別れの曲
 危篤だ――と、医師ははっきりと口にした。

 一時は医務室へと運ばれた母だったけれど、すぐに危なそうだと判断した関係者が救急車を呼んだことで、近くの病院へと送られていた。
 個室にて寝ている母の隣で、私は声の一つも上げられずに、力なく横たわるその姿を、ただ見つめることしか出来ない。
 まだ亡くなった訳ではない。
 それでも、心にぽっかりと穴が空いたような、そんな気分になった。
 倒れたのが母だと分かった私は、最後の曲を弾くことなく、そのまま舞台から飛び降りて、運ばれていく母に付き添う形で会場を後にしていた。母が聴いていないのであれば、あの曲を奏でる意味はない。

 お母さん。
 そう呼びかけたいのに、声が出ない。

 喉の奥が蓋をされたみたいに、息が出来ているのかすらも分からない。
 ベッドを挟んだ向かいでは、涼子さんが母の手を取り、涙を流している。止まない嗚咽に、私は胸の奥がどんどんと痛くなってゆく。
 血圧や脈を表示しているモニターを見ることすら怖い。聞こえてくる音はずっと遅いまま。弱り切っている証拠だ。
 ゆっくりと規則的に鳴るその音を聞いているのも嫌になって、私は病室を出た。医師や看護師が声を掛けて来るけれど、それに応じられる気力もない。

 抜け殻のように、力なく歩みを進めて、気が付けばそのまま病棟の端の方へと辿り着いていた。
 窓際にあったソファに、倒れ込むようにして腰を降ろした。純白のドレスが、くしゃりと折れる。
 大きな溜息が零れる。胸が気持ち悪いくらいに痛い。吐きそうだ。
 それなのに……なぜだか、涙は出てこない。
 現実のことか、はたまた夢でも見ているのか。
 そうだ。あまりの緊張感に舞台上で気絶してしまって、きっとそのせいで悪い夢を視ているんだ――そんなことを、一度は考えもしたけれど。

 重い足取り。
 苦しい呼吸。
 皆の不安気な表情。

 そのどれもが、はっきりと脳裏に焼き付いて離れない。
 その全てが、これが今正に現実として起こっていることなのだと、如実に語って逃がしてくれない。
 窓の外に見える空は、今にも降り出しそうに暗い。
 遠くの方に、遅れてやってきた杏奈さんが、病室へと駆けこんでいく姿が見えた。

 美那子! と大きく名前を呼ぶ声が聞こえる。幾ばくかの時間を置いて、すぐに二つ目の泣き声が耳を打った。

 それを受けてようやく、私の目にも雫が浮かんだ。
 相も変わらず、声は出ないけれど。

 ただ一滴、頬を伝って落ちる涙が、ドレスを濡らした。
< 66 / 83 >

この作品をシェア

pagetop