悲劇のフランス人形は屈しない

告白

5月ももう終わる頃だが、早朝はまだ肌寒い。
私は上下灰色の服に身を包み、規則的に息を吐き出しながら、公園のジョギングコースを何周か回っていた。数週間前には新品だった運動靴も、クローゼットの異色の新入り、グレーのパーカーとスウェットパンツももうだいぶ着心地が良くなっていた。
本日の目標5周を終え、私ははあはあと息を吐いた。走り始めた時に比べて、だいぶ体力が付いてきた。学校が終わり、妹が帰宅する時間までに、腹筋、背筋、腕立て伏せを行い、空いている手で握力グリップを握りながら、授業の復習として伊坂が毎日出す宿題をこなす。週末になると、公園に人が少なく、そして妹も起床しない時間帯の早朝ランニングに行くのが日課となっていた。
なるべく、あの散々苦しめられた筋肉痛が酷くならないよう、慎重に筋トレやストレッチを行っているが、今まで全く負荷をかけて来なかった透の体は、毎日どこかしら痛い。
「しかし、だいぶ慣れたもんだ・・・」
私はストレッチをしながら、全身の筋肉が動く感覚を味わう。
「ごめんね、るーちゃん。でも郡山に打ち勝つには、これしかないんだ」
まだ筋肉痛が残る二の腕をさすりながら、私は呟いた。
「さて、帰りますか」
うんと最後に伸びをし、帰路につこうとしたその時、前から小型犬が全速力で走ってきた。
「うおっ!」
思わず驚いて飛び退いてしまった。
「・・・威勢の良い犬だな」
犬の後ろを眺めていたが、途中で犬はぴたっと止まり、向きを変えて私の方へ引き返してきた。そして私の近くまで来ると減速し、ふんふんと鼻を鳴らしながら、足下のニオイを嗅いでいる。
「野良・・・?でも、ないか」
目の前の白いポメラニアンは、きちんと首輪がされている。美しい毛並みからして、きちんと丁寧に手入れをしてもらっている犬だと分かった。リードがだらりと垂れた様子を見ると、飼い主の隙を突いてすり抜けて来たようだ。
「わんこ、名前は?」
ホネの形をしたネームプレートには「ゴン」と彫られていた。
「ゴンちゃんね」
そう呼ばれると嬉しそうにふさふさの尻尾を振った。
「お家はどこかな?」
そう言いながらネームプレートの裏側を見てみる。
「ん~書いてないね」
私は体を起こし、飼い主を探そうと辺りをキョロキョロと見渡すが、数人のジョガーが走っている以外見当たらない。
「心配してると思うし、探そうか」
ゴンにそう言い、犬が走ってきた道を戻る。
しばらくすると、遠くの方から「ゴンや~、ゴンや~」と声が聞こえてきた。
飼い主との距離を考えると、この犬は相当爆走したらしい。
「あ、ここにいます!」
私は向こうの方から歩いて来る年配の女性のところまで駆けて行った。エネルギーがまだ有り余っているゴンも、嬉しそうに飛び跳ねるようにして走る。
「ああ、ゴンや。勝手にいなくならないでおくれ。親切なお嬢さま、ありがとうございました」
上品な着物に身を包んだ推定年齢70代の老女が、丁寧に私に頭を下げた。
「いえいえ」
私もつられて頭を下げた。
「本当にやんちゃな子でして。今日は私も用事があるのに、ずっとドアのところで鳴くので少しだけ、と散歩に来たのですが、途中でリードが・・・」
「なるほど」
そう言いながら私はリードを老女に渡した。
「本当に助かりました。何かお礼をしたいのですが、この辺にお住まいの方?」
目元の皺を寄せ、優しい笑顔で老女が聞いた。
「え、いや、お礼なんて・・・。この子が私の足下に来たので連れてきただけで、何も」
「あら、足下に?」
「はい、とても良い子でした。あ、そろそろ失礼しますね」
日が高くなって来たと気づいた私は、慌てて頭を下げ、急いでその場から立ち去った。
「元気な子ね」
その場に取り残された老女は一人呟いた。そして、足下で少し疲れ気味のゴンに向かって言った。
「あなたが懐くなんて、信じられない。あの子が好きなの?」
「ワン!」
ここに来て一番大きな声で、ゴンは鳴いた。
「そう。また会えると良いわね」
老女はふふと笑うと、来た道を引き返した。
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