怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む
4・好きと言ってもいいですか?
「こんなことになるなら、最初に抱いておけばよかった」
「お前、バカだろ」
会員制のバーで、貴也が零した無意識の呟きに、悠介がすかさず突っ込みを入れる。
彼の言葉で若干の冷静さを取り戻した貴也は、「まあな」と返して苦く笑う。
そして胸に湧く苦みを飲み込むようグラスを口に運ぶ。
詩織と同棲を始めて早一カ月、それといった揉め事もなく、互いのペースを思いやりながら仲良く暮らせていると思う。
一緒に暮らすようになって初めて知った事だが、詩織は料理が上手く、彼女も仕事で忙しいはずなのにほぼ毎日食事を作ってくれている。
そのため、これまでは食事は商談を兼ねて外で済ませることが多かった貴也の外食の機会が激減した。
詩織の手料理が食べるために、仕事とプライベートのメリハリを付けるようになったのは、ワーカホリック気味だった貴也にとって、喜ばしい変化だろう。
SAIGAの社長である貴也の父親もその辺の変化に気付いており、詩織と一緒に暮らし始めたことを喜こんでいる。そしてここまできたら、神崎家のご両親を安心させるためにも早く挙式を上げるべきだと騒いでいる。
そうやって周囲の環境は結婚に向けて整って行くのに、二人の関係は相変わらず平行線のままである。
確かに同棲初日、詩織にその気がないならなにもしないと宣言したのは貴也の方だ。
その言葉を違える気はないが、惚れた女が、毎日自分の隣で無防備に熟睡する姿を見せつけられる身にもなっていただきたい。
彼女がそこまで熟し出来るのは、貴也を男として認識していない証拠だろう。
そう思うと、気持ちよさそうな詩織の寝顔が、少しだけ恨めしくなる。
「アイツにとって俺は、保護者のような存在なんだろうな」
「まあ、俺とお前は同い年だから、自然とそんなふうに見えちゃうかもな」
自分から言いだしたことだが、同意されると面白くない。
「……」
貴也は不機嫌に息を吐いてグラスを傾ける。
惚れた女、しかも形だけとは言え婚約までしている相手に、保護者としてしか見てもらえないのは辛い。
それでつき、もし同棲初日、もしくは最初に出会った時に、自分がもう少し違う接し方をしていたら、二人の今が違ったのではないかとつい考えてしまうのだ。
「試しに、お前から誘ってみたらどうだ?」
悠介のアドバイスに、貴也は冗談じゃないと顔を顰めた。
それで玉砕したら、どうしてくれる。
男女の関係さえ諦めれば、詩織との同棲は順調なのだ。こちらから変にアプローチを掛けて、今の関係さえも失ってしまうことになったら目も当てられない。
それが怖くて、夏期休暇の間も、寝ぼけてキスをしてしまった以外は、いたって健全に過ごしていたというのに。
実は貴也の会社と詩織の会社の夏期休暇は、二日ほどズレていた。だから彼女と休み合わせるために、こっそり有休を取っていたというのは秘密である。
だから仕事をしている静原から確認事項と相談をしたいとの連絡を受けた時、彼女にそのことに気付かれたのではないかとヒヤヒヤしてしまった。
それでつい、「今からそっちに行く」と返して出勤したのだ。
とはいえ彼女の相談内容は大したものではなく、正直休み明けでのよかったのではないかと思った。ただあの時、詩織に婚約指輪を口実に二人の関係を改めて考え直さないかと提案しようとして失敗したタイミングだったので、ある意味助けられた。
「色々うまくいかないよ」
呻く貴也を見て、悠介が愉快そうに笑う。
「なんでお前が、そんな奥手キャラになっているんだよ」
自分の学生時代を知る悠介のもの言いたげな視線に、貴也は面倒くさそうに息を吐く。
確かに若い頃はそれなりに遊んだが、それとこれとは話が違う。
詩織はこの世にただ一人しかいないのだから、下手に行動を起こして嫌われるわけにはいかないのだ。
そうなるくらいなら、真綿で首を絞められるようなこの状況に甘んじている方がいい。
――恋は、惚れた方の負けだ。
貴也は、悠介相手には恥ずかしくてとても言葉に出来ない思いをアルコールと共に呑み込む。
「今、詩織の会社と商談を進めている途中だから、それが落ち着いたら考えるよ」
自分でも、それは嘘だとわかっている。
詩織を愛おしく思えば思うほど、彼女に拒絶されるのが怖くて、一歩踏み出せなくなっているのだから。
「お前がもっとやる気を出して、神崎テクノを立て直し手くれたら、色々違ってくるんだけどな」
隣で酒を呑む悠介が、ニヤニヤと物言いたげな視線を向けてくるので、お約束の台詞で牽制しておく。
貴也の言葉に悠介は、痛いところを突かれたと首をすくめておとなしくなった。
◇◇◇
九月第二週の月曜日、詩織はSAIGA精機のオフィスへと急いでいた。
最初に貴也のオフィスを訪れたのは、八月の初め。先輩社員の生駒にお供しての事だった。
それから一ヶ月、最初の訪問で手応えを感じた生駒は、その後地道な営業を続け、本日、技術部門の社員と共に最終ディスカッションをおこない、納得してもらえれば契約という運びとなった。
世界市場で活躍するSAIGA精機と契約を結ぶことが出来れば、社としては金銭的利益以外に得るものが大きい。
そのため今日の商談には、営業の生駒と技術部門のエンジニアの他、営業部長と社長まで同席するという熱の入れ用だ。
