別れの曲
 例のクレープ屋には、早くも長蛇の列が出来上がっていた。
 部活帰りらしい女子高生に、ラフな格好の主婦、仲睦まじいカップル。色んな層の客が、大勢並んでいる。

「うわ、凄い列。やっぱり弾丸駆け込みだとこうなっちゃうか」

「そりゃあね。かなり人気みたいだし。まぁいいや、とにかく並ぼ!」

 ほらおいで、と佳乃が手招く。足早に列の最後尾へとつく友人の後を追う。
 普段なら、佳乃は絶対と言っていい程に、他と足並みを揃えて動く。無理やり引っ張り出して、こうして先を急ぐようにして進むのは、私に暗い表情をさせるようなことを考えさせないため、なのかな。

 勝手な想像だけれど。

 何だかんだと話しつつ、長い時間をかけて、私たちはやっとの思いでクレープを手に入れた。
 屋台での移動販売とあって、一日に準備出来る量は決まっているらしい。私たちのすぐ後ろの方で人気のメニューが売り切れたようで、惜しむ声が聞こえていた。ギリギリ、だったみたい。

「ひぃ、危なかった危なかった! でもよし、これにて目的は達成されたってね」

 嬉しそうに話す佳乃。今にもクレープに頬ずりしそうな程だ。

「甘い物に目がないって言ったって、そこまで喜ぶ?」

「そりゃだって、今人気のクレープだよ? 女子高生の生きる理由でしょこれ」

「安い理由で生きてるなぁ」

「失礼な。陽和だって注文に時間かかってたくせに」

「あれは……どれも美味しそうだったんだもん」

「だよねー。やっぱクレープはダメだ。私たち甘い物好きを惑わせる」

 そんな言い分に、私はぷっと吹き出した。
 このやろーと肘でぐりぐりつつきながら、佳乃も一緒になって笑っている内、私たちは近くにある見慣れた公園へと辿り着いた。
 ベンチに腰掛け、手にしたそれぞれを見つめる。
 大小様々、種類も豊富に乗った果物の数々に舌鼓を打つ。

「ちょっと贅沢な気もするけど、まぁいっか」

「今更でしょ。いいから食べよ」

 どちらともなく口をつけたそれは、なるほど人気も出るわけだと頷く他ないくらい美味しい。
 個数の制限がなければ、何百、下手をすれば千を超える客が取り囲んでいそうだ。

「んー! これは美味しい! 今度もっかい来ようよ、別のやつ食べに」

 佳乃は早くも未来の話。今持っているものだって、二口三口齧ったばかりだと言うのに。
 少しばかり呆れて肩を落とすと、私は何ともなしに空を見上げた。
 随分と分厚い、灰色の雲がかかっている。遠くの方には太陽の光が漏れている箇所もあるけれど、遠からず雨が降り出しそうな曇天だ。

 降るか降らないか、迷っているみたいに曖昧な天気は、まるで今の私のよう。
 そんなことを思ってしまうと、せっかく離れていた意識も、またそちらの方へと向いてしまう。

 大きく深い溜息とともに、私はクレープを持つ手元へと視線を落とす。

「ま、忘れろって方が無理だよね。分かってたけど」

 佳乃が呟く。苦笑しつつ、複雑な表情を浮かべていた。

「ごめん、佳乃。クレープは美味しいし、佳乃の考えてることだって、何となくは分かってるんだけどさ」

「ううん。私のバカなノリに返してたのは、間違いなくいつもの陽和だったからね。ちょっとだけでも意識を逸らせられたんなら、いいリフレッシュくらいにはなったんじゃないかなって」

「いやいや、かなりね。ありがと、佳乃」

「何言ってんのよ。て言うか、それなら私からはごめんなさいだよ。具体的な案なんて、仮に何か出したところで他人な訳だから、陽和に合うかどうか分からないからって、逃げようとしてただけ」

「に、逃げる……? いや待ってよ、これ私の問題だから。って、どうしたらいいのかなって言ったのは私か……うぅ、ほんとごめん…!」

 私は謝りに謝った。
 けれど、佳乃は「そうじゃなくて」と続ける。

「急な現実でさ、どうしようもなくなってさ、でも誰に話せばいいかも分からなくて、それでも、って思ったから私のところに来たんでしょ? 苦しかったと思う。だったら、仮に陽和に合わなくてもさ、何か言葉にするのが正しかったんだよ」

「そんなことは……」

 あるかもしれない、と思う。
 自分ではどうしようも出来ない、どうにもならないような気がして、私は佳乃に――そう、甘えたかったのだ。
 甘えて、こうすればいいんじゃないかって、背中を押して欲しかった。ただ一言、何でも良いから、ガツンと響く言葉が欲しかっただけだ。
 それを自覚しているから、私は佳乃の真っ直ぐな言葉に、上手く返せない。
 やっぱり、根は弱いままだ。ピアノを弾けるようになったって、生きる目標が見つかったって、結局はどれも他人から与えられたもの。

