別れの曲
「お母さん、もういなくなるかも知れないのに……陽向まで消えちゃったら、私……」
「それは違う。僕は消えるんじゃない。君と、本当の意味で一つになるんだ。分かれてしまっていたものが、繋がるだけだ」
「同じことだよ…! 私、甘えるのって下手だから、お母さんにも涼子さんにも、どうやって弱みを見せたら分かんないし……陽向だけが、この場所だけが、何もかも忘れて、素の自分でいられる唯一のものだったのに……」
「いいや。陽和はもう、手にしている筈だ。僕がいなくたって、どんな自分でも見せられる場所を。そして君自身、強くなっていることも。ちゃんと、分かってるでしょ?」
「そんなの、分かんないよ……」
「もう、まったく」
呆れたように笑って、陽向は肩を竦める。
目の前まで歩いてくると、小刻みに震える私の身体を、いつかのように優しく抱き寄せた。
「本来、僕たちは話せるはずもなかったんだ。それがこうして話せて、触れて、君の心に寄り添うことが出来た。それがどれだけ幸せなことか。分からない君じゃないでしょ?」
「うん……でも…」
「僕はもうじきいなくなる。ここには、来られなくなる。でもそれは、悲しいことじゃない。君が強くなった証で、僕に頼らなくたって大丈夫になったという成長の結果だ。胸を張っていいことなんだよ。もう、ナルコレプシーに悩まされることもなくなる」
「…………やだ」
「うん、僕も嫌だ。けれど、そればかりは変えられない。陽和なら大丈夫。もう、心配はいらない」
「やだよ……私、今だって泣いてるし、全然強くなんか……いつでも寝落ちさせてくれてもいいからさ、もっと、ううん、ずっと一緒にいたいよ…!」
「泣けるのは強さだよ、陽和。ずっと頑張って来たから、我慢してきたから、それだけ一気に溢れて来るんだ。よく頑張ったよ。とっても素敵な、強くて優しい自慢の妹だ」
「うぅ……陽向ぁ…」
「もう、ほら。せっかくの美人が台無しじゃないか、みっともない」
「いいもん、ここだけなんだから……」
縋るように回した手に、一層の力を籠める。
私と陽向は、違う人格であると互いに認識していながら、本来は同じものだと言ったけれど――今のこの気持ちは、陽向に抱く愛情は、偽物なんかじゃない。
森下陽向、その人に、私は確かな愛情を抱いているんだ。
「最後に、君と話せてよかった。一つになって、いつでも一緒にいられるようになるけれど、もうこうして話すことは出来なくなるだろうからね」
「……うん」
「いい返事だ」
頷くと、陽向は私から離れて、真っ直ぐに瞳を向けて来た。
「陽和は今、楽譜が読めない。そして、音も分からない。そうだね?」
「う、うん……陽向と会う前、ううん、会ってからしばらくの間とも、同じ感じ」
「なら答えは簡単だ。僕らが出会ってから、まずやったことは? 覚えてるかな?」
「私たちが、出会ってから……」
この素敵な世界に落とされて、少し歩いたところで、このピアノを見つけて。
不思議な声に誘われるようにして、まずやったことと言えば。
「…………楽譜」
ぽつりと呟く私に、陽向は大きく頷いた。
「読めず、弾けなかったものは、ここに持ってくることで整理をつけることで、現実に反映させてきた。あの速度で処理することが出来るのは、精々あと一回くらいだろう。一晩、と言い換えてもいい。それでも――たった一度だけでも、いや一度だからこそ、それに相応しい曲だってあるでしょ?」
「相応しい曲……」
私はすぐに思い当たった。考えるまでもない。
けれども、それ以上に恐怖もあった。
読めないかも知れないしれない恐怖。
読めたとしても、奏でられないかもしれない恐怖。
奏でられたとしても、一番届いて欲しい人に、届かないかもしれない恐怖。
それら全てが叶ったとして――その瞬間、本当に別れが来てしまう恐怖。
「私……私は――」
「陽和はこれまで、大きな決断と選択をいくつもしてきた。そしてその最たるものは、他でもないピアノだ。大好きだったのに、弾きたかったのに、母さんの横に立ちたかったのに、それが叶わないものだと知ると、君は認めたくなかったけどちゃんと受け入れて、別離という選択をした。それがどれだけ大きなものだったかは、君が一番よく分かってるはずだ」
「それは……」
「君の――君自身の意志で選んで、後悔のないよう前を向いて欲しい。陽和には、それが出来るだけの力も強さも、ちゃんとある。僕は、そう信じてる」
「後悔……」
後悔。心残り。それを考えて思い浮かぶのは、ただ一つだけだ。
「私……まだ、お母さんにだけ、あの曲を聴いて貰えてないの」
「うん、そうだね。なら、陽和が今やるべきことは?」
「…………分かったよ」
躊躇いはある。
けれど、私は敢えて力強く頷いた。
「いい返事だ。さあ、うかうかしてられる時間はないよ。陽和のやりたいことに、正直になりなさい」
「う、うん…!」
気合を入れて答える。
その刹那、陽向の身体が眩しく光ったかと思うと、意識がまた、遠のいて行くような感覚に襲われた。
『全ては、心の在り方次第だ。人は、思い一つで、なんだって出来る』
どうして――
『どうか忘れないで。君の音は、まだ死んじゃいない』
どうして陽向は、欲しい言葉を、欲しい時にくれるのだろう。
ああ。こんなことなら――
「陽向! 私、頑張るから…! 私、私ね――」
言葉が届くよりも、早く。
