別れの曲
 久方ぶりに視るその世界は、何だか寂しさすら覚えさせた。
 何度も目にしている筈なのに、どうしてそんな思いを抱かせるのか。
 私はまた、あのソファの上。
 考えても理由は分からなかったけれど、妄想でも勘違いでもないことが分かるだけで、今の私には十分だった。
 確かめたいこと、問い正したいこと、それらは全て、一さんの時と同様にはっきりさせておかなければならない。
 自然と小走りになる。程なく、足は更に速くなっていった。

 息も切れかかった頃、ようやく、あのピアノのある空間へと辿り着いた。
 肩で息をしながら見つめる先には、椅子に腰かけ楽譜を捲る、その姿がった。
 改めて見ると彼は、とても華奢で、少し力を入れて握ろうものなら折れてしまいそうなくらい、儚い存在に思えた。
 さらりと流れる髪も、長く細い指も、どれも自分とは似ていない。けれど、

「久しぶり。待ってたよ、陽和」

 そう言って笑いかける時の、目の細くなる様子、瞳の色、口元にできる小さな笑窪は、写真に写る自分とよく似ている。
 双子――その言葉が確かで、偽りのないものなのだと、ようやく実感することが出来た。
 いわゆる水子である陽向くんは、本来であれば、このような姿で目に見えるということは有り得ない。だからこそ、どこか遠い存在であるような、あるいはこの目の前に在る姿とは違うものだったのではないかと、私は心のどこかで思っていた。
 そう。私自身が『神様か何かなの?』と冗談を言ったように。

 けれどもようやく、目の前にいてこうして笑いかけて来る存在こそが『陽向』なのだと、理解することが出来た。
 今、私の方を向いて微笑む陽向は、確かに陽向そのもの。
 夢ではなく、想像でもなく、確かに陽向なのだ。

「先生、今頃びっくりしてるんじゃないかな? 陽和が眠る瞬間、先生は初めて見――」

「君とこの場所で出会うきっかけは、ナルコレプシーだった。夜とかちょっとお昼寝とかって時、つまり自分の意思で睡眠をした時には、君は現れなかった。まるで、君の方から誘ってきているみたいに」

「……うん」

 頷くと、陽向は楽譜を閉じて答えた。

「ナルコレプシー、昔から持ってた病気だけどさ。本当は、昔から君が、私のことを呼んでたんじゃないのかな? だっておかしいもん。登校中とか夜道とか、危険がありそうな時には、一回だって起こったことがないんだから」

 私は大きく一歩、前へ出る。

「ねえ。そうなんでしょ――陽向?」

 私を捉えるその瞳を、私も真っ直ぐに見据えて訴えかける。

「陽向、か。そうだね……もう、他人ではないってことも分かってるんだもんね」

「双子の、兄か弟。どっちかは分かんないけど。私と同じ遺伝子を分けた人――本当ならいた筈の、私の兄弟」

「ああ、その通りさ。なら、この空間のことについても、大方の予想はついているんじゃないのかな?」

 言いながら、陽向は周囲をぐるりと見回した。倣うように、私も視線を巡らせる。

「夢、じゃないんだよね、ここ。夢を無意識とするなら、意識ってとこかな? だから、向こうで視た楽譜が、他の楽譜とごっちゃになることなく鮮明に顕れて、理解できて、だから向こうでも使える自分の力として扱えるようになってたんだ。眠ってる筈なのに熟眠感がまるでなかったのは、その間ずっと脳は働いてたから」

 ついさっき、杏奈さんが言っていたようなことだ。
 これは言わば、頭の中の整理。しかし、それで熟眠感を得られていないことは、大きく異なる点だ。
 やがて、陽向が立ち上がった。

「正解。僕が君に、意識的にあれらを見せていた。それを重ねる度、君の方が僕に慣れて、向こうでも弾けたり読めたり出来るようになった、というところだね」

 陽向は頷き、笑った。
 やっぱり、仕草一つ、表情の変わり方一つを取っても、自分と似通っている。小さな変化が目について、気になって仕方がない。
 それに、耳の形が同じだ。
 耳の形が似るのは、親子兄弟姉妹以外にはまずないと言う。

「最初の方に言ったろう? 僕は神様でも何でもないってさ」

「え、ヒントのつもりだったの、それ? 分かりにくいって。そのまま答えを言ってくれれば良かったじゃん」

「夢の中で会った僕は双子の一人でした、って? そんなことをすれば、君は逆にこの真実まで辿り着けていなかったと思うよ」

「……まぁ、ね。うん、多分そうかも」

 私は一歩、二歩と足を進め、陽向の横を通り過ぎると、つい先ほどまで陽向が座っていた椅子へと腰を降ろした。

「ねえ。一つだけ聞いても良い?」

「何でも答えるよ」

「君が私に干渉出来る理由。君にはあり得ない筈の成長した姿をこうして見せて、話して、それぞれ独立した意識を持ってるってことには、何か理由があるんだよ。それは君が、ううん、君だけが、その理由を知ってる。お母さんも一さんも涼子さんも、私も知らない、その理由を」

「ああ、知っている」

 陽向ははっきりと頷いた。やっぱり、そうなんだ。

「私が実は多重人格でした、って訳じゃないんだよね。君は実際、君としてここにいるんだよね?」

「勿論だ。でも、僕だって万物万象を知っている訳ではない。神様じゃないからね。君の見聞きしたもの、知っている言葉でしか表すことは出来ない。僕が君に披露したドビュッシーの逸話や演奏の指摘だって、君が向こうでどこかから仕入れていて、眠っていた情報だ。一度は覚えて忘れてしまっていたものに過ぎない。だからこれは、あくまで状況から判断しただけの、ともすれば数ある答えの一つだと、そう思って聞いてね」

「それでもいい。十分」

「うん、分かった」

 目を伏せ、ふっと息を吐くと、陽向は自身の胸の辺りを押さえて話し始めた。
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