「大我さん、どうしてここに?」
「仕事で近くに来た。芙優に逢いたくて」
今の会話、聞かれてた。恥ずかしくてどきどきする。
「ひとつちょうだい」
そう言われて焼きたてを小さな紙に包んで手渡すと、手に持ったまま食べるんだよね、なんて聞くから、やっぱり住む世界の違いを痛感してしまう。
「うま…」
一口食べて目を丸くして微笑むと、クールな顔立ちが急に甘やかになった。
「ちょっとこの子、借りていいですか」
大我は爽やかな笑顔でレイナさんに言って、私の腕をつかんだ。
「ええどうぞどうぞ。店は見てますから」
レイナさんは大きくうなずくと、私たちの背中を押して店の奥の座敷に促し、からからと仕切り戸を閉めてしまった。
お茶を用意しようと奥の台所に進もうとした私の手を取って、大我は膝まづいた。
「改めて告白しに来た。芙優。俺と付き合って」
私は古い座敷を見回して言った。
「こんなに小さくてボロい家だけど、私にとってはここが一番のお城なの。大我さんと私は住む世界が違う」
「でも俺は芙優がいいんだ。芙優が言ってた通り、俺は自分の気持ちにまっすぐな男だ。簡単には諦めない」
大我さんはずるい。見上げるその目は真剣なのに、その奥には甘える子犬のような愛くるしさが潜んでる。
───私も大我さんが好き
熱のこもった告白を受けて、嬉しさと緊張で、力が入らない。ゆるゆると頷いて、小さな声でよろしくおねがいしますとつぶやくと、腕を引かれ抱きしめられた。
唇がゆっくりと近づいて来る。
直後、がらりと勢いよくガラス戸が開け放たれ、とっさに弾かれたように身体を離した。
車を運転していた男性が、息を切らして言った。
「失礼します、副社長、社長が…」
ただならぬ青ざめた表情だ。私は大我と蒼白の男性の顔を交互に見た。
「病院に搬送されたそうです」
「芙優、ごめん、また連絡する」
慌てた様子で大我は走り去って行った。
「大我さん、副社長なんだ…」
仕立てのいいスーツ、上品な身のこなし、高級ホテルのスイートルーム。やっぱり彼は住む世界が違う人だ。
*
その夜、美丘市役所の都市計画課の課長と、隣の店「鳥壱」の店主である商店街会長との話し合いがあった。
会長に同席を頼まれていた私は、会合場所の「鳥壱」の二階の座敷を尋ねた。
「再開発計画を見直してください。駅直結のタワーマンションには新規の住民を誘引するとありますが、これまで住んでいる人たちへの配慮が一切ありません」
必死に説く私を前に、都市計画課長はにこにこと愛想笑いを顔に貼り付けて聞いている。なのに、こちらがわの意見には一向に首を縦に振らず、どんな角度から説得しようとも頑なに役所の主張を繰り返してくる。
「建物の一階に設置する各専門のクリニック、デイサービス、保育所は、現在お住まいの皆さんにも利用いただけるものです」
都市計画課長は私をなだめようとするかのように穏やかに言った。
「確かに利用できるでしょうけど、明らかに新しいクリニックは新しい住民のためのものでしょう?じっさい、私たちのかかりつけのお医者さんは立ち退きを迫られて移転したんですよ?…」
都市計画課長は相変わらず同じ微笑を浮かべたままだ。何を言ってものらりくらりとはこのことだ。
話し合いは平行線をたどり、打ち合わせ時間も終了となった。
課長が場を辞すると、「鳥壱」店主の商店街会長は、こわばった表情を緩めて微笑んだ。
「芙優ちゃんは俺らの思いをちゃんと伝えてくれて、助かるよ。俺たちにはアタマもないし、年も年で、元気もないときた。今は芙優ちゃんだけが頼りだ」
「会長、そんな弱気にならないで?私は鳥壱の味をずっと守りたいの。鯛焼き屋も、この商店街も」
会長は頭の後ろを手でかきながら呟く。
「今日の昼なんかも、芙優ちゃんと副社長が直談判するのを見て、申し訳なくてなぁ」
「直談判ってなんのこと?」
「来てたじゃないか。次期社長が。あいつぁ駅前再開発の建設会社を持つ財閥グループの御曹司だろう」
「御曹司?あのひと鳳条財閥のひとなの?」
そうか…彼の狙いはそれだったのか。
───「どうしたら落とせる?」
───「簡単には諦めない」
大我が言った言葉がいま、違った意味を持って私の中に響いた。
私の中でどうにも腑に落ちなかったことが、ひとつひとつ繋がりあって一つの像を結んだ。
膠着状態が続いている再開発計画を推し進めるために、建設会社の次期社長は反対派リーダーの私を陥落しようとしているのだ。