そんな錚々たる顔ぶれが集まる席に詩織の席があるはずもなく、会社で自分が担当している企業に提出する資料を作成していたところ、生駒から別の資料が必要になったので急ぎ届けてほしいとの電話が入った。
それで生駒と共にSAIGA精機を訪問したことのある詩織が、その役目を果たすこととなったんだ。
――本当は、ここには来たくなかったんだけどな……
SAIGAの受付で要件を告げ、入構証の手続きを待つ詩織は、内心ため息を吐く。
最初にこの会社を訪れた時、貴也と彼の秘書である静原が一緒にいる姿を目の当たりにして心がざらついた。
しかも夏期休暇、彼女から電話を受けた貴也は、妙にソワソワした態度で出掛けて行ったのも気にかかる。
貴也が嘘をつくはずはないと思っていても、相手が静原だと思うとついあれこれかんがえてしまうのだ。
背が高くモデル体型の彼女は容姿端麗で、いかにも仕事ができそうな雰囲気を醸し出していた。
その後、貴也に秘書の静原さんがどんな人かと尋ねたところ、世界的にも有名案アメリカの大学を卒業している上、五カ国語を操る才女だと聞かされた。
美人で頭がよくて自立している大人の女。詩織が憧れる生き方を具現化したような彼女が、毎日一緒に貴也と仕事していると思うと、胸の中にドロドロとした黒い感情が湧き上がってしまう。
その感情がいわゆる嫉妬だということは、恋に不慣れな詩織にでも理解できる。しかも自分は、貴也の恋人といわけでもないのだから、かなりお門違いな嫉妬心である。
そこまで理解はできても、湧き上がる感情を制御するのは難しい。
だからせめて、自分の心を乱すような場所とは距離を取って置きたかったのだ。
――せめて、貴也さんと静原さんが一緒の場面に遭遇しませんように……
心の中でそう手を合わせていると、背後からよく知る声が聞こえてきた。
生駒の指示では、SAIGA精機に到着したら、受付を通して連絡してほしいとのことだった。
その時の状況で、誰かが取りに来るか、入構証を受け取って詩織が中まで届けるか決めるという。
「あれ? 詩織ちゃんじゃないか?」
この場には似つかわしくない朗らかな声に振り向くと、数名の社員を従えた年配の男性がこちらを見ていた。
貴也の父親である斎賀幸助だ。
「斎賀のおじさま」
思いがけない遭遇に、思わず馴れた呼び方を口にしてしまう。
そう呼んでしまった後で、目の前にいる年配の男性が、この場ではこの会社の社長であることを思い出した。
――しまったっ!
慌てて口を手で隠したところで、先ほどの発言を取り消せるはずがない。
「どうしたんだい? 貴也にでも会いに来たのか?」
詩織があたふたしている隙に、幸助はこちらへと歩み寄り、受付カウンターに座る女性に視線を向ける。
「あ……専務に確認をして、指示を待っている途中です」
素早く状況を説明する受付の女性に、幸助はなるほどと頷く。
「この子は、フリーパスで通していいから」
幸助は朗らかに笑うと、詩織が肩に下げていた鞄を取り上げて歩き出す。
そのままスタスタと警備員の前を通り過ぎる幸助は、途中で詩織を振り返り手招きをする。
チラリと様子を窺うと、受付の女性も、幸助に同行していた社員たちもポカンとした表情で「こいつ何者?」といった視線を詩織に向けてくる。
その視線から逃げるように、詩織は周囲にペコペコ頭を下げながら幸助へと駆け寄った。
「今日は、仕事として来ているんです」
エレベーターホールへと向かいながら、詩織は状況を端的に説明した。
この件に関して、幸助は貴也に一任していたので、詩織が勤務している会社と話を進めていることは知らなかったらしい。
だからこの場所では、貴也の婚約者として接するのは辞めてほしいのだけど、普段、貴也の婚約者として、実の娘のごとくよくしてくれている幸助を邪険にするようで言葉にしにくい。
そんな詩織の気持ちを察することなく、エレベーターのボタンを押す幸助が言う。
「貴也との暮らしはどうだ? アイツはマイペースな性格をしているから、詩織ちゃんを困らせているんじゃないか?」
「……」
詩織は周囲に視線を走らせる。
ここまで来ると受付は見えないし、幸助に同行指定社員は、近付いていいかわからないといった感じで遠巻きにこちらを見ている。
これなら会話を聞かれる心配はないだろう。
「貴也さんのマイペースは、ただの照れ隠しと優しさです。一緒に暮らしてみると、貴也さんがどれだけ会社や社員のことを考えて、難しい決断を単独で下しているのかがわかります」
貴也は、いつも恐ろしく迷いがない。
斎賀家の御曹司として、SAIGA精機の次期社長といて、決断を求められることが多いためか、貴也はいつも必要な情報をしっかり見極めて、素早く進むべき道を決めていく癖が付いている。
確かにそれは一見、人の意見も聞かないワンマンな姿勢に見えるかもしれないけど、それは違う。
「貴也さんは、誰かに相談することで、相手に責任を背負わせたくないんです。だから面倒ごとを全部自分一人で背負う覚悟で、あれこれ勝手に決めちゃうんです」
だからこそ、婚約も同棲も彼一人で決めてしまい、結果、詩織が彼に振り回されるようにしか見えない状況に陥っている。
きっと二人が婚約解消をする際にも、貴也はそれは自分一人で決めたこととして、憎まれ役を一手に担う気なのだろう。
――あれ……
そこまで考えて、ふと気付くことがある。
貴也がこれまで、婚約解消した後、詩織が根も葉もない噂で嫌な思いをしないようにと気遣ってくれていた。
そのため婚約しているということも、あまり公にはしてこなかった。
