悲劇のフランス人形は屈しない
「あの・・・そろそろ帰りませんか?」
後ろで平松が遠慮がちに言った。
「あと10分!」
はあはあと息を切らしながら、私は答えた。
怒りの矛先を全て目の前のサンドバッグに向け、一心不乱にパンチを繰り出す。
個室のレストランを出たあと、私を待っていた平松に近くのボクシングジムを、質問を受け付けずに探させ、ジムに乗り込んだ。使っていない端っこのサンドバッグを貸して欲しいと頼み込み、たまたま今日は人が少なかったこともあり、すぐさま了承を得た。
いきなり見事なドレス姿で登場したフランス人形に、ジムでトレーニングをしていた人たちは何事かと野次馬に来たが、私がひたすらパンチの打ち込みをしているので、そっとしておいてくれた。
さらに数分が経ち、とうとう酸欠になった頃、私は動きを止めた。
「大丈夫?」
フラフラになり、はあはあと肩で息をしていると、ジムのトレーナーが気を遣ってか、ペットボトルの水を渡してくれた。
「あ、ありが・・・うござ・・・ます」
激しい息切れで会話もままならない。
「ゆっくりね」とトレーナー。
私は水を飲み、時間をかけて呼吸を整える。
「だいぶ無心で打ち込んでたね」
「・・・すみません。いきなりお邪魔してしまって」
会話が出来るようになるまで落ち着くと、私は頭を下げた。
勢いでここに来てしまったが、皆の迷惑になっているのではと今更ながら不安になった。透の二倍以上の体格をしているまだ若めのトレーナーは、あはははと笑った。
「基本一般の人は入れてないんだけど、何か、凄いオーラ出てたから思わずOKしちゃったよ」
「すみませんでした。もう帰ります」
平松にお金の支払いをお願いすると、トレーナーは「いいよ」と手を振った。
「いえ。ご迷惑をおかけしたので、受け取って欲しいです。お水も頂きましたし」
そこまでお願いすると、しぶしぶ頷いてくれた。
「また息が詰まったらおいで」
爽やかな笑顔で言ったその言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
それを隠すように私は深くお辞儀をすると、ジムを後にした。
「ちゃんと冷やして下さいね。拳、だいぶ赤くなってます」
車内で平松が静かに言った。
なぜいきなりボクシングなのか、家族との食事会の時に何があったのか、何も聞かないでいてくれることに気づいた。
(・・・平松は、まだ私の味方だ)
私は瞼を閉じ、車の揺れに身を任せた。

< 52 / 106 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop