別れの曲
そうして気が付いた頃、開始から優に二時間を超えようとしていた。
今日の私のレッスン時間は一時間。初回だからと少な目にしてもらう筈、だったのだけれど。
二人して、決めた時間を忘れてしまっていたとは。途中から、本気になってしまっていた。
譜面上、まだ全体の半分ほども進んではいないけれど、その密度たるや、杏奈さんが練習をする時のそれと遜色ないものだったと言う。
そんな超過レッスンも終わり、一息どうぞと出されたホット珈琲を一口喉へと送って、私は息を吐く。
途中から息をすることも忘れていたように大きく零れたそれに、杏奈さんはぷっと声を出して笑い出した。
「ごめんごめん。そうよね、初回だったわよね、今日」
「い、いえ、そんな…! 愚かにもコンペに挑もうとしている身ですから。これくらいでないと、辿り着けるものではないでしょうし」
「それでもよ。ちゃんと身体を休めることも考えなきゃいけないのに」
杏奈さんは少しだけ息を呑んだ。
「あの日――陽和ちゃんがピアノから離れるきっかけを目の当たりにしてしまったあの日のことを、私も今でも覚えてるわ」
「……はい、私も。実はさっき、家の外で大きな音を出したの、私なんです。怖くて仕方がなかったから、無理矢理ほっぺたを叩いて、気持ちを切り替えようって」
「あら、そうだったの?」
「はい。でも、杞憂と言っていいのかは分かりませんけど、杏奈さんがあの時と変わらない笑顔を向けてくれたから、おかげですっと心が軽くなりました。ありがとうございます」
「何言ってるの。それなら私の方も同じよ。深くは聞かないけれど、陽和ちゃんがピアノを弾けるようになったって美那子から連絡が来た時、私は嬉しさより、不安の方が強く感じたもの。あの時だって、陽和ちゃんは弾く力なら持ってた。でももし、楽譜を読めなかったら? また傷ついて、二度もピアノから離れないといけないことになったら? そう思うと、私も怖かった。でも、陽和ちゃんの顔を見たら、何だか吹っ飛んじゃったみたい。大きく成長して、緊張感に固まりつつも凛々しい顔を見たら、私がしっかりしなきゃ、って。せっかく、また新しい一歩を踏み出してくれたんだもの」
「杏奈さん……」
目頭が熱い。
ああもう。ここには、そんな用向きで来たはずじゃなかったのに。
「ごめんなさい、湿っぽくなっちゃったわね。そうだ、今日のところはもう、家に帰ってからは弾いちゃだめよ?」
「え、どうしてですか?」
「理由は大きく二つ。一つは言わずもがな、身体を休める為。これまで満足に弾いて来られなかった子に、いきなり全速力で二時間はさすがにやり過ぎたわ。少なからず、きっとその跳ね返りは来るはずよ。これは私の落ち度。改めて謝るわ」
「そ、そんな…! 大丈夫です!」
「ありがと。でも、それより重要なのは二つ目」
杏奈さんは人差し指を立て、私の目を真っ直ぐに見つめる。
「頭を休める為。教わったその日にすぐ復習すれば上達に繋がる、なんて考えがちだけど、それは少し違う。教わったばかり、自分の思いや考えと違うことばかり新しく入れた頭の中は、その新鮮味からしっかり覚えているようで、ぐちゃぐちゃなことが多い。整理が出来ていないの。しっかりと睡眠をとることで、身体はコンディションを整え、頭は情報や感情が最適化される。それには勿論、音楽だって例外なく含まれる。やっていることは手指の運動と学習、つまりは身体と頭を使っているんだもの。存外、心身に負担がかかるものなのよ。だからこそ、しっかりと身体を休めてあげることで、翌日の練習は更に捗るわ。疲労や雑念があるのと、有り余る体力にすっきりとした頭、比べるまでもないことでしょ? 一見遠回りに見える後者の方が、その実効率も良いのよ。昨日の出来事を思い出す、ただその一点に、思考が集約されるからね」
「そ、そういうものなんですか」
「そういうものなんですよ。勿論、人によって個人差はあるけどね。必ずしも皆に当てはまる訳じゃないわ。私と陽和ちゃんとじゃ、血の繋がりもないわけだしね」
「え、もっともらしく自信満々に言っておいて、ちょっとだけ保険かけないでくださいよ」