それなのに貴也の独断で突然同棲を始めたのだから、周囲は結婚秒読みと勘違いしてもおかしくない。
そうなってから婚約解消するなんて、なんだか彼らしくない。
よく考えたら、この先の自分たちはどうなっていくのだろうと考え込んでいると、並んでを歩く幸助は優しく笑う。
「アイツの良さを、理解してくれてありがとう」
父親としてお礼を言う幸助が「早く貴也と正式に結婚してくれると嬉しいんだけどな」と続けたとき、エレベーターの扉が開いた。
「――っ!」
扉が開いた瞬間、中にいた静原と目が合って詩織は大きく息を呑んだ。
さっきの話を何処まで聞いていたのかわからないけど、彼女は「えっ」と小さな声を漏らし、詩織と幸助を見比べる。
そんな静原の存在に気付いた幸助は、鷹揚に笑って詩織の肩に手を置く。
「ああ、静原君、ちょうどよかった彼女を貴也の所まで案内してやってくれないか? 貴也の婚約者の神崎詩織さんだ」
幸助の説明に、静原は目を大きく見開く。
「専務、婚約されていたんですか?」
「なんだアイツ、静原君にまで内緒にしていたのか。彼女は神崎テクノさんのお嬢さんで、婚約してもう四年になるかな……それを切っ掛けに、ウチと神崎テクノさんの業務提携を決定したようなものだ」
何気ない口調で話す幸助の言葉に、静原が目を見張る。
そんな彼女の瞳の奥で、様々な感情が揺れ動くのが見えた。嵐のような戸惑いが去った後、彼女の瞳に怒りの感情が宿ったように思えたのは気のせいだろうか。
「――っ」
本能的に恐怖を感じた詩織が体を硬くすると、静原は自分の感情を隠すように、瞼を伏せて深く腰を折る。
「はじめまして。斎賀専務の秘書を務めさせていただいております静原と申します」
「……?」
初回の会社訪問の際、詩織も同席していたのだが、オマケのような素材だったため、彼女の記憶には残っていないのかもしれない。
それならそれで、わざわざ訂正するほどの話ではない。
「はじめまして。KSシステムの生駒に、資料を届けに参りました」
「ちょうど、専務に言われて、資料を受け取りに伺ったところです」
詩織が初対面の相手として挨拶をすると、静原はそう言って、幸助から詩織の荷物を引き取る。
SAIGA精機は特許技術も多く、事前申請がなされていない者の出入りには手間がかかる。そのため、貴也が静原に荷物だけ取りに来させたのだろう。
「では、私がお預かりして行きます」
静原が資料を届けてくれるなら、詩織の仕事はここで終わりだ。
それなら事務所に戻って自分の仕事をしようと、詩織は、エレベーターボックスへと引き返す静原に再度お辞儀をする。
そんな詩織の背中を、幸助が軽く押す。
「ここまで来たんだ、ついでに貴也に顔を見て行けばどうだ?」
幸助の言葉には気付かない様子で、水原は黙礼してエレベーターの操作パネルに手を伸ばす。
そんなことをしたら、生駒を始めとした仕事関係の人に自分の素性や貴也との関係がバレてしまうではないか。
「え、でも貴也さん、仕事中ですし……」
相手が幸助というせいで、つい貴也のことを馴れた親しんだ呼び方で呼んでしまう。
一足遅れでそのことに気付き、慌てて口を押さえる詩織に、幸助は鷹揚に笑って返す。
「まあ、どうせ夜になれば会えるしな」
彼その言葉に、静原が「えっ?」と目を見開く。そんな彼女を見て、詩織は慌てて扉が閉まりかけるエレベーターボックスに飛び込んだ。
「また貴也と一緒に、ウチにも遊びに来てくれ」
幸助ののんびりとした声が聞こえたのを最後に、エレベーターが閉まり、ボックス内に沈黙が満ちる。
「専務はお忙しい方です」
詩織が、貴也の顔を見るためについてきたと思ったのだろう。静原が、棘のある声で言う。
その言葉に、詩織がそんなつもりはないと首を横に振る。
「わかってます。エレベーターが停まったら、このまま、一階に引き返します」
詩織だって、貴也の忙しさは承知しているし、仕事中に遊び気分で顔を見に行くような非常識なことはしない。
ただ静原にお願いしておきたいことがあって、彼女についてきたのだ。
「すみませんけど、私と貴也さんの関係を、内緒にしてもらえませんか?」
神崎テクノの社長令嬢で貴也の婚約者であることが知られてしまうと、今後に仕事に影響が出るかもしれないので、隠しておきたい。
そのことをお願いしたくて、彼女の後を追ってきたのだ。
「そんなこと言うわけないでしょ」
頭を下げる詩織の頭上にそんな言葉が降ってきた時、控えめなベルの音と共に扉が開く。
――よかった。
ホッと胸を撫で下ろした詩織の頭に、それに続く静原の言葉が降ってくる。
「貴女が婚約者だなんて世間に知られたら、専務の恥です」
「……」
思いがけない言葉に驚き顔を上げると、眉間に皺を寄せ、不快感をあらわにしている静原と目が合った。
詩織を見下ろす彼女の瞳には、怒りの炎を揺れている。
「あの頃、急に落ち目の神崎テクノと業務提携をしたのは、そういうことだったのね。貴女が専務に『助けてくれなければ死ぬ』といでも言って泣きついたのかしら? 専務の優しさにすがるなんて、厭らしい女ね」
四年前には既にSAIG精機に就職していたであろう静原は、当時理解出来ていなかったことがやっと腑に落ちたと頷く。
貴也が詩織との婚約を宣言する以前から、SAIG精機と神崎テクノの間で共同事業の話は持ち上がっていた。
だから彼女の言葉が全て正しいというわけではないが、二人の関係を考えれば否定することも出来ない。
「今回の件も、貴女が専務に泣きついたの?」
