別れの曲
 時間が経ち、自分の番が近付くにつれ、私は返って落ち着きを取り戻していった。
 嫌な汗は引き、鼓動も落ち着いて来た。問題ない。
 ドレスに着替えて舞台袖へと移動すると、そこには杏奈さんの姿があった。話では、もう既に客席へ移動している頃合いの筈なのに。

「どうしたんですか、杏奈さん?」

「ううん。一次予選の時と同じように、やっぱり袖から送り出したくなってね」

「そう、ですか」

 少しばかり照れくさい。

「嬉しいです、とっても。ありがとうございます」

「せっかく、美那子にはエントリーシートの内容を伏せてるんだもの。あの憎たらしい天才女の度肝を抜いてやりなさい」

「ふふっ。はい、分かりました!」

 旧友故の距離感で話す杏奈さんに、私は堪えられず笑ってしまう。
 おかげで、ここに辿り着いた時に芽生えた小さな緊張感も、すっかりほぐれてしまった。

「そろそろね。気持ちはどう?」

 私は迷うことなく答える。

「バッチリです! 見ててください、杏奈さん」

 笑いかけて少しすると、大きな拍手が耳を打った。前の人の演奏が終わったらしい。
 凛々しい姿で戻って来た真っ赤なドレスの女性を見送ると、すぐにアナウンスが私の名前を呼んだ。

「行ってらっしゃい、陽和ちゃん」

「はい、行ってきます」

 席を立ち、目を瞑って深呼吸。
 吐き出しきったところで目を開くと、真っ直ぐに、壇上で佇むピアノへと向かい合う。
 一歩踏み出すと、身体は止まることなく舞台へと進んだ。
 恐れはない。無駄な力も入っていない。大丈夫だ。
 礼をして、頭を上げる。

(あ、佳乃。来てくれたんだ)

 さっと巡らせた視線が、友人の姿を捉えた。
 目が合った瞬間、小さく手を振って、笑いかけてくれた。
 絶対に行きたい、と言っていた一次予選は、平日だったために都合がつかなくて来られなかった。
 けれど、今日は休日。
 連絡がなかったけれど、ちゃんと来てくれたんだ。目にするまでは実感がなかった。

(ありがとね、佳乃)

 しっかりと目を合わせ、心の中で深く礼を言うと、トムソン椅子の高さを調節して、私は席に着いた。
 そこでまた、深呼吸を一つ。

 深く、大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。

 喉の渇きもないことを確認すると、私は鍵盤に指を添えた。
 落ち着いて、頭の中で出だしを意識。

(よし――)

 思い切って、第一音を鳴らす。
 練習の通り、思っていた通りの響きが出せた、最高の皮切りだった。
 そのままのモチベーションで、杏奈さんから教わったこと、夢の中で陽向とともに研鑽したことの全てを、数秒の先に描きながら指を押し込んでいく。

 それはとても、不思議な感覚だった。

 指はもつれることなく、呼吸も乱れることなく、ただ頭の中に描いた通りの音が、そのまま出せている。
 こんなに気持ちよく弾けたことが、今まであっただろうか。
 そう思えるくらいの完成度だった。

 一曲。二曲。課題曲を、順当に弾きこなしてゆく。

 最後の音を鳴らし終えると、私は一旦、身体を戻して深呼吸。
 次の曲が――これこそが、今回のコンペという舞台で、最も弾きたかった曲だ。
 思えば、長かったような、短かったような、言い表せられないような時間だった。
 どれも皆、懐かしさすら覚える程に。
 色々あった数ヶ月だったけれど、そのどれもが今の自分を形作っているのだと思うと、悲しいことばかりではない。
 決断するのにも、覚悟を決めるのにも、どれも必要で、欠けてはいけないものだったと、今なら心から言える。

(聴いててね、お母さん。これが、私の音。誰よりも大好きなピアニストへ送る、最大限の思い)

 この会場のどこかから見守る、愛しい母へ。
 覚悟と思いを乗せて、最後かもしれない演目へ。
 指を置き、足を掛けた。

 刹那――バタン、という大きな物音に次いで、

「きゃっ!」

 誰か、女性の、悲鳴にも似た短い声が耳を打った。
 思わず見やったそちらには、



「――――えっ?」



 駆けつけた警備員らによって担架で運び出される、母の姿があった。
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