「それでも、大体の人が当てはまるもの。演奏と同じ、ね」
「もう、杏奈さんってば……」
あっけらかんとした言い方に、私は思わず気が抜けてしまう。
「でも、無理が良くないことなのは、誰にでも等しくあてはまるわ。オーバーワークは事故の元。私や、美那子だってそうだった」
杏奈さんは、ふぅと息を吐き出すと、紅茶を一口あおった。
「何でも、すぐには上達しないものよ。地道な努力、それに見合うだけの休息。その二つのバランスが上手く取れて初めて、前へ進めるの」
杏奈さんは頬杖をついて話す。
頷きながら、私ももう一口飲もうかとカップを傾ける。そこで「代わりに」と続ける杏奈さんに、口元へと来ていた手が止まった。
「明日の自分を、うんと想像して眠るの。強く強く、明日はこうなるんだ、こうするんだって、ね」
「イメトレが大事だって話は聞きますけど、具体的にはどんな意味があるものなんですか?」
「自信がつくわ。気持ちが、自然と前向きになるの。モチベーションが上がると、物事は上手くいきやすい。まぁそう感じるだけだとも言い換えられるけど、感じられるだけ良いと思わない?」
「そう、ですね……なるほど」
「まぁ、何事も捉え方次第ってこと。未来は、誰の目にも未知数なものだもの。どう描いたって、どう思ったって、未来のことなら誰にも邪魔されないし、侵されないもの。心の在り方次第で、どうにでも出来るのよ」
「心の……」
杏奈さんの言葉に、私はつい固まってしまった。
言いかけたままで止まってしまった様子に気付いた杏奈さんが、どうしたのかと尋ねて来る。私は慌ててかぶりを振った。
それはまるで、あの日を思わせる台詞のようだったから……。
思い出してしまっては、どうにも寂しい思いが募り始めてしまう。あの声ばかりも、しばらく聞いていないことが、無性に気になって来た。
それを自覚した瞬間のこと。
ぐらりと揺れる視界。
ふわりと遠のく意識。
(あっ、これ――)
ソファに倒れ込む寸前、杏奈さんに支えて貰ったことを自覚したところで、世界は暗転した。
今日の私のレッスン時間は一時間。初回だからと少な目にしてもらう筈、だったのだけれど。
二人して、決めた時間を忘れてしまっていたとは。途中から、本気になってしまっていた。
譜面上、まだ全体の半分ほども進んではいないけれど、その密度たるや、杏奈さんが練習をする時のそれと遜色ないものだったと言う。
そんな超過レッスンも終わり、一息どうぞと出されたホット珈琲を一口喉へと送って、私は息を吐く。
途中から息をすることも忘れていたように大きく零れたそれに、杏奈さんはぷっと声を出して笑い出した。
「ごめんごめん。そうよね、初回だったわよね、今日」
「い、いえ、そんな…! 愚かにもコンペに挑もうとしている身ですから。これくらいでないと、辿り着けるものではないでしょうし」
「それでもよ。ちゃんと身体を休めることも考えなきゃいけないのに」
杏奈さんは少しだけ息を呑んだ。
「あの日――陽和ちゃんがピアノから離れるきっかけを目の当たりにしてしまったあの日のことを、私も今でも覚えてるわ」
「……はい、私も。実はさっき、家の外で大きな音を出したの、私なんです。怖くて仕方がなかったから、無理矢理ほっぺたを叩いて、気持ちを切り替えようって」
「あら、そうだったの?」
「はい。でも、杞憂と言っていいのかは分かりませんけど、杏奈さんがあの時と変わらない笑顔を向けてくれたから、おかげですっと心が軽くなりました。ありがとうございます」
「何言ってるの。それなら私の方も同じよ。深くは聞かないけれど、陽和ちゃんがピアノを弾けるようになったって美那子から連絡が来た時、私は嬉しさより、不安の方が強く感じたもの。あの時だって、陽和ちゃんは弾く力なら持ってた。でももし、楽譜を読めなかったら? また傷ついて、二度もピアノから離れないといけないことになったら? そう思うと、私も怖かった。でも、陽和ちゃんの顔を見たら、何だか吹っ飛んじゃったみたい。大きく成長して、緊張感に固まりつつも凛々しい顔を見たら、私がしっかりしなきゃ、って。せっかく、また新しい一歩を踏み出してくれたんだもの」
