別れの曲
少しして開いた視線の先には、杏奈さんの顔があった。
心配そうな表情をしながら、私の顔を覗き込んでいる。
「びっくりしたわ。美那子から聞いてはいたけど、あれがナルコレプシーって呼ばれるものなの?」
少し視線を動かせば、先ほどまで手にしていたカップは、遠くの方へと押しやられているのが見えた。私が意識を手放した瞬間に働いた、杏奈さんの気遣いだろう。
「杏奈さん……ごめんなさい」
「どうして謝るのか、は一旦置いておいて。どうしたの? 随分と悲しそうに見えるわ?」
杏奈さんの質問に、私は少し考える。
一番に思い出すのは、意識が途切れる間際に聞いた、陽向のあの言葉。
(ずっと一緒にいられたら、なんて……)
考えかけた嫌なことを、私は頭を振って追い払う。
「何でもありません。それよりも杏奈さん。もっと、もっと私に弾き方を、音の出し方を教えてください」
私は縋りつくように言った。
音の出し方。それは、ただ弾く技術だけを指す言葉ではない。魅せ方、抑揚といった演出の部分や、曲の理解にも関わる言葉だ。
それは当然、杏奈さんも知っていること。優しかった目元が、厳しく、鋭いものへと変わった。
「――理由は、敢えて聞かないでおくわ。人間誰しも、一つや二つ、お腹に抱えているものだからね」
「は、はい…!」
「ただ、一つだけ確かめさせて頂戴」
真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに、杏奈さんは私の目を見て、
「貴女は、ピアノが好き? 今、この瞬間」
そんなことを尋ねて来た。
私は、思わず笑い出しそうになるのを堪える。
なんだ。そんなことか。
躊躇うことなく、考え直す必要もなく、今なら迷わずに言える。
「大好きです。今、この瞬間。杏奈さんの厳しい指摘だって、楽しんで挑めるくらいですから」
はっきりと言うと、杏奈さんはまた、いつもの柔和な笑みを浮かべた。
聞くだけ野暮なことだったかな。杏奈さんはそう呟きながら息を吐く。
「教えるわ、と言いたいところだけど、そればっかりは、人から教わって出来るようになるものではないの。出鼻を挫くようで悪いけどね」
「え? じゃあ、一体どうすれば?」
「例えば、ある一曲を奏でようとしている状況。その時、曲をどう魅せたいか、どう聴かせたいか、どう感じ取って欲しいか――そんなことを意識しながら弾くと、自然と音に現れるようなものなのよ」
「どう聴かせたいか……」
「それには、奏者がその曲の背景や成り立ちについて、正しく理解していることが大前提となるわ。『私はこの曲をこう受け取って、こう理解した。だからこう演奏する』ってね」
「理解、ですか」
「堅苦しく考える必要はないわ。『音』を『楽』しむ、それだけのことよ」
「音を、楽しむ……」
「そう、楽しむの。他人の真似をするだけじゃダメ。奏者によって表情を変えるのがクラシックよ……って、まぁ陽和ちゃんは、プロの中でも化け物な美那子が親だもの。美那子が当時、どんな風に弾いてたか、どんな表情をしていたか、それを参考にするだけでも、表現力の幅は大きく拡がるかもね」
優しく言い残して、立ち上がったそのままに奥の部屋へ姿を消したかと思うと、少しして戻って来た杏奈さんの両手には、溢れんばかりの本の数々が抱えられていた。
ドサ、と音を立てて置かれたそれらは、楽譜や教本の類ではない。ドビュッシー史、リストの生涯、モーツァルトとは――といった、人物や曲に関する、解説や史実の載ったものばかりだった。
…………嫌な予感がする。
「え、っと……そっか、これを持って帰って勉強しろってことですね…!」
「まさか。ここからは『勉強会』の時間よ、新人さん?」
「いや、でもほら、身体を休めるのも、勉強の内だって……」
「読みながら弾く、という違うことを一遍に行うから疲れるのよ。頭はまだまだ使えるでしょう? 若いんだから。起きて手と足を動かせって言ってる訳じゃないんだもの、多少疲れたって身体は休まるわ。これを読むくらいなら、寝転がりながらだって出来るもの」
「あぅ……」
思わず変な声も漏れてしまうけれど。
「どうか忘れないで。『音』を『楽』しむ、それが音楽。それがピアノ。それを忘れない限り、貴女はどんな演奏だって出来るはずよ。きっと、どんな音だって出せるようになる。だから、存分に楽しみなさい。知識は必ず、貴女の力になってくれるから」
それはさながら、聖母のように眩しく、また優しい笑みだった。
そのおかげかどうかは分からないけれど、気持ちは意外にも前を向いている。
不思議と、意欲も沸いて来ていた。
出来る――そう思わせてくれる。
(勉強会、って……そっか。教えてくれるんだ)
それだけ、杏奈さんも全力で、私なんかに時間を割いてくれている。私の気持ちに応え、一緒になってその道に寄り添ってくれるんだ。
「ありがとうございます、杏奈さん」
頭を下げて礼を言って、私は母に、帰りが遅くなる旨の連絡を入れた。
