怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む

3・ふたり暮らしの始め方

 貴也宅への引越し当日、業者が運び込んだ荷物を前に詩織は床にへたり込んでうなだれていた。
「ありえない……」
 唐突な展開で貴也と一緒に暮らすことになったけど、会社勤めをする詩織には、その準備をする時間がない。だからそれを口実に、引っ越しの延期を申し出ようとした。
 だけど貴也の申し出に歓喜していた詩織の両親が、冗談じゃないと青ざめ、詩織にかわって引っ越し荷物の準備をしておくと言って譲らなかった。
 少しでも多く彼と一緒にいたい気持ち半分、彼と一つ屋根の下で暮らすなんて恥ずかしいという気持ち半分で揺れていた詩織は、両親のその勢いに背中を押されたような気がして全てを任せることにしたのだ。
 だけど……
「ウチの両親、なにを考えているのよ」
 詩織がそんな恨み言を口にするのは、貴也が詩織の個室にとあてがってくれた部屋に運び込まれた調度品の絢爛さだけでなく、母が選んだらしき衣服のセンスにもある。
 通勤時間の短縮を目的としての引越しなのに、お運び込まれた荷物の中には、新調した留袖の着物を始めとした礼服や装飾品の数々が詰められていた。
 それだけでも、「嫁入り道具じゃないんだから」と文句を言いたくなるが、その上、母のセレクトと思われる華やかなレース使いの下着や、煽情的なデザインのナイトウエアに至っては、目眩に襲われて声も出せない。
 これまで一緒に暮らしてきたのだから、詩織の下着の好みや、寝る時はパジャマを使用していることぐらい知っているはずなのに。
 翔也にそんなつもりがないとわかっているだけに、その全てがどう考えても嫁入り道具としか思えない品々が恥ずかしい。
「……」
 半分ほど荷解きしたところで、色々考えるのが嫌になってきていた詩織は、思考を放棄するように自室を出た。
 するとその気配を察したのか、「用があれば呼んでくれ」と言ったきり書斎に籠っていた貴也が廊下に顔を出す。
「片付け、終わったか?」
 そう問いかけてくる彼は、パソコン作業をしていたのか、ブルーライトカットの眼鏡をしている。
 無造作に髪を遊ばせ、シャツの胸元をはだけさせている彼は、レアな眼鏡姿も相俟って無駄にセクシーだ。
 これまで目にしたことのない彼の姿に見惚れていると、貴也がどうかしたかと言いたげに軽く首を傾ける。
 その何気ない仕草さえ香り立つような男の色気に溢れていて、詩織は頬を熱くする。
 今更だけど、こんな完璧な男性と一つ屋根の下で一緒に暮らして、自分の心臓は大丈夫なのだろうかと不安になる。
「えっと……片付けは全然終わってないんです。ていうか、色々とっ散らかって、収集つかない感じです。……でもちょっと疲れちゃって」
 なにをどう説明すればいいかわからず、そんな言葉で誤魔化すと、貴也が柔らかく笑う。
「急ぐことはないさ。気分転換に外でお茶でもするか」
 そう言うと、翔也は書斎に引き返していく。
「貴也さん、忙しいんじゃないですか?」
「詩織が部屋に入るなって言うから、暇潰しに資料の整理をしていただけだ。気分転換をしたいのは、俺の方かもな」
 彼の後を追って書斎に顔を出す詩織に、眼鏡を外して髪を書き上げる翔也が優しく目尻に皺を寄せる。
 そんなふうに言われてしまうと、詩織に断わる理由はなくなる。
「じゃあ、私も身支度してきます」
 今の詩織は、引っ越しのため動きやすいズボンとTシャツというラフな格好をしているし、メイクもほとんどしていない。
 せっかく貴也と出かけるなら、もう少し可愛い自分でありたいと、詩織は早足に自分の部屋に引き返していく。
「慌てなくていいよ」
 そんな詩織の背中に、貴也の柔らかな声が重なる。

 気分転換にと貴也が詩織を連れ出したのは、川沿いに建つ個人経営のカフェだった。
 開店時間が早いので、翔也は出勤前にこの店で食事を済ませることも多いのだと言う。
「出勤する前に、一緒にモーニングを食べるのも悪くないな」
 葛切りを使った和風スイーツとラテを楽しむ詩織の向かいで、ブラックコーヒーを飲む貴也が言う。
 その言葉に、詩織は手にしていたスプーンを落としそうになる。
 慌ててスプーンを握り直す詩織に、貴也が怪訝な眼差しを向けてくるので、なんでもないと首を横に振る。
 言葉にするのは恥ずかしいので言えないけど、彼の日常に自分の存在が溶け込んでいくのが嬉しいのだ。
「いいですね」
 照れた表情を浮かべる詩織に、貴也はホッとした表情を浮かべる。
 まるで、詩織が彼と一緒にこの店で朝食を取るのを断る可能性に怯えていたようだ。
 何故彼がそんな顔をするのかわからない。
 詩織はそのことを不思議に思いつつ、店内に視線を巡らせ、この店で彼と一緒に朝食を取る自分の姿を想像した。
 そのまま二人で小一時間程雑談を楽しみ、店を出る頃には、街は人混みが増えていた。
 時間は午後三時過ぎ、貴也のマンションがある周囲には商業施設も多いためか、路地は買い物袋を下げた人で賑わっている。
「人が多いな」
 店を出た貴也はそう呟くと、自然な仕草で詩織の手を取った。
「――っ」
「人が多いから」
