別れの曲
 数年が経過した。
 金銭的な面では仁三からのカバーがありつつ、涼子にも助けてもらいながら、仕事と子育て、家事も積極的にこなすようになっていた。

 しかし、決まったオフィスに出入りする仕事とは違って、国内各地を飛び回り、その疲れを残したままで家のことをするのは、やはり次第に無理が祟って来るものである。
 もし、これらを一人で全てやっていたならば……涼子という存在の大きさ、その有難さを、美那子は痛感していた。
 最愛の旦那とは事実上別れ、陽和も小学校に上がろうという頃合い、それにも慣れて来ると、自身が侵されているということは気にせず、日々を笑って過ごせるようになっていた。

 そんなある日、差出人の名前がない手紙が届いた。癖のあるその字は、仁三以外に心当たりが無かった。
 運良く受け取った自分自身で開いたそれには、諸々落ち着いて来たということ、元気でやっているかという確認、そして、これからは日を指定して送るから、極力美那子自身か涼子が受け取って、陽和の目には触れないようにしてくれといった旨の頼みが綴られていた。

 当然だ。陽和は、陽和だけは、何一つとして知らないのだから。
 知らない子の元へ、誰とも知れない相手から届く手紙など、気になるな気にするなと言う方が無理な話である。
 近所の公園へ、陽和、そして涼子とが遊びに出かけた(いとま)に、美那子はペンを取った。
 陽向が亡くなってしまったことは、以前に一方的な手紙を送っていたから、同じく落ち着いていること、元気でやっていること、陽和も明るく健やかに育っているということ、そして手紙の件は了解したということ――それだけのことを綴って、仁三へと返した。以降、手紙のやり取りは密やかに、少しずつ続いた。

 そんなある日、仁三から、海外の大きい病院で、現在受けている薬物療法以外にアミロイドーシスに効果のある治療が受けられる可能性がある、といった内容の手紙が届いた。
 近く、丁度コンサートの招待を受けている日の周辺なら、直接話を聞きに行くくらいのことは出来る。けれど、そのコンサートの日には、何より大切な陽和の誕生日が重なる。
 自身を作り替え、子育てに心血を注ぐと決めたあの日から、一度たりとも欠かしたことの無い、大切な祝いの日。陽向のこともあって、毎年必ず、一緒に歳を取ろうと決めていた。
 一時はそう思いもしたけれど、そんな陽和も、もう十六にある立派な子だ。大事な用があって出かけた、たったそれくらいのことで、誕生日を蔑ろにされたなどとごねるような性格でもない。
 陽和を信じ、美那子は単身海外へと赴くことを決めた。その旨を仁三へと返信して、涼子には陽和のことを頼んだ。
 自身が侵され始めてから、早十六年。大きく決定的な心不全を発症していない特異な境遇ではある。それだけの長い年月、心アミロイドーシスを抱える人が生きていられるなどとも聞いたことがない。

 全てはこの日の為――治療に充てられる資金や時間、そして決意とが固まるまで、神様が待っていてくれたかのようである。
 床に就く時、もしも明日、自分が死んでしまっていたなら。そう考えなかった日はない。
 明日も同じ、陽和と涼子の顔が見られるだろうかと、怖くならなかった日はない。
ただそれも、何度も何度も繰り返し考えても、その考えは悉く外れてきた。

 それが、幸か不幸か、終わってしまうような気がして。
 海を越えた先で、もし治療が受けられるようになったら。あるいは受けられなかったら。
いや、海を渡ってしまったその瞬間から、何か今までと同じではいられなくなってしまうような、そんな嫌な予感がしたから、

『出かける前に、ほら、写真撮るわよ、写真』

 もし、これがきっかけで『最期』を迎えるようなことになれば。
 後のことはきっと、仁三や涼子が上手くやってくれることだろう。けれど、陽和はそれをどう受け止めるだろうか。
 その想像が、全く出来なかった。出来ていなかった。
 これまで、写真や動画などというものは、ほとんど撮って来なかった。恥ずかしいというのも理由としてあるが、自分が亡くなった後、思い出す回数は少ない方が、陽和ではなく、自分が楽でいられる気がしたからだ。
 偉大な母の雄姿を収めるため、陽和はことあるごとに写真撮影を迫って来た。けれど、そのことについてだけは、美那子は殆どを頑なに断り続けた。

 しかし、ふと冷静になって考えてみた時。

 思い出の一つも無いのでは、やはり陽和は悲しんでしまうことだろう。どちらにしても悲しむだろうが、大切な母との思い出が無いのは、悲しさ以上に、辛いものだろう。悲しんだ上で、きっと、怒ることだろう。そう思った。
 自分がそうなってしまうことを知っていながら、どうして多くの思い出を残してくれなかったのか。
どうして話さなかったのかということさえも。
 そうなれば、これまでしてきたことの意味が、まるで無くなってしまう。
 陽和をなるべく悲しませないようにと、良い母親になって家庭を築いたのに、多くの思い出を共にしてきたのに、愛し、愛されるよう努めて来たのに。
 それらが全て、その実は陽和を一番苦しめてしまう結末を迎えるかも知れないなどと、どうして想像が出来なかったのか。
 いい大人になって初めて、そんな誰でも思いつくようなことにすら気付けない世間知らずで、人の『心』というやつに自分から触れて来なかったのかを思い知る。
 もう、随分と遅くなってしまった。それは間違いない。
 けれど、その残りだけでも――残りになってしまうのなら、遅いと分かっているなら、遅いなりに、例え短い月日であろうとも。

 出来るだけ多く。

 出来るだけ濃く。

 出来るだけ沢山の思い出を残したいと、心からそう思った。

 前向きに、明るく、なるべく良い未来だけを想像すると、心も少しばかりは楽になった。
 しかし、運命というものは、尚も残酷に。

「医師って生き物は、厄介な職種なんだ。事実は事実として、必ず伝えなければならない。それが例え、嫌なことであったとしても」

 海を渡った、その先で、



「もって、あと半年くらい――そう思った方が良いだろう」



 思っていた最悪のことが、現実となった。
< 45 / 83 >

この作品をシェア

pagetop