別れの曲
 自宅の寝室。
 もうどれくらいかという程の時間、美那子は枕を濡らしていた。
 仁三が持って来た水も、腹の足しにと届けられた差し入れも、着替えも、風呂の誘いも、優しくかけられた言葉さえも、全て目の端に入れてはまた俯き、耳に入ればそれを塞いだ。

 どうしてこんなことが。
 どうして嬉しくないことが。

 そればかりでないことは分かっている。頭の中では理解している。
 しかし、だからと言って、忘れて見過ごして、何事もなく過ごすことは出来ない。
 心アミロイドーシス――アミロイドと呼ばれるタンパク質があらゆる臓器に沈着し、機能障害を来す病であるアミロイドーシス。その対象が、心臓であるもの。

 早い話が、避けられない『死』という終着点を持つ難病だ。

 医療の発展に伴い「治療法がない、絶対に治らない病気だったが、これからは治る時代になるかもしれない」と言われるようにもなったが、それは未だ実現には至っていない。
 そんなものに、まさか自分がなるなんて。
 死の定められた病気になんて、誰だってなりたくないと思う方が普通だ。

 受診の理由は、ただの下痢症状だった。なかなか治らないからと医師に相談したところ、不整脈、更には微弱ながら聞こえる嗄声に違和感を覚えた医師が、念のためにと大きな病院での精密検査を進めたことで見つかったものだった。
 気が付かなければ。下痢くらいで騒がなければ。放っておいて、何も知らないままでいたならば。

 悲しみは怒りになり、やがて後悔に変わった。

 知らないままでいたならば、近い未来で同じ死を迎えるにしても、それまでは幸せな暮らしが出来たかも分からない。
 何も知らない自分。何も知らない夫。そして、何も知らない我が子。
 それまでは幸せに笑って、何でもない日常が送れたかも分からない。そんなことを想像すると、どうしようもなく悔しくて、これからの未来に絶望以外の答えが考えられなくなった。
 少しして冷静にもなると、部屋の外から聞こえる仁三の独り言を受けた那子の中に、一つ、ある考えが浮かび始めていた。
どれくらいかの時間を置いてから仁三が再び部屋の中へと入って来る頃にはもう、涙も枯れ果てていた。
 泣き腫らした顔で仁三を見つめる。

「落ち着いた、かどうかは分からないけれど、泣き止んでくれて良かったよ。あのままだと話も――」

「仁三さん」

 遮るようにその名前を呼ぶ。

「どうしたんだい?」

 仁三が応じると、美那子は、いやにクリアになった頭で考えていたこれからのことを、自分が死ぬまでにやらなければならないことを、仁三の目を真っ直ぐに見据えて話し始めた。
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