 手を握られ驚く詩織に、貴也がそう返す。
 そしてだから手を解いちゃ駄目だよといった感じで、繋いだ手に力を込める。
 詩織が恥じらいつつも繋いだ手を握り返すと、貴也はそのまま歩き出した。

 マンションに戻った詩織は、仕事の続きをするという貴也と書斎の前で別れて引っ越しの片付けを再開した。
 カフェを出たとき人混みを理由に口実に繋いだ手は、マンションの玄関を潜るまで繋いだままだった。
 だから手を離した今も、繋いだ手の感触が残っているようでくすぐったい。
「なんだか、うまくいくかも」
 自室で一人、手をグーパーさせて詩織が呟く。
 貴也に同棲を提案された時は、ただただ戸惑うばかりだったし、花嫁道具ばりに揃えられた引っ越し道具を前に、頭が白くもなった。
 それに、大人の色気漂うプライベートな貴也の姿にも緊張してしまい、毎日ドキドキしっぱなしで自分の心臓がどうにかなってしまうのではないかと怖くもあった。
 だけど貴也と二人、何気ない会話を楽しみつつお茶を飲んで、二人手を繋いで帰ってきた後は、なんだか大丈夫な気がしてきた。
 貴也がなにを考えて、この同棲を断行したのかはわからないけど、想像していたよりずっと自然な気持ちでこの暮らしを受け入れられそうだ。
 そのことをくすぐったく思いながら引っ越し荷物を片付けていた詩織は、夜に再びうなだれることとなる。

「どうしよう……」
 夜、食事と別々に入浴を済ませ、いよいよ就寝しようかというタイミングで詩織は重大なことに気付いた。
「どうかしたか?」
 詩織と二人並んでソファーでくつろいでいた貴也は、突然息を呑んだ詩織に聞く。
 一瞬口ごもる詩織だが、これは一人で解決できるような問題ではないと納得し、たった今気付いた一大事を報告する。
「あの……引っ越しの荷物、両親に準備を任せたんですけど……その……お揃いの食器とか、着る予定のない着物とか、その他不要な物がいっぱいはいってたのに、ないんです……アレが」
「アレ?」
 詩織がなにを言いたいのかわからないと、貴也が首をかしげる。
 確かに、これだけでは伝わらないだろう。
 そう納得した詩織は、意を決っして、両親が準備し忘れた「アレ」がなんであるかを打ち明ける。
「ベッド」
 詩織の自室は広く、そのサイズを確認したうえで両親は、仕事用のデスクや鏡台まで準備してくれていたのに、寝るのに必要なベッドは用意してくれていない。
 あんな扱いに困る下着やナイウエアより、そっちの方がないと困るのに。
「はい?」
 消え入りそうな詩織の言葉に、貴也が驚きの声を漏らした。
 そんな彼の反応に、自分の声が聞こえなかったのだろうかと思い、詩織は同じ言葉を繰り返す。
「その、私が寝るベッドがないんです。こんな時間だし、どうしましょう」
 そう言いつつ、時計に視線を向けて時刻を確認した。
 時計の針は、午後十時過ぎを示している。今すぐベッドを買いに行けるような時間ではない。
「なんで忘れちゃうのかな」
 眉尻を下げて恨み言を口にする詩織の隣で、貴也が笑いを噛み殺しているのがわかった。
 なにが面白いのかと視線を向けると、困り顔で髪を掻き上げる貴也が言う。
「そりゃ、詩織のご両親からすれば、俺たちの同棲は結婚を前提にしたものなんだ。詩織が一人で使うためのベッドを準備するわけがないだろ」
「あ……っ」
 その言葉に、詩織は目から鱗が落ちたような気がした。
 二人にとって婚約は形だけのものに過ぎないが、周囲の認識はそうじゃない。
 詩織の両親からすれば、四年の婚約期間を経て同棲を始めた二人の間にはそういった営みがあるのが当然という認識なのだろう。
 詩織の趣味とは異なる下着やナイトウエアの意味を改めて理解して、詩織は赤面して俯く。
 そんな詩織の頭に、貴也の手が優しく触れた。
「俺はソファーで寝るから、詩織は俺のベッドで寝ればいいよ」
 詩織の頭をポンポンと叩きながら貴也が言う。
 その言葉に詩織は顔を上げて彼の顔を見た。
 どうやら貴也も、自分との男女の営みといったものを考えていないらしい。
 求められても困るはずなのに、あからさまに距離を取られると胸がざらついてしまう。
 そんな自分を持て余しつつ、詩織は慌てて首を横に振る。
「それなら、私がソファーで寝るから、貴也さんがベッドで寝てください」
「そんなこと、詩織にさせられないだろ」
「それは私の台詞ですっ」
 リビングのソファーか海外メーカーのもので、ゆったりした作りをしている。小柄な詩織なら難なくベッド代わりに使えるけど、長身な貴也ではそうはいかない。
 自分の意見を譲る気はないと詩織が上目遣いで睨んでいると、貴也が困り顔で息を吐く。
 自分の顎に指を添えてしばし考え込んだ貴也は、不意に探るような眼差しを詩織に向けて言う。
「それなら二人で一緒に寝るか?」
「えっ!」
 思いがけない言葉に、素頓狂な声を上げてしまう詩織に、貴也は言葉を重ねる。
「詩織が求めてこないなら、俺からなにかするようなことはないよ」
 つまり貴也は、自分に女性的な魅力を感じていないということだろう。
 それでいて、こちらの反応を窺う彼の眼差しに妙な熱を感じるのは気のせいだろうか……
 ――もし私が求めたら、どうなるんですか?
