別れの曲
「うー、ん……」
寝苦しい。とても寝苦しい夜だ。
洗濯に炊事、そのあとで自分のこと――初めての環境と感覚に、身体は誤魔化しきれないものらしい。濁流のように疲れが押し寄せて来るものだから、その心地のまま床に就いたと言うのに。
「お茶でも飲も……」
目を開き、身体を起こして足をついた。
「…………あれ?」
その筈だった。
けれども眼前に広がるのは、例え寝起きのぼやけた頭でも、何のヒントも誰の案内も無しに行き来が出来るくらい馴染んだ自室、ではなく、
「なに、ここ……?」
ぐるりと見回した周囲には、ガラス張りの壁に、ガラスで出来たランプ、ガラスで出来た本棚に、同じくガラスで出来た大きなソファ、その間を割るように敷かれている、真紅のカーペットがあった。私が目を覚ましたのは、その内ソファの上だ。
どこに視線を寄越しても、どれも透明な淡い水色のガラスで出来た空間。
「……まぁ、夢だよね、うん」
なんのファンタジー小説か。心の中で突っ込みながらも、頭は存外、冷静に働いた。
「この景色……」
どことなく見覚えがある雰囲気。
そして、どこか懐かしい。
けれど、それが何なのか、どこなのかは、分からない。
ただなんとなく、そんなことを直感してしまっただけ。
「綺麗な場所。すごく……」
思わず、素直な感想が口を突いてしまった。
「え、どうしよ。どうすればいいの? 唱えればいいの? 覚めろー、夢ー、覚めろー覚めろー」
何度か唱えている内、更に冷静になった頭で考えるのは、ここが紛れもなく夢の中なのだろうということと、さてそれならどうしたものかということ。
「うーん……」
これは――明晰夢、というやつだろうか。
そもそもが不思議だらけの『夢』の中でも取り分け特殊で、『これは夢だ』と自覚出来ている状態のことだ。そうなれば覚醒するまでの時間、意識した通り自由に身体を動かすことも出来ると聞く。
けれどもやっぱり、それすら夢の一部である可能性も否定は出来ないという、謎中の謎である『夢』だ。
「よっと」
降ろした足に力を入れて、立ち上がる。その刹那だった。
『――――ひな』
どこからともなく響くのは、爽やかに耳へと届く男性の声。
聞き覚えは、ない。
『いらっしゃい』
その優しい声からは、言葉の通り、歓迎してくれているらしいことは分かった。敵意も悪意も感じない。不思議な感覚だ。
どころか、その声はまるで、私を招き入れるかのように、誘うように、奥へ奥へと知らぬ間に足を進ませる。
一歩、一歩と、姿も見えない声の元へと歩み寄るように。
『よく来たね、陽和』
それは紛れもなく、私の名前だった。私の名前が呼ばれたのだと、そう自覚した瞬間――
「――――はっ!」
飛び起きた瞳に映る景色は、紛うことなき自室のそれ。
見慣れた天井に見慣れた家具の数々。十年以上見続けて来たそれらが、眼前にはあった。
窓の外に見える景色は、未だ仄暗い。
「はぁ……」
夢だということは分かっていた。夢の中で、それが夢であると気付けていたのだから。
ただ、少し残念に思うことがあっただけだ。
明晰夢というものを体験したものの中には、意識的に行動できるだけでなく、意識的に『起きる』ことが出来る人もいると聞く。裏を返せば、そう念じるまでは起きないでいられるということだ。
私のがそれでなかったことが、何となく、本当に何となく、ただ残念に思えただけだ。
「自分の意思で、耐えることができたら……」
あの声の主を、その姿を、捉えることが出来たのだろうか。そんなことを考えてしまったのだ。
「なんてね。どうせ夢だし。ただの」
笑い飛ばして、私はもう一度、布団をかぶりなおす。
言い捨てて諦めるつもりが、口にしてしまった分、余計に意識してしまって、
(もう一度眠ったら、もしかしたら……)
そんなことを考えてしまうくらい、私の脳裏にはそれが強く焼き付いていた。
知らないと直感して、夢の中にいる間はさほど気にもならなかったのに。
聞き覚えはない筈のあの声が、今はとにかくも気になって仕方がない。