訝る静原の問い掛けに、詩織はそれは違うと首を横に振る。
最初の切っ掛けとしては、確かに詩織の存在があったのかもしれないけど、その後のことは、生駒の努力とKSシステムの確かな品質があってのことだ。
それに貴也だって、そんな公私混同をしたりはしはしない。
「そんなことしませんっ!」
そこだけは譲れないと詩織は反論するが、静原はそれを鼻で笑う。
「どうだか」
静原は赤く艶やかの唇を綺麗に持ち上げて笑う。
「そんな浅ましい女が、専務の婚約者を名乗るなんておこがましいわ。それこそ、専務の恥です。だから貴女こそ、専務との関係を口外しないでいただきたいわ」
鋭い言葉で詩織の心を切りつけた静原は、詩織の全身にくまなく視線を巡らせ勝ち誇ったように笑うとエレベーターを下りていく。
「あの……」
あまりの言葉に、思考が追いつかない詩織が追いかけようとすると、彼女が足を止め、こちらへと言葉を投げかける。
「私も専務も、こんなお使い程度の仕事しかない貴女と違って忙しいんです。そのままお帰りいただいてよろしいでしょうか?」
そう慇懃に頭を下げる静原だが、その声の端々に詩織へ嘲りが滲んでいる。
もともと貴也との関係を黙っていてほしいと頼んだら帰るつもりではあったが、そう言われてしまうと、彼女の言いなりになっているよで悔しい。
「……」
悔しいのに返す言葉が出てこない。
詩織がギュッと拳を握りしめている隙に、エレベーターの扉が再び閉まり出す。
静原は、扉が完全に閉まりきるのを待つことなく、踵を返して歩き出す。
一度閉じた扉を再度開く気になれない詩織は、握りしめた拳を開くと一階の回数指定のボタンを押した。
◇◇◇
「詩織、今日ウチの会社に来たのか?」
夜、貴也と暮らすマンションで夕食の準備をしていた詩織は、彼のその質問に、大きく肩を跳ねさせた。
「な、なんで?」
朝、仕事に行く前につけ込んでおいた鶏肉を焼く詩織は、キッチンと続き間になっているリビングに立つ貴也に聞き返す。
質問に質問で返されると思っていなかったのか、動きを止めた貴也は、不思議そうに首をかしげて言う。
「親父が詩織に会ったって言っていたし、秘書の静原君に、婚約者はどんな人かって聞かれたから」
貴也は、手にしていた鍵を、リビングに設置されているローボードの小物入れにそれを置く。
金属性の小物入れと鍵が触れる硬質な音が小さく響いた。
貴也が小物入れに使っているそれは、詩織がまだ学生だった頃にお土産として贈ったものだ。
形だけとはいえ四年も婚約していれば、互いの生活に互いの存在が侵食していくものなのだと実感する。
大して高価でもないその品を、彼が今も使ってくれていることに引っ越してきてすぐに気付いた。その時の感情を思い出し、詩織はざらつく感情を抑え込む。
「ごめんなさい」
「なにが?」
心底申し訳なさそうに眉尻を下げる詩織の謝罪に、貴也が不思議そうな顔をする。
だけどエレベーターで投げかけられた静原の姿を思い出すと、色々なことが悔やまれる。
「受付で、おじさまに偶然お会いして、中に入れてくださいました。その時の会話で、静原さんには私と貴也さんの関係に気付かれてしまって……」
自分たちの関係は、あくまでかりそめのもの。
それを周囲に知られるのは、貴也にとって迷惑な話だろう。
「静原さんには、口止めをしたので、他の人には言わないと思います」
とは言っても、受付にいた人や、幸助に付き添っていた社員の口止めまではできなかったので、秘密が守られる保証はない。
ちなみに、社長である幸助の態度から、詩織のことを特別な客と認識した受付の社員には、帰る詩織を引き留めタクシーを呼ぼうとした。それをどうにか断ることはできたが、それでも会社を出る際、なにか失礼があってはいけないと緊張した面持ちで、外まで見送られたのでかなり恥ずかしかった。
「詩織にとって迷惑じゃないなら、隠す必要はないよ」
その言葉に詩織は「え?」と小さく驚く。
そんな詩織に、貴也はどうかしたのかと視線で問い掛けてくるけど、彼に思いを寄せる身としては、自分からはとても「婚約解消するのにいいの?」とは聞けない。
だから詩織は、料理に集中しているフリをして彼の問いかけを無視する。
その態度にスッキリしないと訝る貴也だが、それでもそれ以上追求することなく話題を変える。
「そういえば、詩織の会社と契約することが正式に決まったよ。明日には、こちらから連絡が入ると思う」
あの後、戻ってきた生駒たちからは「それなりの手応えは感じた」とは聞いていたが、正式な回答をもらえるまでは安心で着ない様子だった。
その不安は社内全体に伝播して、今日のKSシステムは妙な緊張感に包まれていたので、先に答えが知れて嬉しい。
でも一足遅れで、静原の言葉が脳裏に蘇り、弾む心に水を差す。
「ウチに契約を決めたのって、私に気を遣ってだったりしますか?」
「まさか」
貴也はとんでもないと目を丸くする。
「会社の情報を預けるんだ、そんな公私混同するはずがない。そもそもそんなこと、俺の独断で決められるはずがないだろ。今回の件は、純粋にKSシステムのサービス内容に納得がいったからだ」
嘘を感じさせない貴也の言葉に、詩織は表情を明るくする。
「生駒さん喜びます」
詩織は声を弾ませ、焼き色のついた鶏肉をまな板で切り分けると、それを皿に取り分けていく。
「彼の成功が、そんなに嬉しいのか?」
どこか不機嫌そうな貴也の言葉に、詩織は「もちろん」と頷き、そのままの流れで、手際よく肉汁を利用してソースを作る。