 そんな言葉が喉元まで上がってくるけど、それを言葉にする勇気がない。
「……」
 詩織が顔を赤くして口をパクパクさせていると、貴也がさっきの自分の発言を誤魔化すように言う。
「最初に出会った日も、一緒に寝ただろう。今さらだ」
「ああ……」
 確かにあの日、出張帰りで疲れ果てていた貴也の隣で、いつの間にか自分も寝てしまった。
 緊張していたはずの自分が、彼の存在を心地よく感じて熟睡した日のとこを思い出すと、恥ずかしいけど懐かしい。
 あの時のことを持ち出すということは、今も彼の目に、自分はそういう対象に映っていないということだろう。
 今だに子供扱されるは悔しいけど、それ以上に彼と一緒に眠れることが嬉しい。
「そうですね。私と貴也さんが一緒のベッドで眠ったところで、なにかあるはずありませんもんね」
「……」
「……?」
 なんだろう。自分から言いだしたはずなのに、貴也が一瞬、何か微妙な表情を浮かべたような気がする。
 そのことにしばし首をかしげる詩織だけど、すぐにえいやと勢いを付けて立ち上がる。
 向こうがこちらを女性として意識していないのであれば、自分ばかり過剰反応を示すのも恥ずかしい。
「先に寝室に行きますね」
 その場の勢いに任せないと、またあれこれ考えてしまいそうなので、詩織はそう言ってリビングを出て行こうとした。
 そんな詩織を、貴也が呼び止めて聞く。
「詩織、その格好で寝るのか?」
 貴也のその言葉に、詩織は自分の胸元へと視線を落とす。
 親が準備してくれた大人びたデザインのナイトウエアを着る勇気がなかったので、比較的ラフなズボンとシャツを選んで着ているが、いつでも外出できそうな服装なのでパジャマ代わりにするには、少し不自然だったらしい。
「お母さん、パジャマも準備するのも忘れたみたいです。明日、足りないもの色々買ってきます」
 足りない物の中には、当然下着も含まれている。
 少しぎこちない微笑みを浮かべた詩織は、それ以上なにか聞かれては困ると慌ててリビングを後にした。

  ◇◇◇

 貴也と同棲を始めて五日の朝、目を覚ました詩織は、同じベッドで眠る貴也を確認する。
 唐突な展開で彼のマンションで一緒に暮らすことになり、最初は戸惑うばかりだったし、些細な彼の一挙手一投足にも緊張していた。
 だけど彼との暮らしに馴れて、こうやって彼の寝顔を見ていると、同棲してよかったと思う。
 同棲初日、貴也に一緒のベッドで寝ようと言われたことで、毎日一緒に眠っているが相変わらず自分と貴也の関係は清いままである。
 そのことに対して女としての不満がないわけではないが、それでも、彼の無防備な姿を見ていると心が温かくなって、自分は彼にとって特別な存在なのではないかと思ってしまう。
 今日からお互い夏期休暇なので、急いで起きる必要はない。
 だからシーツに頬を寄せ、のんびり彼の寝顔を見守る。
 どのくらいそんな時間を過ごしたのだろうか、貴也の瞼がピクリと震えた。
「……ンッ」
 瞼を震わせた貴也は、眉間に皺を寄せて乾いた声で唸る。
 そのまま気怠げに体をよじらせた貴也は、ぼんやりと目を開け、詩織へと腕を伸ばしてきた。
「――っ」
 貴也の腕が自分の肩を撫で背中に触れたかと思うと、貴也はそのまま詩織を自分の方へと引き寄せる。それと同時に、もう一方の腕も詩織の首の下に滑り込ませて、詩織の体を抱きしめた。
 突然の抱擁に驚き、されるがままとなる詩織は、そのまま彼の首筋に顔を埋める形となる。
「……詩織っ」
 寝起きの甘く掠れた声で名前を呼ばれ、詩織は緊張で体を硬くした。
 名前で呼ばれるのはいつものことだけど、寝ぼけているせいなのだろうか、今の彼の声にはいつもと違うものを感じる。
 いつもの、親しみや、優しさを感じさせる声ではなく、もっと切実な思いを含んでいそうな彼の声が心地よくて、詩織はその首筋に顔を埋めて名前を呼び返す。
「貴也……さ……ん」
 告げることが出来ずにいる愛情を込めて、彼の名前を呼び返す。
 すると背中に触れていた貴也の手が動き、詩織の頬を優しく撫でて顔を上向かせる。
「詩織っ」
 優しく自分名前を呼ぶ声に続き、彼の唇が自分の唇に触れた。
「――っ!」
 唇で彼の唇の温度を感じ、詩織は驚きで息を呑む。
 自分の身になにが起きているのか理解出来ないまま体を硬直させていた詩織は、数秒遅れで自分が彼にキスされているのだと気が付いた。
 詩織に唇を重ねたまま、頬に触れていた貴也の手がゆっくりと移動していく。
 頬から首筋へと移動していく手は、鎖骨の窪みをなで、そのまま胸の膨らみへと重ねられる。
「あぁ……っ」
 パジャマの上から、そっと触れられただけなのに、心臓を鷲掴みされた衝撃を受け、詩織は細い声を漏らした。
 その声に覚醒したのか、目を大きく見開いた貴也が詩織から手を離し、勢いよく上半身を起こす。
「ごめん。間違えたっ!」
 自分の口を覆い、貴也が謝罪の言葉を口にする。
 咄嗟に飛び出したその言葉に、詩織の胸に先ほどとは異なる痛みが走った。
 ――間違えたって、誰と?
