別れの曲
 病室には、先に杏奈さんが来ていたようで、力のない母の手を握りながら座っていた。
 ふと視線が交錯すると、互いにぎこちない会釈。

「こ、こんにちは、杏奈さん」

 言葉を交わし辛いと思っていた割には、声は意外なくらいすんなりと出て来た。
 それに安心したのか、不安気だった杏奈さんの表情も、少しだけ晴れた。

「こんにちは、陽和ちゃん。お先に失礼してるわ」

「い、いえ、そんな……それより、えっと、改めて、この間はすみませんでした……せっかく、多くの時間を割いていただいたのに、あれだけ丁寧に送り出してくれたのに、私……」

「あら、そんなこと気にしてたの?」

「そ、そんなことって…! だって――」

「貴女の判断は正しかったわ。私が陽和ちゃんと同じ立場にいたとして、舞台から飛び出して母の後を追う、なんてこと、きっと出来なかったと思うから。怖くて不安で、一歩も動けなかったかも。胸を張って良いわ。美那子が『自慢の娘』って言う理由、ちょっと分かったかも」

「も、もう、そんなこと言ってたんですね……」

 起きたら、たまには私から叱りつけてやる。
 少しばかり気持ちも楽になった私と入れ替わるようにして、今度は父が前に出た。

「久しぶりだね、谷北。元気そうで何よりだ。この間は挨拶も出来なくて、すまなかった」

「一さんこそ。別に良いのよ、私は。美那子のことがあったんだもの。貴方にとっても、大事なことだわ」 

 母の親友だった杏奈さん。いつからの付き合いかは分からないけれど、父とも繋がりがあるのは当然か。

「美那子はどうだい?」

 父の問いかけに、杏奈さんは首を横に振る。
 目覚めないどころか、指先一つ動かしてはいない、と。
 モニターがあるおかげで、生きていることだけは間違いないと分かるのがせめてもの救いだと、杏奈さんは言った。

「そうか……」

 呟くように言って、父はベッドサイドの椅子に腰を落ち着けた。
 重い病に侵されている筈の母の寝顔は、どこか晴れやかにも見えるくらい、苦しそうな表情をしていない。
 危篤であると言われたばかりなのに、それを感じさせない。モニターに表示されている数値も、昨日よりかは安定している。

「あなたと陽和ちゃん、山本さんまで来てくれて、嬉しくなったのかしらね」

 母の顔を見やりながら、杏奈さんが言った。

「こんな面子で集まるだなんて、誰も思わなかっただろうからね」

「お父さん、普通はいない筈だったから。目を覚ましたら、お母さんびっくりして腰抜けちゃうかも」

「そうだね。これからは、僕も一緒に――いや、今更かな。陽和には委細を知られちゃった訳だけど、理由が有ったとは言え、一度は離婚関係にある僕らだ。だから――」

「いいんじゃないですか、別に。再婚くらい、よくある話です。ずっと――もし生きてるのなら、可能なら自分のお父さんって人と一緒にいられたら、って思ってたから」

 少し、気恥しくもあるけれど。

「一さんは、良い人だって思うし。話を聞いた今だから言えるけど……理想のお父さんって、きっと一さんみたいな人のことを言うんだろうなって、思うから……えっと、その……」

「…………そうだね。美那子が目を覚ましたら、ちゃんと話し合おう」

 父も、少し照れくさそうに笑った。
 悪い方にばかり進行せずにこの状態が続くなら、まだ先にはなるだろうけれど、回復する見込みだってあるかも知れない。
 そうやって、明るい未来の話をしていると、母の表情も少し明るくなったように見えた。

「そうだ、陽和ちゃん」

 杏奈さんが思い出したように声を上げた。

「院内の掲示板、見た? 桜狩りですって。それも、音楽イベント」

「あっ……は、はい、見ました」

 頷くけれど、ぎこちない。
 杏奈さんもすぐにそれが引っかかったようで、表情を曇らせた。

「実は昨日、お母さんの練習室を掃除してた時に、少し楽譜が目に入っちゃったんですけど……まったく、読めなくなってたんです。知らない曲じゃない筈なのに。何度も聴いて、よくよく覚えてる曲だったのに。でも、それを読んで浮かんでくる旋律は、知ってる曲とは随分と違ってて……試しに、鍵盤にも触れてみたんです。でもやっぱり全然違う音楽で……別れの曲だってそう……私にはもう、ピアノが弾けなくなっていました」

「……そう、なのね」

 予想を大きく裏切る答えだったことだろう。
 杏奈さんの落ち込みぶりは明らかだった。
 弾けない。読めない。そんな言葉はきっと、杏奈さんにあの日のことを思い出させてしまったに違いない。

「ごめんなさい、杏奈さん。それと、ありがとうございました」

 私は深々と頭を下げた。
 あの日のこと、そしてこれまでのこと、全てに。

「わざわざ気を遣って頂いて申し訳ありませんが、私はもう、弾くことが出来ないから」

「いいえ。そうね、私こそごめんなさい。軽率な言葉だったわ」

 杏奈さんが謝ることじゃないのに。
 バツが悪くなった私は、もう一度だけ会釈をすると、一旦病室を出て、またあの隅っこにあるソファへと座り込んだ。
 大きく吐いた溜息に、少しばかりの後悔と、大きな無力さを覚えた。

 昨日、ピアノに触れたのは何となくだったけれど、それによって、変化と言う名の事実を知ってしまった。
 コンペの舞台でなくとも、母が聴いてくれるなら別だ。けれども今、その母は何とも言えない状態だ。目で見て、耳で聴いてるのだと分かる反応がないのであれば、それは聴いていないのと同じこと。
 そんなことに輪をかけるように、楽譜は読めなくなって、奏でる力すら失ってしまったとあっては、いよいよピアノから離れる時が来たということだ。

 いや――そもそもが、午睡の夢を視ているような数ヶ月だった。

 元々弾けなかったピアノが弾けるようになって、読めなかったものが読めるようになるなんて奇跡を味わえたのだから。
 コンペだって、その奇跡に甘えて挑めた夢に過ぎない。
 ピアノだけじゃない。本当なら、今こうして杏奈さんと話すことも、父に会うことも、なかった筈なんだ。

「だから、別にいいんだ、もう……弾けないのなら、そんなに深く考えなくたって」

 肩を落とし、溜息交じりに呟いた。

『陽和――』

 どこからともなく私の名前を呼ぶ声がした。
 それは院内の放送でも、まして隣やすぐ向かいからかけられたようなものでもない。
 内側から聞こえるその声は、いつかのように、優しく言った。



『安心して、陽和。君の音は、まだ死んじゃいない』
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