「生駒さん来月にはお子さんが生まれるから、育休取る前に大きな契約取っておきたいって張り切ってたからよかったです」
「え?」
何気ない詩織の言葉に、今度は何故か貴也が小さく驚く。
「……?」
「いや……生駒さん、結婚してたの?」
「はい」
貴也はそう呻くと、手のひらで顔を覆って俯く。
「……なんて言わないんだよ」
「なんでって、聞かれなかったからです」
誰が既婚者で誰が独身かなんて、これまでだって説明したことはない。
「えっと……ちなみに動機の里実ちゃんは、独身で恋人もいないです」
そんなことを知って、どうするのだと思いつつ報告すると、貴也はそうじゃないと首を振る。
大きな手の隙間から覗く彼の顔は、やけに赤い。
九月に入ってからも暑い日が続いてはいるけど、デスクワーク中心の貴也が、熱中症にかかっているとは思えない。
なによりさっきまで詩織と普通に話していたのだから、それは違うだろう。
「……貴也さん、どうかしましたか?」
コンロの火を止めた詩織は、貴也へと歩み寄り、その顔を覗き込む。
「生駒さんが既婚者かどうかって、そんなに大事ですか?」
軽く膝を曲げて、俯く彼の顔を見上げると、指の隙間からこちらの様子を窺う貴也と目が合った。
そのままジッと彼を見上げていると、貴也は諦めたように息を吐き、顔を覆っていた手を詩織の頭に乗せる。
「大事だよ」
ぶっきらぼうな口調で返した貴也は、そのまま詩織の髪を乱暴にかき乱す。
「わっちょ、ちょっと……貴也さんっ」
突然のことに驚く詩織は、両手で彼の手首を掴み、どうにか自分の頭から引き離す。
突然なにをするのだと、彼を睨もうとして、赤面する彼の顔に閃くものがあった。
貴也と暮らすようになって、自分もよくこんな顔をしている。
「貴也さん……もしかして、照れていたりしますか?」
そんなことあるはずないと思いつつ聞くと、貴也の頬の赤みが増す。
それで貴也が照れているのだと確信したのだけど、彼がなににそこまで照れているのかがわからない。
――それに、照れている貴也さんて、なんかレアかも。
理由がわかれば、そんな好奇心が先に出る。
「なににそんなに照れているんです?」
「察しろよ」
見上げる姿勢のまま彼にそう問い掛けると、貴也は詩織に掴まれていない方の腕を彼女の腰に回して抱き寄せてきた。
「えっ、貴也さんっ」
突然のことに驚き、掴んでいた手を離すと、貴也は両腕で詩織を抱きしめる。
されるがまま彼の胸に頬を寄せると、やけに早い彼の鼓動が耳に着く。
「えっと……」
察しろと言われても、彼に思いを寄せる詩織としては、こんなことされると、自分に都合のいい妄想ばかりしてしまう。
それで彼の腕の中で黙り込んでいると、貴也が諦めたようにため息を吐いて、自分の胸の内を吐露する。
「詩織が、生駒さんに好意を寄せているんじゃないかと思って、焦ってたんだよ。だからお前を他の男に取られるのご怖くて、同棲を提案したんだ」
彼が自分と生駒の間を邪推して嫉妬する。
そんなことがあるだろうか? そうは思うのに、はやる心を抑えられない。
「嬉しいです」
自然とそんな言葉が漏れるのと同時に、重力に引き寄せられるように詩織からも彼の腰に腕を回して体を密着させる。
そうすることで、彼以上に早鐘を打つ自分の鼓動が彼に伝わってしまうのだと思うと恥ずかしくなるけど、彼が愛おしすぎて腕を緩めることが出来ない。
詩織のその思いに応えるように、貴也も彼女を抱きしめる腕に力をこめてくる。
そうやって互いに互いの存在を確かめ合っていると、少しだけ冷静になってきた頭には幾つもの疑問が湧く。
「え……でも…………貴也さん、前に私にキスをしたときに『間違えた』って……」
とりあえず、一番気になっていたことを確認すると、貴也がまた大きくため息を吐く。
「どう考えたって、あのタイミングじゃないだろ」
後悔しているんだから、そのことには触れてほしくないとぼそぼそした口調で話す貴也は、今度は攻撃に回る。
「お前だって、指輪いらないとか、言ってたじゃないか」
「だってそれは……」
貴也が、かりそめの婚約者である自分に、形式として買ってくれるという意味だと思ったからだ。
「気持ちがある指輪なら、ほしいです」
照れながら詩織が素直な気持ちを言葉にすると、貴也は腕に力を込めることで応えてくれる。
「愛してる」
彼のその一言で、長年絡まっていた感情の糸が解けていく。
「私も貴也のことが好きです」
素直な思いが、自然と零れ落ちる。
詩織のその言葉に、貴也は詩織を抱きしめる腕に力を込めた。
息苦しさを感じるほどの強い抱擁に、彼の思いが込められているように思えて、詩織も彼の背中に回す腕に力を込めた。
そうやって互いに互いの存在を確かめること数秒、貴也の長い指が、詩織の顎を持ち上げた。
「詩織っ」
甘く掠れた声で貴也が自分の名前を呼ぶ。
その声に詩織は夢見心地で瞼を伏せ、その時を待った。
でも彼の唇は、詩織の唇ではなく額に触れる。
「……ぇ?」
予想とは違う場所に唇が触れたことに驚き目を開けると、貴也が詩織から逸らして言う。
「これ以上のことをすると、自分を抑えられなくなる」
「……」
「今度は、タイミングを間違えたくなんだよ」
詩織から視線を逸らした貴也は、何処か不機嫌そうな口調で詩織を旅行に行かないかと誘う。
一瞬、唐突な旅行の誘いに驚く詩織だけど、一緒に暮らす貴也が日常生活の延長としてではなく、詩織と特別な時間を用意しようとしてくれているのだと理解した。