心配そうな表情をしながら、私の顔を覗き込んでいる。
「びっくりしたわ。美那子から聞いてはいたけど、あれがナルコレプシーって呼ばれるものなの?」
少し視線を動かせば、先ほどまで手にしていたカップは、遠くの方へと押しやられているのが見えた。私が意識を手放した瞬間に働いた、杏奈さんの気遣いだろう。
「杏奈さん……ごめんなさい」
「どうして謝るのか、は一旦置いておいて。どうしたの? 随分と悲しそうに見えるわ?」
杏奈さんの質問に、私は少し考える。
一番に思い出すのは、意識が途切れる間際に聞いた、陽向のあの言葉。
(ずっと一緒にいられたら、なんて……)
考えかけた嫌なことを、私は頭を振って追い払う。
「何でもありません。それよりも杏奈さん。もっと、もっと私に弾き方を、音の出し方を教えてください」
私は縋りつくように言った。
音の出し方。それは、ただ弾く技術だけを指す言葉ではない。魅せ方、抑揚といった演出の部分や、曲の理解にも関わる言葉だ。
それは当然、杏奈さんも知っていること。優しかった目元が、厳しく、鋭いものへと変わった。
「――理由は、敢えて聞かないでおくわ。人間誰しも、一つや二つ、お腹に抱えているものだからね」
「は、はい…!」
「ただ、一つだけ確かめさせて頂戴」
真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに、杏奈さんは私の目を見て、
「貴女は、ピアノが好き? 今、この瞬間」
そんなことを尋ねて来た。
私は、思わず笑い出しそうになるのを堪える。
なんだ。そんなことか。
躊躇うことなく、考え直す必要もなく、今なら迷わずに言える。
「大好きです。今、この瞬間。杏奈さんの厳しい指摘だって、楽しんで挑めるくらいですから」
はっきりと言うと、杏奈さんはまた、いつもの柔和な笑みを浮かべた。
聞くだけ野暮なことだったかな。杏奈さんはそう呟きながら息を吐く。
「教えるわ、と言いたいところだけど、そればっかりは、人から教わって出来るようになるものではないの。出鼻を挫くようで悪いけどね」
「え? じゃあ、一体どうすれば?」
「例えば、ある一曲を奏でようとしている状況。その時、曲をどう魅せたいか、どう聴かせたいか、どう感じ取って欲しいか――そんなことを意識しながら弾くと、自然と音に現れるようなものなのよ」
「どう聴かせたいか……」
「それには、奏者がその曲の背景や成り立ちについて、正しく理解していることが大前提となるわ。『私はこの曲をこう受け取って、こう理解した。だからこう演奏する』ってね」
「理解、ですか」
「堅苦しく考える必要はないわ。『音』を『楽』しむ、それだけのことよ」
「音を、楽しむ……」
「そう、楽しむの。他人の真似をするだけじゃダメ。奏者によって表情を変えるのがクラシックよ……って、まぁ陽和ちゃんは、プロの中でも化け物な美那子が親だもの。美那子が当時、どんな風に弾いてたか、どんな表情をしていたか、それを参考にするだけでも、表現力の幅は大きく拡がるかもね」
優しく言い残して、立ち上がったそのままに奥の部屋へ姿を消したかと思うと、少しして戻って来た杏奈さんの両手には、溢れんばかりの本の数々が抱えられていた。
ドサ、と音を立てて置かれたそれらは、楽譜や教本の類ではない。ドビュッシー史、リストの生涯、モーツァルトとは――といった、人物や曲に関する、解説や史実の載ったものばかりだった。
…………嫌な予感がする。
「え、っと……そっか、これを持って帰って勉強しろってことですね…!」
「まさか。ここからは『勉強会』の時間よ、新人さん?」
「いや、でもほら、身体を休めるのも、勉強の内だって……」
「読みながら弾く、という違うことを一遍に行うから疲れるのよ。頭はまだまだ使えるでしょう? 若いんだから。起きて手と足を動かせって言ってる訳じゃないんだもの、多少疲れたって身体は休まるわ。これを読むくらいなら、寝転がりながらだって出来るもの」
「あぅ……」
思わず変な声も漏れてしまうけれど。
「どうか忘れないで。『音』を『楽』しむ、それが音楽。それがピアノ。それを忘れない限り、貴女はどんな演奏だって出来るはずよ。きっと、どんな音だって出せるようになる。だから、存分に楽しみなさい。知識は必ず、貴女の力になってくれるから」
それはさながら、聖母のように眩しく、また優しい笑みだった。
そのおかげかどうかは分からないけれど、気持ちは意外にも前を向いている。
不思議と、意欲も沸いて来ていた。
出来る――そう思わせてくれる。
(勉強会、って……そっか。教えてくれるんだ)
それだけ、杏奈さんも全力で、私なんかに時間を割いてくれている。私の気持ちに応え、一緒になってその道に寄り添ってくれるんだ。
「ありがとうございます、杏奈さん」
頭を下げて礼を言って、私は母に、帰りが遅くなる旨の連絡を入れた。