別れの曲
 会場は先日と同じだと言うのに、辺りにはその参加者や家族らしい人影は見えたけれど、一次予選の時とは比べものにならない程の緊張感が漂っていた。
 ドレス、タキシード、私服、どれを着ている者も例外なく、誰一人として無駄な言葉を発していない。
 漏れ聞こえてくる会話は全て、最低限音楽に関する会話のみ。一人一人の関係性こそ分からないものの、誰も、井戸端会議に花を咲かせている者はいない。

 これから立つ舞台、そこで奏でる音のことだけを考えて、集中し切っているのだ。
 これまで味わったことのない、言い知れない恐怖にも似た感覚に、私は総毛立つのを感じた。

「陽和ちゃん」

 思わず立ち尽くす私の名前を、杏奈さんが優しく呼ぶ。
 首だけで仰ぐそちらでは、穏やかに微笑む姿があった。

「この空気に飲まれたら駄目よ、決して。貴女は、貴女の音だけに集中するの。誰の音も、声も、その一切を遮断しなさい。ここからはもう、私の声も聞かなくて良い」

「私の、音……」

 乾いた喉から出た声に、杏奈さんは私の手を取ると、今までより一等優しく、温かな声で語り掛けた。

「大丈夫よ、陽和ちゃんなら。この谷北杏奈が認めた子よ? これは自慢だけど、昔『神童』なんて言ってもてはやされたんだから。堂々と、ただ貴女の思うまま、心のままに弾いて来なさい。楽譜なんて無視よ」

「え、えっ…⁉」

「あくまで心持ちの話だけどね。楽譜ばかりに縛られるより、どうだこれが私の演奏だ、まいったか、くらいの意気で完奏するくらいじゃないと、すぐに空気に飲まれてしまうわ」

「わ、分かりました…!」

「ふふっ。そう気負わなくても大丈夫。一次を突破している時点で、ある意味で言えば、もう夢は叶ったようなものだもの」

「え、夢、ですか……?」

 杏奈さんの言葉に、私は思わず首を傾げてしまう。

「弾きたかったんでしょ? この舞台で。『別れの曲』を」

 言われて、はっとした。
 そうだ。
 何か功績を残すことが目標じゃない。
 それが出来れば更に嬉しいことではあるけれど、何より、その一曲を弾く為だけに、ただその一曲を聴かせる為だけに、私は舞台に上がる決意をしたんだった。
 コンクールは言わば、勝負の場だ。夢だった天上の音楽祭とは違い、華々しいものになるかどうかも分からない。

 けれど、結果より、それを演奏出来る機会があるということの方が、よっぽど重要だ。
 母の前で、母から聴いて育った、母へと送る大好きな曲。
 それを、これだけ大きな舞台で弾けるというのは、どれほど幸せなことか。

(そっか……そうだよね)

 気持ちが、すぅっと軽くなった。

「うん、その調子! 怖くないからね。ちゃんと、客席から見てるから」

 杏奈さんの言葉に力強く頷くと、私たちは充てられた練習室へと足を進めた。
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