「あー、もう! よし陽和、言いたいこと言うから心の準備! 私があんたならって思うこと言うけど、考えるのは陽和自身! 何を迷ってたんだ、私!」

 佳乃は遠くまで音が響くほどの力で頬をぶつと、立ち上がり言った。
 驚き、その横顔を振り仰ぐ私に、努めて明るい表情で続ける。

「辛いし怖いし、大変かもしんないけどさ。陽和、やっぱりちゃんと話さなきゃだめだよ。今日が帰国日なんでしょ? なら、あんたの不審な点だって、あの家政婦さんからお母さんに話が行ってるはず。自分がどうやって知って、誰から聞いて、どう思ってるか、全部全部正直に言葉を交わさないことにはさ、どうすればいいかなんて考えは一つも出てこないんだよ。まずはお母さんと話すこと。とにかく話して、全部全部曝け出して、お互いの心の内を真っ平にしなきゃダメだと思う。お母さんがそんな大変なことになってるなら、今話し合わないとダメなんだよ」

 逃げているだけでは、悩んでいるだけでは、何一つ進まない。佳乃の言う通りだ。
 けれど、それでもやっぱり――そう考えてしまう私に、今度は頬を膨らませて、佳乃は続ける。

「それに、やっぱり私は納得いかないのよね、その話。やな話じゃない? 色々あったのが何も知らない赤ちゃんでもない時分だって言ったって、同じ血の通った陽和一人だけ蚊帳の外で秘密にしてさ。ムカつかないわけないよね? 私だったらまず、怒ってる」

 あっけらかんとして言う佳乃だったけれど、私はそんな言葉にはっとした。
 そうだ。その通りだ。
 父のことも母のことも、未だ仮定の域を出ない涼子さんのことも、疑問こそ抱くのは当然だけれど、そこには怒りだってついてくる方が普通だ。
 どうして、私一人だけに黙っていたのか。
 一さんからは聞いたけれど、未だ母の口からは聞いていない。涼子さんの口からだって、それに触れるようなことは一切聞かされていない。

(そっか……)

 陽向くんのこともあって、すっかり意識が逸れてしまっていた。
 物事はもっと、単純なことだった。

「い、言われてみれば……うん、ちょっと酷いよね、これ」

「ちょっと?」

「いやいや、すっごく酷いと思う…! 理由があったにしたって、何で同じ家族の私だけが知らないの? 何で家政婦の涼子さんだけ知ってるの? ぐぬぬぬ……考えれば考えるほど、すごく腹が立って来た……もういい、どうせ高校生なんて子どもなんだし、もう難しいことは考えない。感情的に直感的に、自分勝手な論理で叩きつけてやるんだから」

「あはは! そうそうその意気だ!」

 どこか楽しむように、佳乃は私に同調する。
 これがわざとか、天性のものか。
 どちらにしたって、その快活な性格は、とても頼りになる。

「もう! 何で私だけ知らないわけ? お母さんのこともお父さんのことも、陽向くんのことだって! 家にはあんなにヒントがあったのに、徹底して隠す気すらないんじゃないかって思えるぐらいだったのに、なんで!」

 徹底して隠す気がないのなら。

「なんで……私は、気が付かなかったんだろ……」

 肩を落として呟いた。
 本当は、心のどこかでは、昔から感じていることだった。
 初めて、授業参観というものを強く意識した時、多くの母親に混じって、何名か男性もいるのを見かけた。運動会の時だってそうだ。
 誰かクラスメイトの父親であることは明白だった。同時に、私にはその影がないことも分かっていた。

 それがどうにも腑に落ちなくて、家に帰ってから少し家の中を探してみても、答えの一つも見つからなくて、そういうものなんだなと幼心に飲み込んで、考えないようにした。
 一度だけ母にも尋ねたことがあるけれど、死んでしまった、いなくなってしまった、と返されなかったことは、今にして思えばヒントのようなものだ。

 自分で、知り得たかもしれない事実に蓋をしていただけだ。

「食い下がって食い下がって、突き詰められるだけ突き詰めていったら、何か分かったかも知れないのに……はぁ。私ってほんと、度胸も探求心もないんだなぁ。つくづく思い知るよ」

「かもね。でも、色々と分かっちゃった今のあんたは?」

「決めた。もう逃げない。話して話して、誤魔化されたって食い下がって、絶対に全部聞き出してやる。一さんが言ってたことの真偽も、お母さんがどう思ってるのかも、涼子さんにだって全部聞いて、その上でこれからどうするか考える。うん、決めた」

「うんうん、それでこそ私の知ってる陽和だ!」

 佳乃は満足げに笑った。
 自分の考えが私に合っているのかどうか分からない、と佳乃は言っていたけれど。
 正しいか間違っているかではない。自分の心に正直に動けるというのは、時に正しさよりも大切なことだ。
 それに気が付いただけでも、佳乃の言葉には大きな意味がある。

「ありがと、佳乃。ごめん、ちょっと帰るね。これもう全部あげる」

 食べかけの見た目はみすぼらしいけれど、構うことなく私は差し出した。

「お礼、ってことにしとくよ。うん、いつもの陽和だ。すっきりした、って感じ。可愛い笑窪。あーあ、助言とお礼のおかげで、太っちゃうかもなー私」

「そうなればダイエットでも何でも付き合うよ」

「言ったなこんにゃろー。ランニングが趣味の私に、とことん付き合ってもらうからね」

 佳乃はまた、ぐりぐりと脇腹をつっつく。
 そうしてクレープを受け取ると、ふっと笑った。

「荷物、取りに来るのはいつでもいいからね」

「うん。ほんとありがと。じゃあね!」

 佳乃のクレープを一口だけ頂戴して、私は走って公園を後にした。
 まったく、と呆れたように呟く佳乃の声を、背中に受けて。
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