別れの曲
 病院を出てすぐの河川敷を歩いていると、早くも開き始めている桜が目に入った。
 淡く綺麗な桃色が、やけに眩しく見える。
 さっきは母のことでいっぱいで気が付かなかったけれど、ここは丁度、病室から見える場所だ。
 ギャッジアップして身体を起こしてあげれば、寝ながらでも見えるんじゃないか――と考えて直ぐに、瞼だって僅かも動いていなかったことを思い出して、私は桜を見るのもやめてしまった。
 視線をずらして地面を見ても、少しばかり落ちた桃色の葉が視界に入る。
 立ち止まって瞳を閉じても、香りからその気配が分かってしまう。
 息を止めてみたって風に揺れる葉の音が耳を打って——どうしたって、その優しく温かな雰囲気が拭えない。
 私はついぞ諦めて、近くに見つけたベンチに腰を降ろした。

「はぁ……」

 思っていたよりも深い溜息が漏れた。
 斜めに見える澄んだ水面も、いやに憎たらしく思えて仕方がない。
 温かな陽気に、吹けば涼しい柔らかな風。

 春になってしまったのだな、と思う。

 足先に触れた小石を蹴飛ばして、それが水面を揺らす様を見届けていると、何とも言えず虚しい気持ちになった。
 私は一体、何をやっているのだろう、と。言い知れない無情感に襲われる。
 無意識に送った視線が病院を捉えると、また母のことを思い出して胸が痛い。
 何を考えても、何を考えないようにしても、どうしたって頭のどこかに浮かぶ母の顔。

「お母さん……」

 独り言ちて考える。

「どうして、お母さんばっかり……自分のことだけでも苦しいのに、陽向と私のことでも、きっと酷く嫌な思いもしてるはずなのに……せっかくの舞台だったのに、まだまで元気に見えてたのに……倒れて、そのまま目が覚めないで……危篤なんて嘘だ……嘘、だよ……」

 少し気を緩めれば、また涙が溢れそうになる。
 それを無理矢理振り払うようにして、私はなるべく桜には目を向けないまま、走り出した。
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