紅色に染まる頃
「副社長。よろしければバーで気分転換されてはいかがですか?」
「え?」

その日の帰り道、車の中でふいに須賀が声をかけてきて伊織は戸惑う。

「良いアイデアが浮かぶかもしれませんし、ゆっくりお酒を楽しんでみては?」
「ああ、そうだな。そうしようかな」
「はい」

須賀は、Bar. Aqua Blueのビルの前で車を停めた。

「ありがとう。帰りはタクシーを拾うよ」
「かしこまりました。素敵なひとときを」

伊織は去って行く車を見送ってからビルに入った。

バーのドアを開けると、カウンターにいた紘が一瞬驚いた表情になったが、すぐににこやかに声をかけてくれる。

「いらっしゃいませ。こちらにいらっしゃるのは随分お久しぶりですね」
「ええ、ご無沙汰しています。エレナさんにはいつも仕事でお世話になっています。紘さんもお元気でしたか?」
「はい、お陰様で。今夜は何をお作りしましょうか?」
「ジントニックをお願いします」
「かしこまりました」

カウンターのいつもの端の席で、頭の中を空っぽにしながらお酒を味わう。
居心地の良い雰囲気に、伊織は気持ちが解放されていくのを感じていた。

すると人々のおしゃべりの中に、小さくピアノの音が混ざり始めた。
ゆったりと音を並べていき、少しずつ確かな旋律になる。

伊織はピアノを振り返って驚いた。
てっきりエレナだと思っていたが、ピアノに向かっていたのは美紅だった。

(そうか、エレナさんは出産間近だもんな)

久しぶりに見る美紅は相変わらず気品に溢れて美しい。
懐かしく、それでいて遠い存在に感じた伊織は、ただ黙って美紅を見つめていた。

やがて美紅は一旦音を止めてから、両手を鍵盤に載せて奏で始める。

『Desperado』

静かで、どこか切ないメロディ。
心にすっと入り込むピアノの音は、今の自分の気持ちに寄り添い、慰め、癒やし、そして勇気づけてくれるようだった。

いつの間にか伊織の目に涙が込み上げてくる。
美紅と過ごした日々が脳裏に蘇ってきた。

大きな仕事に二人で向き合っていた忙しい日々。
その合間に、確かに二人で心を通わせた瞬間があったことを思い出す。

離れてから気づく美紅の存在の大きさ。
もう二度と、あんなふうに彼女と一緒に過ごすことは出来ないのかと思うと、胸をギュッと掴まれたように苦しくなる。

(こんな弱気では駄目だ。一人でもしっかりと仕事をやり遂げてみせなければ)

ただ…。
今は、今だけは、心を開放して美紅のピアノに癒やして欲しかった。
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