「杏奈さん……」
目頭が熱い。
ああもう。ここには、そんな用向きで来たはずじゃなかったのに。
「ごめんなさい、湿っぽくなっちゃったわね。そうだ、今日のところはもう、家に帰ってからは弾いちゃだめよ?」
「え、どうしてですか?」
「理由は大きく二つ。一つは言わずもがな、身体を休める為。これまで満足に弾いて来られなかった子に、いきなり全速力で二時間はさすがにやり過ぎたわ。少なからず、きっとその跳ね返りは来るはずよ。これは私の落ち度。改めて謝るわ」
「そ、そんな…! 大丈夫です!」
「ありがと。でも、それより重要なのは二つ目」
杏奈さんは人差し指を立て、私の目を真っ直ぐに見つめる。
「頭を休める為。教わったその日にすぐ復習すれば上達に繋がる、なんて考えがちだけど、それは少し違う。教わったばかり、自分の思いや考えと違うことばかり新しく入れた頭の中は、その新鮮味からしっかり覚えているようで、ぐちゃぐちゃなことが多い。整理が出来ていないの。しっかりと睡眠をとることで、身体はコンディションを整え、頭は情報や感情が最適化される。それには勿論、音楽だって例外なく含まれる。やっていることは手指の運動と学習、つまりは身体と頭を使っているんだもの。存外、心身に負担がかかるものなのよ。だからこそ、しっかりと身体を休めてあげることで、翌日の練習は更に捗るわ。疲労や雑念があるのと、有り余る体力にすっきりとした頭、比べるまでもないことでしょ? 一見遠回りに見える後者の方が、その実効率も良いのよ。昨日の出来事を思い出す、ただその一点に、思考が集約されるからね」
「そ、そういうものなんですか」
「そういうものなんですよ。勿論、人によって個人差はあるけどね。必ずしも皆に当てはまる訳じゃないわ。私と陽和ちゃんとじゃ、血の繋がりもないわけだしね」
「え、もっともらしく自信満々に言っておいて、ちょっとだけ保険かけないでくださいよ」
「それでも、大体の人が当てはまるもの。演奏と同じ、ね」
「もう、杏奈さんってば……」
あっけらかんとした言い方に、私は思わず気が抜けてしまう。
「でも、無理が良くないことなのは、誰にでも等しくあてはまるわ。オーバーワークは事故の元。私や、美那子だってそうだった」
杏奈さんは、ふぅと息を吐き出すと、紅茶を一口あおった。
「何でも、すぐには上達しないものよ。地道な努力、それに見合うだけの休息。その二つのバランスが上手く取れて初めて、前へ進めるの」
杏奈さんは頬杖をついて話す。
頷きながら、私ももう一口飲もうかとカップを傾ける。そこで「代わりに」と続ける杏奈さんに、口元へと来ていた手が止まった。
「明日の自分を、うんと想像して眠るの。強く強く、明日はこうなるんだ、こうするんだって、ね」
「イメトレが大事だって話は聞きますけど、具体的にはどんな意味があるものなんですか?」
「自信がつくわ。気持ちが、自然と前向きになるの。モチベーションが上がると、物事は上手くいきやすい。まぁそう感じるだけだとも言い換えられるけど、感じられるだけ良いと思わない?」
「そう、ですね……なるほど」
「まぁ、何事も捉え方次第ってこと。未来は、誰の目にも未知数なものだもの。どう描いたって、どう思ったって、未来のことなら誰にも邪魔されないし、侵されないもの。心の在り方次第で、どうにでも出来るのよ」
「心の……」
杏奈さんの言葉に、私はつい固まってしまった。
言いかけたままで止まってしまった様子に気付いた杏奈さんが、どうしたのかと尋ねて来る。私は慌ててかぶりを振った。
それはまるで、あの日を思わせる台詞のようだったから……。
思い出してしまっては、どうにも寂しい思いが募り始めてしまう。あの声ばかりも、しばらく聞いていないことが、無性に気になって来た。
それを自覚した瞬間のこと。
ぐらりと揺れる視界。
ふわりと遠のく意識。
(あっ、これ――)
ソファに倒れ込む寸前、杏奈さんに支えて貰ったことを自覚したところで、世界は暗転した。