 そんなこと、彼に聞けるはずがない。
 詩織は、枕に顔を埋めて泣きたくなる思いをやり過ごす。
「酷〜い。ファーストキスだったのに」
 貴也に傷付いていることを悟られないよう、わざとふざけた口調で言うと、貴也は再び「ごめん」と謝る。
 つまりそれは、彼にとってこの口付けは、寝ぼけた故の間違えたということなのだろう。
 彼が夢で誰を求めていたのか、知るのが怖い。
 そしてかりそめの婚約者に過ぎない自分には、それを責める権利がないのが辛い。
 それでもどうにか泣きそうな感情をやり過ごした詩織は、貴也に視線を向けておどけた口調で言う。
「お詫びに、今日一日どこかに遊びに連れて行ってください。今日はご飯も作ってあげません」
 一緒に暮らすようになってから、詩織は毎日、二人分の朝食の準備をしていた。夕食は貴也が外食に誘ってくれたり、お互い仕事の付き合いで外で済ましてくることもあるので、作ったり作らなかったりといった感じだ。
「了解」
 拗ねた視線を向ける詩織に、貴也は困ったように笑う。
 貴也は普段からかなり忙しくしているので、休みの間はゆっくりしてもらうつもりでいた。
 それなのに詩織がそんなお願いをしたのは、このまま二人で家で過ごしていると、彼が自分を誰と間違えたのか気になって悲しくなってきそうだからだ。だからといって、彼と別行動するのも寂しい。
「何処に行きたい?」
 寝起きで乱れている詩織の髪をクシャリと撫でて、貴也が聞く。
 そんな彼に、詩織は更なる注文を付ける。
「何処に連れて行ったら私が喜ぶか、貴也さんが自分で考えてください」
 詩織としては、それは些細な意地悪だ。
 貴也と一緒に行きたい場所ならいくらでもある。普段は忙しい彼に遠慮して、詩織から何処かに誘うことがないだけで、普通の恋人同士のように仲良く一緒に出かけて、彼と思い出を共有出来たらいいのにと願っているのだから。
 詩織のお願いに、貴也はいよいよ困った顔をするけどすぐに「承知いたしました」とからかい口調で言う。
 そしてひときわ乱暴に詩織の髪をクシャリと撫でると立ち上がる。
「ファーストキス奪ったお詫びに、お姫様の機嫌が治るデートプランを考えておくから、ゆっくり身支度してからリビングにおいで」
 そう言って貴也は、寝室を出て行く。
「……デート」
 寝室の扉が閉まり、貴也の気配が遠ざかったのを確認して、詩織はその言葉をなぞった。
 そして枕を目一杯強く抱きしめる。
 自分とのお出かけに、彼がその単語を使ってくれただけで、気持ちは一気に舞い上がる。
 恋する乙女はつくづく単純だと呆れつつ、詩織は抱きしめた枕に顔を埋めて笑った。

  ◇◇◇

 ――ファーストキスだったのか……
 馴染みのカフェで詩織と向き合って朝食を取る貴也は、心の中で安堵の息を漏らす。
 詩織と婚約をしていはいるが、それは形だけのものに過ぎない。
 さすがに結婚まではしてやれないが……
 最初にそう宣言したのは、自分の方だ。
 だから自分に詩織の行動を縛る権利はないし、婚約者としての世間体があると他の男性と親しくなることを止めることが出来たとしても、その心まで縛ることまでは出来ない。
 だから詩織に自分以外の誰かとなにかあったとしても仕方ない。
 そう思っていたはずなのに、詩織に今朝のあれがファーストキスだったと聞かされ、情けないほど安心してしまった自分がいる。
 ――いい年して、なにを考えているんだか……
 とはいえ、夢と現実の区別がつかず、間違えて現実の彼女の唇を奪ってしまったことには謝罪するしかない。
 同棲を始めたとはいえ、彼女が明確な愛情を示して自分を求めてくれるまで自制するつもりでいた。
 しかもファーストキスを、寝ぼけた勢いでしていいはずがない。
「貴也さん、疲れてます? やっぱり今日は、家で過ごします?」
 口元を手で隠し、あれこれ考えこんでいた貴也は、その声で意識を現実に引き戻された。
 見れば詩織は、気遣わしげな様子でこちらの反応を窺っている。
「全然疲れてないよ」
 貴也は口元から手を離し、そう応えてコーヒーを飲む。
 それでも詩織は、疑わしげな眼差しを向けてくる。
 出会って四年になるが、これまで詩織から、どこかに連れて行ってほしいとねだられたことはない。
 それはもちろん、上辺だけの婚約者という自分たちの関係性にも原因があるのだろうけど、詩織のもともとの性格が起因している部分が大きいだろう。
 詩織はいつも、相手を思いやる心を忘れない。
 家族の将来を案じて、自分と見合いをしたのと同じように、こちらの体調や忙しさを気遣って自分の希望を呑み込んでしまう。
 惚れた身としては、それがなんとも歯痒いのだ。