「はい」
「色々遠回りになったけど、恋をするところから始めよう」
詩織が輝く表情で頷くと、貴也も照れくさそうにはにかみ、詩織の頬に口付けをすると、着替えをするためにリビングを出て行った。
「お前、バカだろ」
会員制のバーで、貴也が零した無意識の呟きに、悠介がすかさず突っ込みを入れる。
彼の言葉で若干の冷静さを取り戻した貴也は、「まあな」と返して苦く笑う。
そして胸に湧く苦みを飲み込むようグラスを口に運ぶ。
詩織と同棲を始めて早一カ月、それといった揉め事もなく、互いのペースを思いやりながら仲良く暮らせていると思う。
一緒に暮らすようになって初めて知った事だが、詩織は料理が上手く、彼女も仕事で忙しいはずなのにほぼ毎日食事を作ってくれている。
そのため、これまでは食事は商談を兼ねて外で済ませることが多かった貴也の外食の機会が激減した。
詩織の手料理が食べるために、仕事とプライベートのメリハリを付けるようになったのは、ワーカホリック気味だった貴也にとって、喜ばしい変化だろう。
SAIGAの社長である貴也の父親もその辺の変化に気付いており、詩織と一緒に暮らし始めたことを喜こんでいる。そしてここまできたら、神崎家のご両親を安心させるためにも早く挙式を上げるべきだと騒いでいる。
そうやって周囲の環境は結婚に向けて整って行くのに、二人の関係は相変わらず平行線のままである。
確かに同棲初日、詩織にその気がないならなにもしないと宣言したのは貴也の方だ。
その言葉を違える気はないが、惚れた女が、毎日自分の隣で無防備に熟睡する姿を見せつけられる身にもなっていただきたい。
彼女がそこまで熟し出来るのは、貴也を男として認識していない証拠だろう。
そう思うと、気持ちよさそうな詩織の寝顔が、少しだけ恨めしくなる。
「アイツにとって俺は、保護者のような存在なんだろうな」
「まあ、俺とお前は同い年だから、自然とそんなふうに見えちゃうかもな」
自分から言いだしたことだが、同意されると面白くない。
「……」
貴也は不機嫌に息を吐いてグラスを傾ける。
惚れた女、しかも形だけとは言え婚約までしている相手に、保護者としてしか見てもらえないのは辛い。
それでつき、もし同棲初日、もしくは最初に出会った時に、自分がもう少し違う接し方をしていたら、二人の今が違ったのではないかとつい考えてしまうのだ。
「試しに、お前から誘ってみたらどうだ?」
悠介のアドバイスに、貴也は冗談じゃないと顔を顰めた。
それで玉砕したら、どうしてくれる。
男女の関係さえ諦めれば、詩織との同棲は順調なのだ。こちらから変にアプローチを掛けて、今の関係さえも失ってしまうことになったら目も当てられない。
それが怖くて、夏期休暇の間も、寝ぼけてキスをしてしまった以外は、いたって健全に過ごしていたというのに。
実は貴也の会社と詩織の会社の夏期休暇は、二日ほどズレていた。だから彼女と休み合わせるために、こっそり有休を取っていたというのは秘密である。
だから仕事をしている静原から確認事項と相談をしたいとの連絡を受けた時、彼女にそのことに気付かれたのではないかとヒヤヒヤしてしまった。
それでつい、「今からそっちに行く」と返して出勤したのだ。
とはいえ彼女の相談内容は大したものではなく、正直休み明けでのよかったのではないかと思った。ただあの時、詩織に婚約指輪を口実に二人の関係を改めて考え直さないかと提案しようとして失敗したタイミングだったので、ある意味助けられた。
「色々うまくいかないよ」
呻く貴也を見て、悠介が愉快そうに笑う。
「なんでお前が、そんな奥手キャラになっているんだよ」
自分の学生時代を知る悠介のもの言いたげな視線に、貴也は面倒くさそうに息を吐く。
確かに若い頃はそれなりに遊んだが、それとこれとは話が違う。
詩織はこの世にただ一人しかいないのだから、下手に行動を起こして嫌われるわけにはいかないのだ。
そうなるくらいなら、真綿で首を絞められるようなこの状況に甘んじている方がいい。
――恋は、惚れた方の負けだ。
貴也は、悠介相手には恥ずかしくてとても言葉に出来ない思いをアルコールと共に呑み込む。
「今、詩織の会社と商談を進めている途中だから、それが落ち着いたら考えるよ」
自分でも、それは嘘だとわかっている。
詩織を愛おしく思えば思うほど、彼女に拒絶されるのが怖くて、一歩踏み出せなくなっているのだから。
「お前がもっとやる気を出して、神崎テクノを立て直し手くれたら、色々違ってくるんだけどな」
隣で酒を呑む悠介が、ニヤニヤと物言いたげな視線を向けてくるので、お約束の台詞で牽制しておく。
貴也の言葉に悠介は、痛いところを突かれたと首をすくめておとなしくなった。
◇◇◇
九月第二週の月曜日、詩織はSAIGA精機のオフィスへと急いでいた。
最初に貴也のオフィスを訪れたのは、八月の初め。先輩社員の生駒にお供しての事だった。
それから一ヶ月、最初の訪問で手応えを感じた生駒は、その後地道な営業を続け、本日、技術部門の社員と共に最終ディスカッションをおこない、納得してもらえれば契約という運びとなった。
世界市場で活躍するSAIGA精機と契約を結ぶことが出来れば、社としては金銭的利益以外に得るものが大きい。
そのため今日の商談には、営業の生駒と技術部門のエンジニアの他、営業部長と社長まで同席するという熱の入れ用だ。
そんな錚々たる顔ぶれが集まる席に詩織の席があるはずもなく、会社で自分が担当している企業に提出する資料を作成していたところ、生駒から別の資料が必要になったので急ぎ届けてほしいとの電話が入った。
