別れの曲
「――――君との生活は美那子が一身に背負って、代わりに金銭的な面は僕が出来るだけカバーすることになった。何があろうとも仕事に集中出来るよう、事実上の『離婚』としておくことでね。君たちだけの未来の為、君からは認知されない存在となっていた。無論、僕の方からも極力干渉しないよう気を付けて。涼子さんの助けも大きすぎる」

 事実上、ということは、やっぱり本意ではなかったんだ。
 もし何事もなく、の身体にも異常がなくて、陽向もこの世界で産声を上げていたなら、母も一さんも、今とは違う笑みを浮かべられていた筈なんだ。
 こんなにも苦しそに笑うことなんて、きっとなかっただろう。
 母の病状。離婚。陽向の死。
 それだけのことがありながら、自分がどれだけ大切に育てられてきたのか。それを実感するのと同じくらい、いやそれ以上に、それならどうして私だけが知らなかったのか、とも思う。
 家族なら、大切であるなら、共有して支え合うことだって出来るのに。

(…………いや)

 そう思うのは、今私が少なからず大人になったからだ。
 今までの間に伝えられていたならば、どうなっていたかも分からない。
 でも――どうして、教えないことに決めたんだろう。

 知らない方が幸せに暮らせるから?

 知らない方が辛いことなく母を送り出せるから?

 知らなければ、何を怖がることもないから?

(そんなわけ……)

 知らなければ、どこかで知ってしまった瞬間から、幸せな暮らしなど望めない。前向きな話しさえ出来ずに終わってしまうことだってあるだろう。
 知らなければ、亡くなったそのあとで、なぜ母は突然亡くなってしまったのかと疑問に思い、そうして調べ上げた先で、悲しみはやがて、大きな後悔や怒りへと変わることだろう。
 知らなければ、ずっとどこか、ただ怖いままだ。

(違う……そんなの、違うよ……)

 例え、両者同意のことであったとしても。
 未来に残される者の悲しみは、どう考えていたのか。
 思いやりがその実、更に苦しめるだけであるようなその選択を、今はどう思っているのか。

「一さん……どうして、私だけ……十六年もの間、私のことを騙して――」

 すぐ喉元まで湧き出ていた筈の言葉を、私はすんでのところで飲み込んだ。
 違う。そういうことじゃない。
 隠して来たことじゃない。今になって、どうしてあれだけ分かり易い尻尾ばかりが溢れて来たのか、そっちの方が問題だ。

 十六年、途方もない時間だ。

 一つの命が産まれ、幼少を経て、小、中、そして高校へと進学するだけの年月だ。
 それだけ長い時間、気を付けて気を付けて、一さんは影に徹しきっていた。その存在について仄めかすようなことはなかった。
 一度もだ。
 それは母も涼子さんも同じだ。
 ならどうして、こんなタイミングで。
 母の出立。差出人の情報がない封筒。臍の緒。陽向の存在さえも。
 あれだけ巧に隠して来ていた人たちが、今更たまたま綻びを見せるとは考え辛い。
 このまま自身が、あるいはパートナーが亡くなるその時まで徹底しようと考えていたのだとすれば、これはあまりに稚拙な尻尾の見せ方だ。
 そう、まるで、私に『気付いて』と言っているかの如く、あまりに分かり易いものばかり。
 隠し事と呼ぶには、聊かお粗末さが過ぎるものだ。

(そう言えば……一さん、レストランで『来てしまったのか』って言ってた。あれって、もしかして……)

 あの手紙がもし、母か涼子さんに宛てられたものであったならば、驚くのは当然のこととして、私が来たことに関しては『どうして』と問う筈だ。
 もしかしたら、元から私に宛てられたものだったのではないだろうか。

 どうやって知り、ここまで来たのか、と。

 手紙に気が付いたのか否か、あるいは何か証拠や疑問に思うようなことがあったのか否か。
 だからこそ、私があの桐の箱を見せたことで、奇しくもそれに答える形になってしまっていたというわけだ。
 いや、それ以前に、日にちを指定して送っていたはずの手紙が、母のいない日に来るはずがなかった。海外でのコンサートという予定を仮に知らなかったとしても、受診の機会を教えたのは他でもない一さん自身だ。
 その一切を知っている涼子さんに宛てられたものなら、風邪をひいてしまったからと言って、あのままポストの中に入れたままで私の手に渡るようなヘマはしない筈。
 手紙にだって書いてあったじゃないか。『ただ一度だけ、君に会いたくなった』って。

 ともすれば、なんてことではない。
 最初から、私個人に宛てられた手紙だったんだ。

 今思えば、あの時一さんはさほど驚いている様子もなかった。どちらかと言えば、ようやく来てくれたのか、ようやく会えたのか、とそんな表情だった。
 十六年もの間、我が子の顔すらおがむこともなくて——名目上の離婚関係だと言ったって、それが苦渋の選択であったなら当然、喜びだって感じていた筈だ。陽向の事実を知っているなら尚のこと。私は何不自由なく元気に育ち、背丈だって大きくなっているのだから。

 なら――今回の一連のことは全て、私に気付かせるためのものだったのだろう。
 周到であるはずの手紙が、丁度、母のいないタイミングであった理由。
 包まず言うなら、全て仕組まれていたことだった。
 偶然なんかじゃなかったんだ。

「一さんは……あなたは、どうして手紙を? あれって、母ではなく、私個人に対して宛てられたものですよね?」

 私の言葉に、一さんは観念したように頷き、それを認めた。

「主治医の話では、極めて稀ではあるが、進行はとても遅いらしい。が、もし向こうで上手くいかなければ、もう残された時間は短いだろう。だから診断の結果がどうあれ、戻って来たら、そのうち美那子の口からは聞く話だったと思う……けど、それでは駄目だと思ったんだ」

「駄目って……?」

「もう、隠せないと思った。いや、隠しては駄目だと、僕が勝手に思ってしまったんだ。そのうち、という話は美那子とも手紙でやり取りしてはいたんだけれど、そのうちでは駄目だ。陽和の為にって思っていたけれど、それは全くの逆効果だった。こうして知ってしまった今、君は事実、決して快くは思っていないことだろう。そうなることを悟ったから、僕は勝手に、美那子がいない日付けに手紙を送ったんだ。美那子のいない間にでも君と話して、真実を全て語って、間違いがないようにしたかった……いや。それも、多分嘘だ。君が臍の緒を持ってくるだなんて思ってもいなかったからね。本当は陽向のことに関してだけは、話すつもりはなかった。少なくとも、僕の口からは」

 一さんは困ったように笑った。
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