寝苦しい。とても寝苦しい夜だ。
洗濯に炊事、そのあとで自分のこと――初めての環境と感覚に、身体は誤魔化しきれないものらしい。濁流のように疲れが押し寄せて来るものだから、その心地のまま床に就いたと言うのに。
「お茶でも飲も……」
目を開き、身体を起こして足をついた。
「…………あれ?」
その筈だった。
けれども眼前に広がるのは、例え寝起きのぼやけた頭でも、何のヒントも誰の案内も無しに行き来が出来るくらい馴染んだ自室、ではなく、
「なに、ここ……?」
ぐるりと見回した周囲には、ガラス張りの壁に、ガラスで出来たランプ、ガラスで出来た本棚に、同じくガラスで出来た大きなソファ、その間を割るように敷かれている、真紅のカーペットがあった。私が目を覚ましたのは、その内ソファの上だ。
どこに視線を寄越しても、どれも透明な淡い水色のガラスで出来た空間。
「……まぁ、夢だよね、うん」
なんのファンタジー小説か。心の中で突っ込みながらも、頭は存外、冷静に働いた。
「この景色……」
どことなく見覚えがある雰囲気。
そして、どこか懐かしい。
けれど、それが何なのか、どこなのかは、分からない。
ただなんとなく、そんなことを直感してしまっただけ。
「綺麗な場所。すごく……」
思わず、素直な感想が口を突いてしまった。
「え、どうしよ。どうすればいいの? 唱えればいいの? 覚めろー、夢ー、覚めろー覚めろー」
何度か唱えている内、更に冷静になった頭で考えるのは、ここが紛れもなく夢の中なのだろうということと、さてそれならどうしたものかということ。
「うーん……」
これは――明晰夢、というやつだろうか。
そもそもが不思議だらけの『夢』の中でも取り分け特殊で、『これは夢だ』と自覚出来ている状態のことだ。そうなれば覚醒するまでの時間、意識した通り自由に身体を動かすことも出来ると聞く。
けれどもやっぱり、それすら夢の一部である可能性も否定は出来ないという、謎中の謎である『夢』だ。
「よっと」
降ろした足に力を入れて、立ち上がる。その刹那だった。
『――――ひな』
どこからともなく響くのは、爽やかに耳へと届く男性の声。
聞き覚えは、ない。
『いらっしゃい』
その優しい声からは、言葉の通り、歓迎してくれているらしいことは分かった。敵意も悪意も感じない。不思議な感覚だ。
どころか、その声はまるで、私を招き入れるかのように、誘うように、奥へ奥へと知らぬ間に足を進ませる。
一歩、一歩と、姿も見えない声の元へと歩み寄るように。
『よく来たね、陽和』
それは紛れもなく、私の名前だった。私の名前が呼ばれたのだと、そう自覚した瞬間――
「――――はっ!」
飛び起きた瞳に映る景色は、紛うことなき自室のそれ。
見慣れた天井に見慣れた家具の数々。十年以上見続けて来たそれらが、眼前にはあった。
窓の外に見える景色は、未だ仄暗い。
「はぁ……」
夢だということは分かっていた。夢の中で、それが夢であると気付けていたのだから。
ただ、少し残念に思うことがあっただけだ。
明晰夢というものを体験したものの中には、意識的に行動できるだけでなく、意識的に『起きる』ことが出来る人もいると聞く。裏を返せば、そう念じるまでは起きないでいられるということだ。
私のがそれでなかったことが、何となく、本当に何となく、ただ残念に思えただけだ。
「自分の意思で、耐えることができたら……」
あの声の主を、その姿を、捉えることが出来たのだろうか。そんなことを考えてしまったのだ。
「なんてね。どうせ夢だし。ただの」
笑い飛ばして、私はもう一度、布団をかぶりなおす。
言い捨てて諦めるつもりが、口にしてしまった分、余計に意識してしまって、
(もう一度眠ったら、もしかしたら……)
そんなことを考えてしまうくらい、私の脳裏にはそれが強く焼き付いていた。
知らないと直感して、夢の中にいる間はさほど気にもならなかったのに。
聞き覚えはない筈のあの声が、今はとにかくも気になって仕方がない。