 そんな彼女が、何処かに連れて行ってほしいとねだってきたのだ、疲れを感じるはずがない。
「明日も休みだし、こんないい天気なんだ。一日中家で過ごすなんてもったいないよ」
 窓の外に視線を向ければ、ビル群の向こうに、コバルトブルーの空が広がっている。
「ですね」
 貴也の視線を追いかけて空を見上げた詩織が頷く。
 その顔を見れば、彼女も自分と過ごす休日を楽しむ気でいることが伝わってくる。
「今日は思いっきり楽しもう」
 詩織のその反応を嬉しく思いつつ、貴也は彼女を誘う。

  ◇◇◇

「貴也さん、ここれは?」
「百貨店のVIPルームだな」
 戸惑う詩織に事もなげに返す貴也は、「お前だって何度も使ったことあるだろ」と、不思議そうに首をかしげて確認してくる。
「それはわかります……」
 これでも一応、神崎テクノの社長令嬢なので、家族と共にこういった場所を利用したことは何度もあるし、神崎家お抱えの外商もいる。
 貴也に聞きたいのは、自分がどうしてここに連れて来られたかということだ。
 今朝、寝ぼけた貴也に誰かと間違えて唇を奪われたことを切っ掛けに、彼に何処かに連れて行ってほしいとねだったのは詩織だ。そして目的地を貴也に一任したのも、詩織である。
 詩織のそのお願いを了承した貴也は、近所のカフェで食事を済ませると、詩織をこの場所に案内したのだった。
「斎賀様、ご希望に添った品を揃えさせていただいたつもりですが……」
 革張りのソファーに並んで座る二人の前に紅茶を置き、恭しく頭を下げる中年男性は、斎賀家お抱えの外商だ。
 そんな彼が他のスタッフの手を借りつつ運んできたハンガーラックとワゴンには、女性物の服の他、鞄や靴と言った小物類やアクセサリーが揃えられている。
 今朝、詩織が身支度を済ませてリビングに行くと、貴也は何処かに電話を掛けていたが、その電話の相手はおそらく外商の彼だったのだろう。
 貴也に事前連絡を受けて準備したと思われる品は、どれも詩織の好みを意識して選んだ品だとわかる。
 長く斎賀家を担当している彼は、当然、詩織と貴也との関係も承知している。だから詩織と目が合うと「貴也様は、フィアンセに甘いですね」とからかってくる。
 そんな彼の言葉に、貴也は紅茶を一口飲んでご機嫌な様子で返す。
「いや、神崎さんは娘さんを厳しく教育されていたせいか、彼女はなかなか甘やかせてくれないんだ」
 貴也は、やれやれといった感じで肩をすくめる、
 そんな彼の袖を引き、詩織は小声で訴える。
「貴也さん、なにを考えているんですか?」
「今日のデートプランを俺に任せると言ったのは詩織だ。だからまずは、服を一緒に選んで、それに着替えてから出かけようとかと思って」
 そう話す彼の顔は、完全に悪巧みを楽しむ悪戯っ子のそれになっている。
 この表情を見せている貴也に勝てる気はしないのだけど、一応の反論を心見る。
「わざわざ買い足さなくても、実家から十分な品を持たされています」
「だけどそれは、俺が詩織に贈ったものじゃない」
「……」
 甘い微笑みを添えて、そんなことを言われてしまうと、断れないではないか。
 詩織が赤面して黙り込むと、話は纏まったと、貴也は得意気な表情で立ち上がり、詩織に手を差し伸べてくる。
「婚約者として、たまには俺に甘やかせてくれ」
 視界の端では外商の男性が、深く頭を下げ、詩織が行動を起こすのを待っている。
 どのみちこの状況では、なにも買わないというわけにはいかない。
 詩織は、小さく貴也を睨むと、仕方なく立ち上がった。
 それから小一時間掛けて、貴也の意見を聞きながら今日の装いを選んでいった。
 最初は困惑したけど、いざ一緒に服を選び出すと気持ちが弾む。
 これまでの買い物履歴から詩織の好みやサイズを把握した上でセレクトされたであろう品は、どれも魅力的で、ついつい目移りしてしまう。
 貴也は、優柔不断にあれこれ悩む詩織に嫌な顔をすることなく、一緒に服を選んでくれた。
 貴也と相談して、詩織は、白のブラウスに、ゆったりとしたシルエットのアイボリーのスカートに決めた。
「少し歩くと思うから、ヒールは低めのものがいいな」
 着替えを済ませた詩織をスツールに座らせる貴也は、幾つかの候補の中から、ヒールが低く、細いバックルで足首も固定するすることが出来るタイプのパンプスを選び、詩織の前に跪く。
 跪いた貴也は、詩織の右脚を掬い上げると踝を撫でるように指を這わせて、家から履いてきたパンプスを脱がせた。
「――っ」
 そんなことをされると思っていなかった詩織が驚いて硬直している隙に、貴也は自分が選んだパンプスを履かせて、足首のバックルまで止めてくれた。
