悲劇のフランス人形は屈しない
やかんのお湯が沸き、私は火を止めた。
数種類あるハーブティーの中から、心を落ち着けるカモミールを選び、ゆっくりとお湯を注いだ。ふわっと甘い爽やかな香りが広がった。
(落ち着け、自分)
背後に感じる視線のせいで、手が震えているのが分かった。
(もう後戻りは出来ない)
二人分の透明のカップにカモミールティーを注ぎ、興味津々で見つめてくる妹の目の前に置いた。
「お姉さまにお茶を淹れていただく日が来るなんて」
まどかは、まじまじと黄金色の液体が入ったカップを見つめる。
「これは何のお茶?」
「カモミールティー。飲んだことない?」
私はまどかの向かいに腰かけた。
「初めて」
「心を落ち着ける効果があるの」
(そう、まさに今の私に必須!)
ハーブティーに少し蜂蜜を加えてあげ、妹に「どうぞ」と促す。
妹はカップに口をつけ、ゆっくりと一口含んだ。
(パントリーにはハーブティーがいくつか置いてあったけど、母親用なのか?)
初めて飲むという妹の言葉に驚いていた。
「美味しいわ」
「良かった」
私も口を付けるが、これから尋問が始まると思うと、緊張して手の震えが止まらない。ハーブティーの効果はいつ頃効いてくるのだろう。
そんなことを考えていると、妹がずばりと切り出した。
「それで、貴女は一体だれ?」
9歳とは思えない威圧感のある眼差しに気圧されて、思わず私は本当のことを口走っていた。
「杉崎凛子、26歳。倉庫作業中に事故死して、起きたらるーちゃんの体にいました」
「にじゅう…?」
本当に知らない人間が姉の中にいたことに驚いたのか、まどかは一瞬黙った。
「…貴女、死んだの?」
私は頷いた。
「起きたら「非フラ」の世界にいたから、夢だろうと思っていたけど」
全てが現実だった。痛みも温もりも全てが五感を通して生きている。
「ひふらの世界って?」
「ここは、漫画の世界なの。悲劇のフランス人形という題名で、主人公の白石透の人生を描いた、ウェブ漫画の世界。私は生前、この漫画を読んでいた」
そう言いながらも、傍から聞いたら頭がおかしいと思われるだろう、と冷静な自分が悟っている。
ああ、どうしよう。精神科とか連れて行かれたら・・・
「その漫画には、全てが描かれていたの?家族や友人のことも?」
妹が私の顔を凝視しながら聞いた。
「全て、という訳じゃないけど。まあ、登場人物はほぼ全員」
(ただ、伊坂さんはいなかった気がするんだけどな・・・)
ふと最近友達になった一般家庭の伊坂を思い出した。
「素敵!!」
妹がいきなり声を上げた。
「これが、あの有名な転生ってやつね!」
私の目が点になった。
「え?」
「あれよね?現世で命を落とした主人公が目覚めたら、ファンタジーの世界でお姫様になっていたり、はたまた勇者として活躍したり。私、お母様の目を盗みながら、沢山読み漁ったの!とても夢があって、ドキドキしたわ」
昨日まであんなに大人しかった妹はどこへ行ったのか。すこぶる饒舌の上、目を輝かせている。これが本当の姿なのかと思うと、普段は自分を押し殺している妹に少し心が痛んだ。
「それで貴女は?この世界で、どんな冒険を繰り広げるの?」
「え、ええと。冒険はするつもりないけど」
妹は途端に寂しそうな表情する。
「そうなの・・・」
「でも、目標はある。必ず高校を卒業すること」
「え?」
聞き返すまどか。
「るーちゃんは…白石透は漫画の中では、卒業が出来なかった」
残酷な部分は飛ばして事実だけ伝える。幼い子にそこまでの詳細は惨い気がした。
「それから、透を貶めてきた子たちに制裁を下す」
「おとしめて・・・?」
「白石透はいつも傷だらけだった。だから、私がなんとかしたいと思って」
「つまり、お姉さまが救われるようにと?」
私は頷いた。
「今、るーちゃんの魂がどこにあるのか、そもそも存在していたのかも分からないけど。この物語を悲しいまま終わらせたくない。本当にそれだけ」
喉を潤すために、一口ハーブティーを呑んだ。妹は何やら考えて込んでいるように、顎に手を当てて聞いた。
「・・・貴女は、この先どんな風にお話が進んでいくのは知っているの?終わりまで見えているの?」
鋭いところを突いてくる妹に、私は言葉を詰まらせた。
そしてしばらく沈黙したあと、頷いた。
「それを私に教えたりは?」
私は首を横に振った。
「どうして?」
「それは・・・」
あまりに惨いから。あまりに悲しすぎるから。
いつか、まどか自身も姉である白石透を裏切る一人になるなんて言える訳がない。
「私は、元々の原作のまま過ごすつもりはないの」
「つまり?」
「行動を変えて、そしてストーリーを変える」
妹がまた顎に手を当てた。
「ストーリーの流れを変えるのは、そんなに簡単なの?」
「分からない。でも、異常が起きれば、それを補う為にどこかを修正する必要があると思う。そう言った小さな事からヒビが入り、ストーリー自体を狂わせる。・・・気がする」
相手が小学生ということを忘れ、私は真剣に考えていたことを話していた。
「狂わせるって…。危険じゃないの?」
「分からない。でも、あの事件だけは起こしたくない」
西園寺響子に透が階段から突き落とされる場面を思い浮かべた。かろうじて一命を取り留めるものの、出来れば避けたい結末だ。
「相当なバッドエンドのようね」
何かを察した妹が呟き、しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。
「分かったわ。もうこれ以上は詮索しない」
先に沈黙を破ったのは妹の方だった。
「でも、協力はさせてもらうわ」
「え?」
私は顔を上げ、妹の目を見つめた。
「貴女はこれから、物語を変えていくのでしょう。私だって、こんな地獄のような毎日から、抜け出したいもの。それに・・・」
妹は小学生とは思えない顔つきで、にやりと笑った。
「単調な毎日に刺激があるなんて、楽しみが増えるわ」
それから立ち上がった。
「これから、よろしくね。新しいお姉さま」
習い事に行ってくるわと嬉しそうに出かけていく妹の後ろ姿を見送る。
本性がばれるという予想外の出来事が起きてしまったが、目標は一つクリアした。

妹が味方になった。
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