それで生駒と共にSAIGA精機を訪問したことのある詩織が、その役目を果たすこととなったんだ。
――本当は、ここには来たくなかったんだけどな……
SAIGAの受付で要件を告げ、入構証の手続きを待つ詩織は、内心ため息を吐く。
最初にこの会社を訪れた時、貴也と彼の秘書である静原が一緒にいる姿を目の当たりにして心がざらついた。
しかも夏期休暇、彼女から電話を受けた貴也は、妙にソワソワした態度で出掛けて行ったのも気にかかる。
貴也が嘘をつくはずはないと思っていても、相手が静原だと思うとついあれこれかんがえてしまうのだ。
背が高くモデル体型の彼女は容姿端麗で、いかにも仕事ができそうな雰囲気を醸し出していた。
その後、貴也に秘書の静原さんがどんな人かと尋ねたところ、世界的にも有名案アメリカの大学を卒業している上、五カ国語を操る才女だと聞かされた。
美人で頭がよくて自立している大人の女。詩織が憧れる生き方を具現化したような彼女が、毎日一緒に貴也と仕事していると思うと、胸の中にドロドロとした黒い感情が湧き上がってしまう。
その感情がいわゆる嫉妬だということは、恋に不慣れな詩織にでも理解できる。しかも自分は、貴也の恋人といわけでもないのだから、かなりお門違いな嫉妬心である。
そこまで理解はできても、湧き上がる感情を制御するのは難しい。
だからせめて、自分の心を乱すような場所とは距離を取って置きたかったのだ。
――せめて、貴也さんと静原さんが一緒の場面に遭遇しませんように……
心の中でそう手を合わせていると、背後からよく知る声が聞こえてきた。
生駒の指示では、SAIGA精機に到着したら、受付を通して連絡してほしいとのことだった。
その時の状況で、誰かが取りに来るか、入構証を受け取って詩織が中まで届けるか決めるという。
「あれ? 詩織ちゃんじゃないか?」
この場には似つかわしくない朗らかな声に振り向くと、数名の社員を従えた年配の男性がこちらを見ていた。
貴也の父親である斎賀幸助だ。
「斎賀のおじさま」
思いがけない遭遇に、思わず馴れた呼び方を口にしてしまう。
そう呼んでしまった後で、目の前にいる年配の男性が、この場ではこの会社の社長であることを思い出した。
――しまったっ!
慌てて口を手で隠したところで、先ほどの発言を取り消せるはずがない。
「どうしたんだい? 貴也にでも会いに来たのか?」
詩織があたふたしている隙に、幸助はこちらへと歩み寄り、受付カウンターに座る女性に視線を向ける。
「あ……専務に確認をして、指示を待っている途中です」
素早く状況を説明する受付の女性に、幸助はなるほどと頷く。
「この子は、フリーパスで通していいから」
幸助は朗らかに笑うと、詩織が肩に下げていた鞄を取り上げて歩き出す。
そのままスタスタと警備員の前を通り過ぎる幸助は、途中で詩織を振り返り手招きをする。
チラリと様子を窺うと、受付の女性も、幸助に同行していた社員たちもポカンとした表情で「こいつ何者?」といった視線を詩織に向けてくる。
その視線から逃げるように、詩織は周囲にペコペコ頭を下げながら幸助へと駆け寄った。
「今日は、仕事として来ているんです」
エレベーターホールへと向かいながら、詩織は状況を端的に説明した。
この件に関して、幸助は貴也に一任していたので、詩織が勤務している会社と話を進めていることは知らなかったらしい。
だからこの場所では、貴也の婚約者として接するのは辞めてほしいのだけど、普段、貴也の婚約者として、実の娘のごとくよくしてくれている幸助を邪険にするようで言葉にしにくい。
そんな詩織の気持ちを察することなく、エレベーターのボタンを押す幸助が言う。
「貴也との暮らしはどうだ? アイツはマイペースな性格をしているから、詩織ちゃんを困らせているんじゃないか?」
「……」
詩織は周囲に視線を走らせる。
ここまで来ると受付は見えないし、幸助に同行指定社員は、近付いていいかわからないといった感じで遠巻きにこちらを見ている。
これなら会話を聞かれる心配はないだろう。
「貴也さんのマイペースは、ただの照れ隠しと優しさです。一緒に暮らしてみると、貴也さんがどれだけ会社や社員のことを考えて、難しい決断を単独で下しているのかがわかります」
貴也は、いつも恐ろしく迷いがない。
斎賀家の御曹司として、SAIGA精機の次期社長といて、決断を求められることが多いためか、貴也はいつも必要な情報をしっかり見極めて、素早く進むべき道を決めていく癖が付いている。
確かにそれは一見、人の意見も聞かないワンマンな姿勢に見えるかもしれないけど、それは違う。
「貴也さんは、誰かに相談することで、相手に責任を背負わせたくないんです。だから面倒ごとを全部自分一人で背負う覚悟で、あれこれ勝手に決めちゃうんです」
だからこそ、婚約も同棲も彼一人で決めてしまい、結果、詩織が彼に振り回されるようにしか見えない状況に陥っている。
きっと二人が婚約解消をする際にも、貴也はそれは自分一人で決めたこととして、憎まれ役を一手に担う気なのだろう。
――あれ……
そこまで考えて、ふと気付くことがある。
貴也がこれまで、婚約解消した後、詩織が根も葉もない噂で嫌な思いをしないようにと気遣ってくれていた。
そのため婚約しているということも、あまり公にはしてこなかった。