 左脚も同様にして、履き替えさせる。
「これでよし」
 詩織のパンプスを履き替えさせた貴也は、立ち上がり、詩織に手を差し出す。
「あ、ありがとうございます」
 戸惑いつつも詩織が差し出された手を掴むと、貴也はその手を引いて立ち上がらせるのではなく、その手首にブレスレットを巻き付けた。
 一度掴んだ手を離した貴也は、細いチェーンブレスレットの金具を留めると、今度こそ詩織の手を引いて立ち上がらせる。
 彼の手を引かれ立ち上がった詩織は、自分の手首を確認した。
 細いシルバーのチェーンブレスレットは、所々に青い宝石があしらわれていて涼しげだ。
「よく似合っている」
 手首の角度を変えながらそれを眺めていると、そう言って貴也が優しく笑う。
 そして詩織が照れている隙に、外商にカードを渡し支払いを済ませてしまう。
「……」
 カードのサインを済ませた貴也は、着替えた服は、他の商品と一緒に後でマンションに届けて欲しいというようなことを話すと、「お待たせ」と詩織の手を引いて歩き出す。
「他にもなにか買ったんですか?」
 外商に見送られ、VIPルームを出た詩織は、貴也に聞く。
 先ほどの会話から、感じられたからだ。
「さっき一緒に服を選んでいるとき、詩織が興味を示したものは全部買っておいた」
「はい?」
 思いがけない言葉に、詩織が目を瞬かせる。
 あそこに揃えられていた品は、どれもハイブランドのもので、単品でもそれなりに根が張る。貴也の言い方だと、それを複数買ったようである。
「もったいないです」
 詩織の意見に、貴也はごもっとも頷く。
「でも詩織が愛用してくれれば、もったいなくないよ」
 そう返す貴也は、悪戯っ子の顔をしている。
 ――ああ言えば、こう言う。
 詩織は、ブレスレットの巻かれた手首に視線を落としてフウと息を吐く。
 貴也はいつもこうやって、上手に自分の意見を通してしまう。
 そしてなにが困るかと言えば、彼がいつも詩織を喜ばせる言葉を選ぶから、その行動を止めることが出来ないのだ。
「…………ありがとうございます。大事に使います」
「そう言ってくれてありがとう」
 あれこれ言葉を探した末、詩織がお礼を言うと、貴也もお礼の言葉を口にする。

  ◇◇◇

 貴也と暮らすマンションに戻ってきた詩織は、脱衣室で髪をタオルで拭きながら大きくため息を吐いた。
 百貨店での買い物を済ませた貴也が、車で詩織を連れて行ったのは、数年前にリニューアルした水族館だった。
デパートでの買い物を済ませた貴也は、詩織を車に乗せてし出かけたドライブにでかけた。
 詩織と貴也の会社は共に夏期休暇に入っていたが、まだ休み入っていない企業も多かったのか、逆に休みで東京を離れ故郷に帰る人が多かったのか、渋滞に巻き込まれることはなく、水族館も親子連れの姿が目立ったが酷い混雑とまではいかなかった。
 都内の商業施設の中にある水族館は、決して広いわけではないのだけど、その狭さを感じさせないだけのアイデアが詰め込まれていて詩織の目を楽しませてくれた。
 ペンギンの展示ブースはとくに見事で、空に向かって湾曲した水槽をペンギンが泳ぐ様は空を飛んでいるようだった。
 その圧巻の光景に心奪われた詩織は、飽きることなく空飛ぶペンギンの姿を楽しみ、その結果、軽い熱中症を起こしてしまったのだった。
 とは言っても倒れるようなことはなかったし、体に熱がこもって頭痛と目眩がするものの、普通に会話することも出来た。
 だから少し遅めのランチを取りつつカフェで休んでいればすぐに調子は戻ると思ったのだけど、貴也に体調不良を見抜かれ、そのまま家に連れ帰られてしまった。
 エアコンの効いた車内でスポーツドリンクを飲みながら帰ってきたおかげで、マンションに到着する頃には体調はかなり回復していた。
 それで頭痛が治まっていた詩織は、貴也に勧められたこともあり、シャワーで汗を流すことにしたのだ。
 そしてシャワーを浴びたことで、体はずいぶんスッキリしたのだけど、気分はちっとも晴れない。
「せっかく、デートって言ってくれたのに……」
 切っ掛けはどうであれ、貴也は今日のお出かけをデートと呼び、詩織の性格を考えた上でデートプランも立ててくれた。
 彼にパンプスを履かせてもらって、手を引かれて歩いた時には、本当にお伽噺の主人公にでもなれたような気分だった。
 だからこそ、それを自分で台無してしまったことが悔しい。
「私のバカ。貴也さん、きっと私のこと子供だって思ったよね」
 まだ湿り気の残る頬を摘まんで唸る。
 デートを台無しにしてしまったことも悔やまれるけど、それ以上に、空飛ぶペンギンに夢中になりすぎて体調を崩したという状況が悔しい。
