別れの曲
「なんだかもう、慣れちゃったなぁ」

 鍵盤に指を添えながらそんなことをぼやかれては、陽向だって気になってしまったようだ。

「まだまだ弾き足りないよ。もっと――」

「そうじゃなくて。この空間と言うか、落とされる感覚にさ。初めての内は何かよく分かんなかったし、船で酔ったようにちょっとだけ気持ち悪くもあったような気がするんだけど。陽向と出会って、君の正体も知ったらさ、何だか急に、ここがすごく落ち着く場所に思えるようになったんだ」

「陽和がそう感じてくれているっていうのは、僕としてはとても嬉しいことだけどね」

 陽向は優しく笑って言う。

「今思えば、変な存在だよね、陽向って」

「実の兄弟だって分かってから、言葉に柔らかさがなくなったんじゃない?」

「そう? まぁ、欲しかったからね、お兄ちゃん。一人っ子だと思ってたから、頼れる人が欲しかったの。お母さんは忙しいし、涼子さんは家政婦さんだから。ベタベタ甘える訳にもいかなかったんだよ」

「随分と大人だね、陽和は」

 陽向の言葉を、私は首を振って否定した。

「そんなかっこいいものじゃないよ。甘えちゃいけないんだって、そう思ってただけ」

「どうして?」

「うちにはお父さんがいなかったからさ。何度か聞いたことがあったような気もするけど、お母さんは流してばっかりで答えてはくれなかった。きっと、聞いちゃいけないことなんだろうなって、そう思った」

「それが理由?」

 私は深く頷いた。

「重荷になりたくなかったんだと思う。お母さんも涼子さんも、大変なのは分かってたから。それに、別に何かを買ってもらわなくたって、四六時中構って貰えなかったからって、それで寂しいとは思わなかったからね。お父さんがいなくても、いる以上に空いた時間は一緒に過ごしてくれたから。それだけで幸せだったし。幸せ、だったんだ。ほんと。とっても……」

 ああ、駄目だな。こんなんじゃ。
 納得したし、飲み込んだし、決心もした筈だったのに。

「あ、はは……何でだろ、ちゃんと分かってるし、大丈夫だって思った筈なのになぁ……」

 私は努めて明るく笑ったつもりだけれど、きっとそんな風には見えていないことだろう。

「陽和」

 耐え切れず震え出した身体を、陽向はそっと、優しく抱き寄せてくれた。そうして、

「ここは夢の中だ。僕しかいない。どんなに大きな声を出したって、誰にも聞こえないよ」

 耳元で優しく、小さく、それだけ言った後は、ただ頭を撫でて、抱き寄せたまま。
 それだけでもう、頑張って抑えていた筈の感情は、いとも簡単に綻んでしまった。
 大きな声で、みっともなく泣いて、私は陽向の腕に包まれたまま、ただ力の限り叫んだ。

 こんな姿、母にも、涼子さんにも見せたことはない。
 ただ唯一、ここだけが、陽向のいるこの空間だけが、存分に甘えられて、弱みも曝け出せて、何も考えず気持ちの整理が出来る場所なんだ。
 ここに出会うまで、私にはそんな場所がなかった。甘えることを避け、幼くも、精神的に自立した人間であろうと努めていたから。

 いい子でいることを忘れられる場所。そんな空間が、相手が、やっと出来たんだ。

「ありがと、陽向……」

 小さく礼を言って、そのまましばらく、私は陽向の元で涙を流した。
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