別れの曲
 夢へと引きずり込まれながらも、ある程度のところまでは弾き続けていた手は、いつの間にか止まってしまっていた。
 丁度、佳境に入るすぐ手前だった。

 涙が頬を伝った感触がある。
 指先が震えているのが分かる。

 視線だけで見やった周囲は、奏者である私が意識を手放したことでそれまで鳴っていた演奏が止まり、少しばかりのざわつきを見せ始めていた。
 いつの間にかやって来ていた涼子さん、そして杏奈さんも、同じように心配そうな目をしている。けれど、未だ駆けつける看護師や医師の姿はない。
 ならば――

(これが私の音……見ててね、お母さん、陽向…!)

 大きく吸った息をぐっと止める。
 纏う空気を変えると、私は嵐をも思わせる気迫で以って、そのフレーズへとさしかかった。
 重く速く、低音も高音も余さず大切な音で、どのバランスが崩れてもいけない不協和音の連続。
 何度も弾いて、躓いて、その度陽向と一緒になって考えて組み上げた、出会ってから初めて弾いた曲。

 私の、一番好きな曲。

 自分の指で弾いているようで、どこかそうでもないような感覚がする。何度ももつれそうになりながら音を外さないのは、きっと彼が、内側から助けてくれているからだ。

 ならば。
 ミスタッチなんか気にしないで、堂々と、私は残る和音の連打を弾き終えた。
 嵐が去ると、また、冒頭と同じ穏やかな空気。切なくも温かい、そんなメロディーラインだ。
 そんなこの曲ももう、あと一分程で終わりを迎える。
 たったそれだけの時間に、私はどれだけの思いを込め、伝えることが出来るだろう。

 別れの曲――英語圏でも『別離』と題されるこの曲は、フランスでは『親密』と題されるそうだ。陽向が言っていた。

 そう。私は今、陽向や母との別れを思ってではなく、愛情を表現する代わりとして、この曲を奏でている。
 別れの悲しさではない。
 溢れてやまない、親密さの証として。
 陽向に……母に……届けと、ただそれだけを願って。

 ショパン自身が『一生の内、二度とこんなに美しい旋律を見つけることは出来ないだろう』と言った曲を。

 一生分の、愛をこめて。
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