 彼に大人の女性として認められたく色々頑張っているのに、きっと貴也は、詩織のことをまだまだ子供だと呆れてしまったに違いない。
 それが悔しくて、頬を摘まむ指に力を込めて引っ張る。
 そんな自虐的な八つ当たりをしていると、洗面台に置いてあった詩織のスマホが鳴った。
 開くと、貴也からの「大丈夫か? 気分悪くなってないか?」というメッセージが表示される。
 どうやら詩織がいつまでもバスルームにこもっていじけているので、中で倒れてないか心配になってきたらしい。
 すぐにバスルームを覗きに来るのではなく、まずはメッセージで安否確認をする貴也の気遣いが、逆に二人の距離感を思い知らされて今はなんだか悔しい
「……」
 とはいえ、これ以上彼に心配を掛けるわけにはいかない。
 詩織は「大丈夫です」とメッセージを送って、脱衣室を出た。

 まだ髪が湿っているため、ルームウェア姿で首にタオルを掛けている詩織がリビングに姿を見せると、ソファーで本を読んでいた貴也が立ち上がる。
「顔色、かなり戻ったな」
 歩み寄り詩織の顔色を確認する貴也が「まだ頬が赤な」と気遣わしげな顔をするのはかなり気まずい。
 いじけて脱衣室でひっぱていたせいです。なんて言えるわけがない。
「日焼けをしたせいです」
 あまり顔を観察されたくないので、詩織はそう言って彼から離れる。
 そしてさっきまで貴也が座っていたソファーに腰を下ろすと、顔を隠すために傍らのクッションを抱きしめた。
 そんな詩織に、貴也が申し訳なさそに謝る。
「そうか、ごめん。詩織を喜ばせたかったんだが、色々と配慮が足らなかったな」
「ちが……」
 自分は彼に、そんなことを言わせたいわけではない。
 でも詩織が慌てて自分の発言を訂正するより早く、貴也はリビングの奥、続き間になっているダイニングスペースへと姿を消してしまった。
 ――私のバカッ!
 もう一度自分の頬をつねりたい衝動に襲われた詩織は、その代わりに、クッションを抱く腕に力を込める。
 ついでに、それに顔を埋めて声なく喚く。
 どうしていつも自分は、大事な言葉を選び間違えてしまうのだろうか……。そう反省する気持ちはあるのだけど、その理由を深掘りして見えてくる答えが、詩織が子供だからという所に辿り着いたら目も当てられない。
「……っ」
 クッションに顔を埋めてあれこれ考えていると、が戻ってきた貴也が屈む気配がした。
 かと思うと、抱きしめていたクッションをヒョイッと取り上げられてしまった。
「あっ」
 突然のことに驚いた詩織が顔を上げると、彼女からクッションを取り上げた貴也は、その手に冷えたグラスを握らせる。
 グラスの中の液体の表面では小さな泡が跳ねていて、微かに甘さを含んだ清涼感のある香りがした。
「水分もとって」
 貴也のその言葉に促されるようにグラスを口に運ぶと、レモンスカッシュの味がした。
「美味しいです」
「よかったよ。夕食はなにかケータリングを取ろう」
 コクリと喉を鳴らした詩織が呟くと、貴也は嬉しそうに笑って隣に腰を下ろす。
 海外メーカーの広々としたソファーのクッションは、長身な彼の体をなんなく受け止めるけど、わざとバランスを崩したフリをして彼の方にもたれ掛かってみた。
「……」
 詩織がもたれ掛かってきたことに、一瞬驚いた貴也だけど、すぐにその肩に腕を回してくれた。
 肩を包む貴也の手が温かい。
 彼の手の感触を心地よく思いながら、詩織は再度グラスを口に運ぶ。
「すごく美味しいです」
 喉を撫でるレモンスカッシュの味に、心が癒やされる。これを彼が自分のために用意してくれたと思うと、今度こそ正しい言葉を選べる気がして、詩織はそのまま続ける。
「あと、今日、すごく楽しかったし、嬉しかったです」
「そう言ってもらえてよかった」
 チラリとこちらに視線を向けて貴也が言う。
 そして肩に回していない方の手を、詩織の手に重ねると、グラスを自分の口へと運ぶ。
「――っ!」
 彼の喉がゴクリと上下するのを眺めていて、これが間接キスだと気付くと、熱中症がぶり返したような熱を頬に感じてしまう。
「甘いな」
 ポツリと感想を呟く貴也は、グラスをソファーの前のローテーブルに置くと、親指の腹で唇の端を拭う。
 そしてなにかを探すように虚空を見上げる。
「……?」
 彼はなにを探しているのだろうかと、詩織もその視線の動きを追いかける。
 だけど貴也が見つめる先には、ただ天井があるだけだ。
 それでも数秒、そのまま天井を見上げていた貴也が、ポツリとなにかを呟いた。
「え?」
 貴也の言った言葉をうまく拾えなかった詩織が、視線を彼に向けて小首をかしげると、貴也は渋々と言った感じで言う。
