別れの曲
「あら、おかえりなさい、陽和ちゃん。夕飯は肉じゃがだからね。もう少しだけ、ゆっくり待ってて」

 家に帰った私を、涼子さんが出迎えてくれた。今は亡き祖父母の代からお世話になっている家政婦さんだ。
 今日は非番の筈だけれど、涼子さんは当然のように手伝いに来てくれている。が、ただの手伝いという割には、その内容は仕事の日と何ら変わりはない。

 家事全般、涼子さんの独壇場だ。

 私がナルコレプシーを患っていると知った辺りから、そんな日々が始まった。数年前からは、もう毎日だ。
 ひとりの時間が多い私のことを気遣って、というのもあるかも知れないけれど、涼子さんはそれを感じさせるような振舞いはしない。何度かそれについて尋ねたことがあったけれど、返って来るのは、決まって「楽しいからよ」の一言だけだ。
 そんな涼子さんが先に夕餉の準備をしていられるのは、預けてあるスペアキーで好きに出入りして貰っているからだ。
 涼子さんの言葉を受けた私は、いつもなら返事をしてから一旦自室へと入るところ、そのままリビングの方へと足を運んだ。
 ソファに荷物を置いて、テレビの電源だけ点けて、足早に涼子さんの横へと並んだ。

「何かやることある?」

 短く尋ねる。
 それだけで何か察したらしい涼子さんは、今まさに煮込み始めた肉じゃがの火の番を任せてくれた。
 私がコンロの前に立つのを見送ると、涼子さんは脇に置いていた幾つかの野菜を手に、別の作業を開始する。

 トン、トン、トン。

 規則正しい包丁の音が響く。
 点けておいたテレビの音は聞こえない。
 そうして幾らか時間が過ぎた頃、

「陽和ちゃんが私の横に立つ時は、何かお話しがある時くらいものよ」

 穏やかな口調で、涼子さんが言った。
 涼子さんは、ちゃんと分かってくれている。

 ピアノが弾けないと分かった時。
 進路に迷っていた時。

 何か大きな決断に迫られるような時に私は、必ずこうして涼子さんの手伝いを買って出る。
 普段はやらない珍しい行動は、寧ろ分かり易い合図のようになってしまっているのだろう。
 普通、そういうことは母に相談するものなのだろう。それは分かっている。
 けれど、母に相談すると、どうにも流れが重たくなってしまう。他人、と言ってしまってはものすごく聞こえが悪いけれど、身内でない涼子さんは、相談がしやすいのだ。

 もう一人の母親同然でありながら、やっぱり違うと言えば違う——難しくも絶妙なその距離感が、丁度いいのかもしれない。
 二人の母とは言っても、職種の差なのか、涼子さんの方が自然と甘えられてしまうのだ。
 涼子さんの言葉に、しかし私は未だ口を開かない。それでも、涼子さんの方から詮索するような野暮もしてこない。
 一度尋ねた後は、ただ、私が話し始めるのを待ってくれるだけ。それが、こういう時の涼子さんのコミュニケーションだ。

 トントン。カラカラ。ジャー。

 幾つかの音を聞き流した頃、私はようやく口を開いた。

「トリニティカレッジ図書館、って聞いて、涼子さんは何か思い当たることってある?」

「えっと……トリニティ、何だったかしら? ごめんね、横文字はどうにも苦手で。でも、多分何もないわ」

 涼子さんは、はっきりと首を横に振った。

「ううん、大丈夫。その様子だと、ほんとになさそうだね。ごめん、忘れて」

「もう、なあに? 確かに私は聞き覚えがないけれど、それがどうかしたの?」

 知っているのなら、教えて欲しかった。
 けれど、そうでないのなら仕方ない。

「えっと、今朝、変な夢を見たんだ」

 話しながら、私は今朝にかけて見た夢のことを思い起こす。

「夢?」

「うん、夢。寝てる時に見る方の、夢」

 特別な驚きは見せない涼子さんに、私は昼間佳乃に話したように、そのまま詳細を語って聞かせた。
 夢の中で不思議な場所にいたこと。明晰夢らしい現象もあったこと。そこがどうやらトリニティカレッジ図書館という場所らしいこと。

 そして、知らない声に名前を呼ばれたこと。
 夢に出て来る舞台というのもは往々にして、現実世界で見知ったもの、音、匂いや色が反映されると言われている。
 よくよく知っている場所なら詳細に、ただ一度見た程度、あるいは意識的に見たわけでない場所なら大雑把に、舞台が表現されるものなのだそうだ。
 私の見た夢に出て来たあの空間は、瞬間とは言え、とても詳細に、とても素晴らしい出来栄えだったように思える。それはつまり、私がよくよく知っている場所だということになる。
 何かで見たのか、どこかで知ったのか、実物は見たことがないはずだと思うけれど、ネット上で見たそれらにとてもよく酷似しており、細かく、現実味があって、何より心に響くものに感じられた。
 その説を信じるのなら、たまたまテレビや雑誌で見かけた、程度の話でないのではないかと、そう思えて仕方がないのだ。
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