このたび、乙女ゲームの黒幕と婚約することになった、モブの魔法薬学教師です。
 歩みを進めるほど甘い香りは濃くなっていき、少しクラクラとする。

「着いたぞ」

 トレントが指を振ると風が巻き起こって霧が晴れた。
 辺り一面に、小さく可憐な花が咲いている。モーリュの花だ。
 試しに一つを引き抜いてみると、黒くて丸い根が顔を出す。

「見つかってよかったわ」

 首につけていたお手製のミニバッグにモーリュをいくつか入れる。

 この珍しい植物を生徒たちに見せたいけれど、きっとそんなことをするとロアエク先生のことが王室側の人間にバレてしまうかもしれない。

 残念だけど、事情が事情なだけに、仕方がないわね。

「トレント、案内してくれてありがとう。名残惜しいけど、もう帰るわ」
「ふむ、薬の効果のことを考えると急いだ方がいいだろう」
「あとね、お願いが一つあるの」
「断る」
「まだなにも言ってないんですけど?!」
「人間の頼み事などろくなことがない」

 軽蔑するような目を向けられてしまう。
 こんなトレントが人間のロアエク先生に惚れるだなんて、二人の間になにがあったのかしら?

「トレントに、ロアエク先生の呪いを解いてほしいのよ」
「儂が?」
「その方がきっと、安全だから」
「どういうことだ?」
「先生には古の呪いがかけられているから、相手はそれなりに周到だと思うのよ。きっと解呪されてないか見張ってるはずなの。呪いが解けたとわかったらなにをしでかすかわからないから、人間の私たちが動くより精霊のあなたが動いた方がバレずに済むわ」
「ふむ、儂としてもエディットの顔を久しぶりに見られる理由ができるのは嬉しいが」

 会いに行く口実が欲しいあたり、意外とヘタレな性格をしているのかもしれない。
 ちょっぴりトレントに親しみを覚えた。
 怒りそうだから本人には言わないけど。

「あなたが頼りなのよ」
「しかたがない、行くとしよう」

 よっしゃ、と肉球でガッツポーズしていると、ジルが毛を逆立てて大声を上げた。

「魔物が来るぞ!」

 心臓が大きく脈を打つ。
 こわごわと辺りを見回すと、大きな影が見えた。

 咆哮が聞こえて、振り返ると大きなイノシシのような生き物がいる。
 真っ黒な身体に、赤く光る目を持つ――魔物だ。

 そして私は、この魔物のことを知っている。

「呪術がかかった魔物だな。この国のものじゃないぞ」

 トレントの言葉に、やっぱりと思った。

 この魔物は敵対関係にあるシーア王国のスパイが召喚してここノックス王国に放ったもの。
 シーアの王子で潜入のために入学するオルソンがサラと出会ってないのにこの魔物が召喚されたなんて、予定よりも早いわ。
 ノエルがまだ闇堕ちしてないから物語が狂ったのかしら。

「レティシア頑張れ~!」
「やっぱり戦うのは私なの?!」

 どれだけ声援を送られたって、猫と巨大イノシシの勝敗の結果は見えている。
 けど、今のこの状況だと戦うしかない。

「”凍れ(グラキエース)”!」

 もちろん、猫パンチが効くだなんて思ってないので魔法で戦う。
 だけど私が繰り出す魔法なんて相手にとってはそよ風が当たるようなもので、全く効果は見られない。

 こういう時に、私がチートだったら良かったのにって思うんですけど。
 神様、どうしてこんなただのモブに転生させたんですか?!

「うっ」
「お、おい、小娘、どうしたんだ?!」

 急にお腹が熱くなり始めた。
 変身薬の効果が切れ始めて体が元の姿に戻ろうとしているようだ。

「元の姿に戻る前に帰らねばならないか。手間をかけさせてくれる」

 トレントはそう言うと、私を庇うようにして前に立つ。
 さっき舌打ち聞こえてきたんですけど、助けてもらいたいので文句は言わないです。

「このポンコツ小娘の世話は俺様が任されている。手間はかけさせない」

 ジルも前に出てきて、あっという間に姿を変えた。
 みるみるうちに体が大きくなり、翼が生えたクロヒョウのような見た目になった。
 
「ご主人様から許可は下りている。すぐに片付けるぞ」

 それからはあっという間で、トレントが木の根で魔物の体を拘束すると、ジルが炎を吐き出して焼き尽くした。
 灰になって消えていく魔物を見ながら思い出したのは、ゲームの終盤のこと。

 闇にのまれたノエルが手下を使ってオリア魔法学園を襲撃するんだけど、その時に出てくる、黒い炎を吐き出して校舎を焼き尽くそうとしていた手下は、今のジルと全く同じ姿だった。

「ジルってすごく強いんだね」
「当り前だ! 昔は強い妖精に片っ端から勝負を挑んで倒して来たんだからな!」
「それで、調子に乗ってこの森のドライアドに喧嘩を売って返り討ちにされたんだろ?」
「うっ……」
「なるほど、だから裏フィニスが聞きたくない名前だったのね」
「うるさい!」

 大きい耳をピンと後ろに倒して怒る姿は猫らしくて、迫力が全くない。
 思わず笑っていると、熱が全身に回ってきた。変身薬の魔法が弱まってきているみたい。

「時間がないから急ごう」

 精一杯足を動かして走っていたんだけど、いかんせん、普段の運動不足が祟って思うように走れない。

「この愚鈍が!」
「ひどい! でもありがとう!」

 見かねたトレントに抱きかかえられて裏フィニスを抜け出した。
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