「今日、詩織を着替えを待っている間に、二宮さんに婚約指は購入しないのかと聞かれたよ」
 二宮さんとは、斎賀家を担当してる外商の苗字である。
 今日、詩織の左手薬指に指輪がないことに気付き、売り上げに繋げるべく探りを入れたのだろう。
「そういえば、そういうのしてないですね」
 詩織は自分の手を裏に表にと翻しながら言う。
 貴也が、両家に詩織と婚約したと宣言した時、詩織はまだ大学生だった。そのため両家の間で、結納などは詩織が大学を卒業してからで……と話しが纏まっていたし、その後、詩織が両親の反対を押し切って就職したこともあり、その辺のことがうやむやになったままだった。
 ――本当に結婚するわけじゃないから、そういうなしなんだと思っていた。
 深く考えたことはなかったけど、かりそめの婚約者でしかない自分には、そういったものが必要とは思えない。
「買った方がいいか?」
 高くかざした手をヒラヒラさせていると、貴也にそんなことを言われた。
 見れば彼は、なんだか難しい表情でこちらを見ている。
 貴也としては、詩織の世間体のようなものを気にしてくれているのかもしれない。
 幾ら貴也が斎賀家の御曹司として彼には十分過ぎるほどの経済的余裕があるのはわかっている。
 そんな彼からすれば、体裁を整えるために婚約指輪を買うというのは、何気ない日の些細な贈り物としてブレスレットやネックレスをを買うのと同じ感覚なのかもしれい。
 そんな彼を見つめて、詩織は首を横に振る。
「そんなのいらないです」
 もちろん詩織だって年頃の女子なので、好きな人から指輪を贈られるというシチュエーションへの憧れはある。
 だけどそれは、相手も自分を思っていてくれてこそ喜べる贈り物なのだ。
「……」
 フルフルと首を横に振る詩織を見つめ、貴也はなにか言いかけたけど、言うべき言葉が見付けられなかったのか結局は口をパクパクさせただけで黙り込む。
 その時、テーブルに置かれていた貴也のスマホが鳴った。
 音の反応した貴也は、腕を伸ばしてそれを手に取り立ち上がる。
 貴也からすれば、それは電話を受ける際の何気ない動きだったのかもしれない。だけど隣に座っていた詩織としては、偶然見えてしまった彼のスマホ画面に表示された静原の名前に胸がざらついてしまう。
 後になって聞いたことだが、静原の父親はSAGA精機の古参社員で、神崎テクノテクノとの業務提携に難色を示していた存在なのだという。
 そのせいか、彼女は、貴也が神崎テクノの社長令嬢と婚約していることを快く思っていないというのは、貴也ではなく悠介が仕入れてきてくれた情報である。
 詩織が働くKSシステムとSAGAで仕事をすることになる可能性があると悠介に話したところ、彼が気をやってSAGAの他の社員にそれとなく探りを入れて聞き出してくれた。
 悠介が仕入れてきたその情報によれば、静原の父は、貴也が詩織と婚約していなければ自分の娘との見合いを画策していたとのことで、彼女自身かなり乗り気だったのだとか。
 悠介としては、だから静原に自分が神崎テクノの社長令嬢であることがバレないようにしろと忠告するためにそのことを話したのだろうけど、詩織としては、彼女が貴也との見合いに乗り気だったという話ばかりが気にかかる。
 ということは、運命の歯車がなにか一つでもズレていたら、貴也の隣にいるのは、自分ではなく静原だったのかもしれない。
 そう考えると、どうしても穏やかな気持ちでいられなくなる。
「ああ、いいよ。今? うん、自宅……」
 詩織と距離を取って話す際は、静原に短い言葉を返していく。
 そのまま彼女と話す貴也は、詩織にチラリと視線を向ける。
「――っ!」
 彼の視線に気付き、どうかしたのかと首をかしげると、貴也は大きくため息を吐いて腕時計を確認する。
「……わかった。今からそっちに行く」
 そう返して、貴也は電話を切る。
「出掛けますか?」
 漏れ伝わる会話からそう理解して確認すると、貴也が頷く。
「悪いな、一度会社に行った方が早そうだ。一人にして大丈夫か?」
 もちろん大丈夫だと、詩織は頷く。
「静原さん、お休みなのに仕事しているんですか?」
 貴也の言葉を疑っているわけではないが、素朴な疑問を口にする。
「…………うん。そう」
「……」
 今の間はなんだろう。
 詩織が不思議そうに首をかしげている隙に、貴也が身支度をすべく部屋を出て行ってしまったので、そのことを追求するタイミングをうしなったまま彼を見送ることとなった。
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