別れの曲
 あの公園から家まで帰るのに、これほど時間がかかったことがあっただろうか。
 足取りも重い。覚悟は確かに決めた筈なのに。

 目的ははっきりとしている。
 心の準備もばっちりだ。

 それでもやっぱり、どこか信じていないような――信じたくないから、確かめるのが怖いんだ。
 佳乃に促されて、母にも聞かなければと思ったことは確か。一度も出会ったことのない父が、私のことを娘だと認識した上で教えてくれた話だ。おそらく嘘はないことだろうとは思うけれど、事実というものには往々にして、心というやつが追い付かないものだ。

 心は正直だ。信じたくないものは信じない。

 空港までは涼子さんが迎えに行っている筈だから、特別な用事さえなければ、母はもう家にいる頃合いだろう。
 そんなことを思うと、益々気持ちは焦り、鼓動は速く五月蠅くなって、どうしようもなく不安が募る。
 それでも、一さんから聞いたことは、ちゃんと確かめなければならない。本当なのか、本当であるならその詳細を、嘘ならまた一さんを問い正さないと。
 本当なら、佳乃のところで油を売っている場合でもなかった。
 でも、そのおかげで今は、気持ちは迷っていても、身体は動いている。迷いながらも、母の元へと近付けている。
 他でもない、佳乃のおかげだ。

 走って、走って、ただただ走った。
 途中、何度か転びそうになったけれど、私は力の限り走った。言いようのない気持ち悪さがこみあげて来る中でも、それを何とか我慢して。

 確かめて安心したいのに、確かめてしまうことが怖い。母の口からあれが真実なのだと告げられた時、自分がどうなってしまうのか、想像もしたくないくらいに、ただただ怖い。
 家に辿り着く頃には髪は乱れ、肩で息をしながら、全身には真冬の外ではまずかかない程の汗をかいていた。
 久方ぶりに走り続けた足は、もうすっかり棒になってしまっていたけれど、何とか引き摺って扉を開けた。

「お母さん…!」

 脱ぎ捨てた靴がどこか適当なところへ飛んでいくことも厭わず、転がり込んだリビングで、私はこれまで出したことのない大声で叫んだ。
 数秒遅れて、ピアノのある部屋の扉が勢いよく開かれる音が聞こえた。廊下まで迎えに行くと、いつもの顔ぶれが二つ、慌てた様子で私の元へと駆け寄って来た。
 目が合った瞬間、母は私の名前を呼ぶことも、再会の感動に立ち尽くす様子もなく、ただ、私の身体を力いっぱい抱き締めて来た。

「お、お母さん……?」

 言葉を待っていると、少しずつ、けれども確かに、その肩が震え始めた。
 それは次第に強く、大きくなっていって、抱き締められている私の身体にも伝播する。

「私の帰国する日にお迎えは無し、それはいいの。でも、家のどこにもいなくて、なぜかそれだけ慌てている……ねえ、陽和? あなたまさか、会ったの、あの人に?」

「…………うん」

 少し躊躇いもしたけれど、私は正直に頷いた。

「お母さん、私――」

「ごめんなさい…!」

 私の言葉を制するようにして、母は抱き締める腕に更に力を籠めて強く言い切った。
 珍しく荒い母の声に、私はすぐ喉元まで出かかっていた言葉を止めた。

「あの人に会ったっていうことは、私のことももう知ってしまっているのよね?」

「う、うん、そうだけど……だから私、そのことでお母さんに聞きたいことが――」

「そう。じゃあ陽和、私の言うこと、ちゃんとよく聞いててね」

 そんな切り出し方に、私は全身の毛が粟立つのを感じ、嫌な寒気を覚えた。
 ドラマやアニメ、小説なんかのシリアスなシーンでこんな台詞が出て来れば、それは喋っている当人が、何かしら覚悟を決めているような時であることが大半だ。
 どこか遠くの方へ行ってしまうだとか、別々の道を歩むことになるだとか、あるいはこれから――言い知れない不安に襲われた私は、母の奥で静かに佇む涼子さんの表情を窺った。

(なんで……どうして涼子さんが、そんな悲しそうな、ううん、悔しそうな表情を……)

 俯き、強く強く唇を噛んで、肩を震わせていた。
 悲しくて涙を呑んでいるのではない。それはさながら、達成できなかった目標に思いを馳せる、高校球児のよう。
 寂しさ、悲しさもあるだろうけれど。
より強く、色濃く表れているのは、悔しさの色だ。

「出張中、電話くれたよね。嬉しかったわ。本当は私からかけようかとも思ってたんだけど、色々と立て込んでてね。だから嬉しかったし、何よりとても励まされている気分になったわ。でも……でもね……」

 更に強く、もっと強く力が籠められた。
 僅かに痛さも覚えるけれど、私はただ、母の言葉に耳を傾け続ける。

「簡単には涼子さんから聞いたわ。どんな理由があって陽和がピアノを弾けるようになったのかは、私にも分からない。でも、陽和が天上に出たいって言い出した時、私はすごく……すごく、怖くなってしまったの。陽和の知っている通り、あれは名誉あるクラシック奏者たちを招いて行われる音楽祭。それに立つには、相応の功績を立てる必要があるわ。キャリアの長さじゃない。この世界に鳴り物入りで飛び込んで、五年そこらで呼ばれる人もいるからね。でも……」

 気が付けば、肩に濡れた感覚があった。

「一番近いもので、候補者の発表が今年の夏で、そこから長い時間をかけて吟味されて、選ばれた者だけが招かれる。そこからやっと、一緒になって舞台を作って、開催は次の年を迎えてからになるわ」

「な、なんで……私、頑張るよ…! 人より才能がないのは分かってるから、頑張って頑張って、沢山練習して、すぐに世界で活躍できるようなピアニストになるから…! 今年じゃなくても、次の機会にでも……ちゃんと、呼んでもらえるように……」

 これまでずっと一緒にいた最愛の人がいなくなるなんて、考えたことがなかった。
 結婚して子どもも授かって、孫の顔を見せるためにたまに帰省して、母がおばあちゃんになっても一緒に笑って、穏やかに過ごして、天寿を全うしてからいなくなるものなのだと、そう信じて疑わなかったから。

 いつも隣にいることが、当たり前だった。
 一さんから聞いた話で、大体のことは知っている。けれど、今は特別関係するような話ではなかったはずだ。

 その、はずなのに……。

「ね、ねぇ、お母さん、まるで次の開催まで時間がないような……う、嘘でしょ、ねえ…! 涼子さんも何か言ってよ! 一さんから聞いたよ、お母さんは珍しい症例で、進行がかなり遅いって……今すぐどうにかなるようなことはないって……涼子さん…! お母さん!」

 そう、強く叫びながら。
 肩に感じる熱を帯びた水気が、段々と大きく拡がっていることにも、私は気が付いていた。
 それを認めてしまうのが怖いから、私は必要以上に叫んでしまっていたのかもしれない。

 だって――

 声は枯れ、少し喉も痛くなってきて、咳払いをして、静まり返った、そのほんの僅かな隙間で。

「ごめんね、陽和……」

 弱々しい声で、母は確かに言った。



「十七歳の誕生日……お祝い、出来ないね」



 短く、小さく、それだけ呟いて――母はそのまま、私の腕の中へと倒れ込んだ。
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