別れの曲
「ひとみさん、双子だって、双子! あぁ、なんて幸せなことでしょう!」

 二人並んで歩く、産婦人科からの帰り道。
 病院で話を聞いている時から、美那子はずっとこの調子だ。
 両の手を大きく広げて空を仰いで、隣を歩く仁三に笑いかける。
 何の屈託もない、とても自然で愛に満ちた笑顔。それを横目に眺めることが昔から大好きであった仁三だったが、さすがに、聊かの恥ずかしさも覚え始めていた。

「こら、美那子、前を向いて歩かないと。転んで怪我でもしたらどうするんだい?」

 仁三の言葉に、美那子はくるりと回ってみせる。

「ふふふ、大丈夫よ。私だって、もう立派な大人なのよ? 今日はヒールも履いてないし、道だって――」

 言いかけた矢先、美那子はバランスを崩してしまう。
 あわや、といったところで、美那子が足元にある小石に気が付くより早く、仁三はその腕を掴んでいた。
 美那子が小石を踏む頃には、その華奢な身体が、転ぶはずだった方向とは反対に引き寄せられていた。

「きゃっ…!」

 思わず声を上げる。
 目線のすぐ先には、愛しい旦那の顔。もう何年も一緒にいて、恋人から夫婦になった時だって、それ程の実感は沸かなかったのに。
 子を身籠った。親になった。立場の変化も相まって、これまで歩んで来たパートナーと共に二つの命を育んだのだと改めて意識してしまった美那子は思わず顔を逸らし、まだ芽吹いていない桜の木に目をやった。
 春には一面の桜。見慣れたこれを、未だ見たことのない新しい命と一緒に目にすることが出来る――未来を想像すると、早くも胸がいっぱいになってしまった。

「言わんこっちゃないってね。もう、まったく。僕がいなかったら大変なことになってたかも知れないよ?」

「そこはほら、ひとみさんを信頼してるってことで、ね?」

「可愛く誤魔化しても駄目。ほんと頼むよ。そりゃあ僕だって、極力美那子の力にはなろうと思うけど、限度ってものはある。一緒にいない時なんかには、流石に無理だ」

「私だって、ひとみさんの前じゃないとここまではしゃがないわよ」

「天真爛漫、それでいて天然、かと思えば鬼のように圧倒的な演奏技術ってギャップが『一鬼夜行』なんて不名誉な異名を生み出したこと、もう忘れたのかい?」

 仁三の言葉に、美那子は思わずうっと言葉を詰まらせる。
 それは小学校から始まり、大学を卒業するまで続いた通り名だ。
 他を寄せ付けない圧倒的な才能。『天才』と呼ばれる者の典型であった美那子は、いつからかクラスの男子がそんなあだ名をつけ、呼び始めるようになった。丁度、その頃にやっていた『百鬼夜行』という妖怪モチーフのアニメがネタだった。
 とは言え、誰とでも同じように接することの出来る性格だったことから、別段いじめられていたこともない。それは寧ろ敬意にも似たもので、誰も手が届かない、同じ年齢の人として踏み入ることの出来ない領域、そんな意味合いから、敢えて鬼の名を冠した。と、真面目に不真面目な考察をする友人にも恵まれた。

「もう、そのあだ名はそろそろ忘れてよ……」

「忘れられないインパクトはあったよね。まぁ忘れられないって言うか、忘れたくないかな。それがきっかけで、美那子と話すようになったんだから」

「あー、はは。そう言えば、そうだったかも」

 思い出すのは、互いにまだ十歳だった時分のこと。
 別のクラスから流れて来たそんな噂を耳にした仁三少年が、いざ鬼退治と乗り込んでいって、あろうことか美那子もそれに乗っかったのだ。
 どうやらピアノの演奏が鬼神のようだと聞いた仁三の唯一の武器も、同じピアノだったから、勝負は当然ピアノによる演奏バトル。クラスメイト達を審査員に行われた。
 勝敗は両者ともに一歩も退かずの引き分け。それでもいつか倒してやると息巻いて、それから自然と一緒に遊ぶようにもなって、研鑽し合って、いつしか恋人になって――どちらともが、ただピアノ馬鹿だったのだ。
 そんな馬鹿二人が出会ってしまって、たまには馬が合わないこともあったけれど、そのどちらをも尊重し合える関係性になって、遠い未来の今、結婚し、子を授かっている。

「分からないものだよね、人生って」

 体制を立て直して見上げた木々に映える小さな膨らみは、美那子の宿している、未だ世界を知らない子のようであった。

「ねぇ、美那子」

 ふと、仁三が呟くように言う。

「どうしたの?」

「僕、もっと頑張るよ。美那子にも負けないくらいの腕前になって、子どもに自慢してもらえるような父親になりたい。昔から身体の弱い美那子の分も、頑張れるようになるから。だから、えっと……」

 大事なところで、男らしさがあと少し立たない。
 もう、何度見たことか。
 大事なところだけ言葉が詰まって、出て来たとしても噛んで、恥ずかしさから赤くなって。
 仁三のそんなところが、美那子にはどうしようもなく愛おしいものだった。
 これまで、美那子は必死になって言葉を呑みこんで、仁三がちゃんと言ってくれるのを待っていた。けれども今日は、

「これからもよろしくね、あなた」

 今日くらいは、自分からも言いたくなってしまった。
 不意を突かれた仁三は、これまでにないくらい赤くなって、どこか身体も小さく見えるくらいになってしまった。
 いつもは毅然としていて、頼れる夫なのに。
 こんな姿を見られているのが自分だけなのだと思うと、嬉しくもなってしまう。
 そんなパートナーの手を取って、ゆっくり引きながら歩き始める。

「ずっとずっと、子どもたちとも、こんな風に歩いて、何でもない日々を過ごせたらいいわね」

「うん……本当に、その通りだ」

 幸せな未来を想像して、心が温かくなる。
 まだ見ぬ新しい命に思いを馳せながら、それを噛みしめて、満たされた気分の中、家へと歩く。
 そうして順調に日々が経過した、ある日のこと。



「間違いありません。アミロイドーシスという難病の症状です」
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