私は、病棟の端にあるソファの上で、目を覚ました。
「それは違う。僕は消えるんじゃない。君と、本当の意味で一つになるんだ。分かれてしまっていたものが、繋がるだけだ」
「同じことだよ…! 私、甘えるのって下手だから、お母さんにも涼子さんにも、どうやって弱みを見せたら分かんないし……陽向だけが、この場所だけが、何もかも忘れて、素の自分でいられる唯一のものだったのに……」
「いいや。陽和はもう、手にしている筈だ。僕がいなくたって、どんな自分でも見せられる場所を。そして君自身、強くなっていることも。ちゃんと、分かってるでしょ?」
「そんなの、分かんないよ……」
「もう、まったく」
呆れたように笑って、陽向は肩を竦める。
目の前まで歩いてくると、小刻みに震える私の身体を、いつかのように優しく抱き寄せた。
「本来、僕たちは話せるはずもなかったんだ。それがこうして話せて、触れて、君の心に寄り添うことが出来た。それがどれだけ幸せなことか。分からない君じゃないでしょ?」
「うん……でも…」
「僕はもうじきいなくなる。ここには、来られなくなる。でもそれは、悲しいことじゃない。君が強くなった証で、僕に頼らなくたって大丈夫になったという成長の結果だ。胸を張っていいことなんだよ。もう、ナルコレプシーに悩まされることもなくなる」
「…………やだ」
「うん、僕も嫌だ。けれど、そればかりは変えられない。陽和なら大丈夫。もう、心配はいらない」
「やだよ……私、今だって泣いてるし、全然強くなんか……いつでも寝落ちさせてくれてもいいからさ、もっと、ううん、ずっと一緒にいたいよ…!」
「泣けるのは強さだよ、陽和。ずっと頑張って来たから、我慢してきたから、それだけ一気に溢れて来るんだ。よく頑張ったよ。とっても素敵な、強くて優しい自慢の妹だ」
「うぅ……陽向ぁ…」
「もう、ほら。せっかくの美人が台無しじゃないか、みっともない」
「いいもん、ここだけなんだから……」
縋るように回した手に、一層の力を籠める。
私と陽向は、違う人格であると互いに認識していながら、本来は同じものだと言ったけれど――今のこの気持ちは、陽向に抱く愛情は、偽物なんかじゃない。
森下陽向、その人に、私は確かな愛情を抱いているんだ。
「最後に、君と話せてよかった。一つになって、いつでも一緒にいられるようになるけれど、もうこうして話すことは出来なくなるだろうからね」
「……うん」
「いい返事だ」
頷くと、陽向は私から離れて、真っ直ぐに瞳を向けて来た。
「陽和は今、楽譜が読めない。そして、音も分からない。そうだね?」
「う、うん……陽向と会う前、ううん、会ってからしばらくの間とも、同じ感じ」
「なら答えは簡単だ。僕らが出会ってから、まずやったことは? 覚えてるかな?」
「私たちが、出会ってから……」
この素敵な世界に落とされて、少し歩いたところで、このピアノを見つけて。
不思議な声に誘われるようにして、まずやったことと言えば。
「…………楽譜」
ぽつりと呟く私に、陽向は大きく頷いた。
「読めず、弾けなかったものは、ここに持ってくることで整理をつけることで、現実に反映させてきた。あの速度で処理することが出来るのは、精々あと一回くらいだろう。一晩、と言い換えてもいい。それでも――たった一度だけでも、いや一度だからこそ、それに相応しい曲だってあるでしょ?」
「相応しい曲……」
私はすぐに思い当たった。考えるまでもない。
けれども、それ以上に恐怖もあった。
読めないかも知れないしれない恐怖。
読めたとしても、奏でられないかもしれない恐怖。
奏でられたとしても、一番届いて欲しい人に、届かないかもしれない恐怖。
それら全てが叶ったとして――その瞬間、本当に別れが来てしまう恐怖。
「私……私は――」
「陽和はこれまで、大きな決断と選択をいくつもしてきた。そしてその最たるものは、他でもないピアノだ。大好きだったのに、弾きたかったのに、母さんの横に立ちたかったのに、それが叶わないものだと知ると、君は認めたくなかったけどちゃんと受け入れて、別離という選択をした。それがどれだけ大きなものだったかは、君が一番よく分かってるはずだ」
「それは……」
「君の――君自身の意志で選んで、後悔のないよう前を向いて欲しい。陽和には、それが出来るだけの力も強さも、ちゃんとある。僕は、そう信じてる」
「後悔……」
後悔。心残り。それを考えて思い浮かぶのは、ただ一つだけだ。
「私……まだ、お母さんにだけ、あの曲を聴いて貰えてないの」
「うん、そうだね。なら、陽和が今やるべきことは?」
「…………分かったよ」
躊躇いはある。
けれど、私は敢えて力強く頷いた。
「いい返事だ。さあ、うかうかしてられる時間はないよ。陽和のやりたいことに、正直になりなさい」
「う、うん…!」
気合を入れて答える。
その刹那、陽向の身体が眩しく光ったかと思うと、意識がまた、遠のいて行くような感覚に襲われた。
『全ては、心の在り方次第だ。人は、思い一つで、なんだって出来る』
どうして――
『どうか忘れないで。君の音は、まだ死んじゃいない』
どうして陽向は、欲しい言葉を、欲しい時にくれるのだろう。
ああ。こんなことなら――
「陽向! 私、頑張るから…! 私、私ね――」
言葉が届くよりも、早く。
私は、病棟の端にあるソファの上で、目を覚ました。