それなのに貴也の独断で突然同棲を始めたのだから、周囲は結婚秒読みと勘違いしてもおかしくない。
そうなってから婚約解消するなんて、なんだか彼らしくない。
よく考えたら、この先の自分たちはどうなっていくのだろうと考え込んでいると、並んでを歩く幸助は優しく笑う。
「アイツの良さを、理解してくれてありがとう」
父親としてお礼を言う幸助が「早く貴也と正式に結婚してくれると嬉しいんだけどな」と続けたとき、エレベーターの扉が開いた。
「――っ!」
扉が開いた瞬間、中にいた静原と目が合って詩織は大きく息を呑んだ。
さっきの話を何処まで聞いていたのかわからないけど、彼女は「えっ」と小さな声を漏らし、詩織と幸助を見比べる。
そんな静原の存在に気付いた幸助は、鷹揚に笑って詩織の肩に手を置く。
「ああ、静原君、ちょうどよかった彼女を貴也の所まで案内してやってくれないか? 貴也の婚約者の神崎詩織さんだ」
幸助の説明に、静原は目を大きく見開く。
「専務、婚約されていたんですか?」
「なんだアイツ、静原君にまで内緒にしていたのか。彼女は神崎テクノさんのお嬢さんで、婚約してもう四年になるかな……それを切っ掛けに、ウチと神崎テクノさんの業務提携を決定したようなものだ」
何気ない口調で話す幸助の言葉に、静原が目を見張る。
そんな彼女の瞳の奥で、様々な感情が揺れ動くのが見えた。嵐のような戸惑いが去った後、彼女の瞳に怒りの感情が宿ったように思えたのは気のせいだろうか。
「――っ」
本能的に恐怖を感じた詩織が体を硬くすると、静原は自分の感情を隠すように、瞼を伏せて深く腰を折る。
「はじめまして。斎賀専務の秘書を務めさせていただいております静原と申します」
「……?」
初回の会社訪問の際、詩織も同席していたのだが、オマケのような素材だったため、彼女の記憶には残っていないのかもしれない。
それならそれで、わざわざ訂正するほどの話ではない。
「はじめまして。KSシステムの生駒に、資料を届けに参りました」
「ちょうど、専務に言われて、資料を受け取りに伺ったところです」
詩織が初対面の相手として挨拶をすると、静原はそう言って、幸助から詩織の荷物を引き取る。
SAIGA精機は特許技術も多く、事前申請がなされていない者の出入りには手間がかかる。そのため、貴也が静原に荷物だけ取りに来させたのだろう。
「では、私がお預かりして行きます」
静原が資料を届けてくれるなら、詩織の仕事はここで終わりだ。
それなら事務所に戻って自分の仕事をしようと、詩織は、エレベーターボックスへと引き返す静原に再度お辞儀をする。
そんな詩織の背中を、幸助が軽く押す。
「ここまで来たんだ、ついでに貴也に顔を見て行けばどうだ?」
幸助の言葉には気付かない様子で、水原は黙礼してエレベーターの操作パネルに手を伸ばす。
そんなことをしたら、生駒を始めとした仕事関係の人に自分の素性や貴也との関係がバレてしまうではないか。
「え、でも貴也さん、仕事中ですし……」
相手が幸助というせいで、つい貴也のことを馴れた親しんだ呼び方で呼んでしまう。
一足遅れでそのことに気付き、慌てて口を押さえる詩織に、幸助は鷹揚に笑って返す。
「まあ、どうせ夜になれば会えるしな」
彼その言葉に、静原が「えっ?」と目を見開く。そんな彼女を見て、詩織は慌てて扉が閉まりかけるエレベーターボックスに飛び込んだ。
「また貴也と一緒に、ウチにも遊びに来てくれ」
幸助ののんびりとした声が聞こえたのを最後に、エレベーターが閉まり、ボックス内に沈黙が満ちる。
「専務はお忙しい方です」
詩織が、貴也の顔を見るためについてきたと思ったのだろう。静原が、棘のある声で言う。
その言葉に、詩織がそんなつもりはないと首を横に振る。
「わかってます。エレベーターが停まったら、このまま、一階に引き返します」
詩織だって、貴也の忙しさは承知しているし、仕事中に遊び気分で顔を見に行くような非常識なことはしない。
ただ静原にお願いしておきたいことがあって、彼女についてきたのだ。
「すみませんけど、私と貴也さんの関係を、内緒にしてもらえませんか?」
神崎テクノの社長令嬢で貴也の婚約者であることが知られてしまうと、今後に仕事に影響が出るかもしれないので、隠しておきたい。
そのことをお願いしたくて、彼女の後を追ってきたのだ。
「そんなこと言うわけないでしょ」
頭を下げる詩織の頭上にそんな言葉が降ってきた時、控えめなベルの音と共に扉が開く。
――よかった。
ホッと胸を撫で下ろした詩織の頭に、それに続く静原の言葉が降ってくる。
「貴女が婚約者だなんて世間に知られたら、専務の恥です」
「……」
思いがけない言葉に驚き顔を上げると、眉間に皺を寄せ、不快感をあらわにしている静原と目が合った。
詩織を見下ろす彼女の瞳には、怒りの炎を揺れている。
「あの頃、急に落ち目の神崎テクノと業務提携をしたのは、そういうことだったのね。貴女が専務に『助けてくれなければ死ぬ』といでも言って泣きついたのかしら? 専務の優しさにすがるなんて、厭らしい女ね」
四年前には既にSAIG精機に就職していたであろう静原は、当時理解出来ていなかったことがやっと腑に落ちたと頷く。
貴也が詩織との婚約を宣言する以前から、SAIG精機と神崎テクノの間で共同事業の話は持ち上がっていた。
だから彼女の言葉が全て正しいというわけではないが、二人の関係を考えれば否定することも出来ない。
「今回の件も、貴女が専務に泣きついたの?」
訝る静原の問い掛けに、詩織はそれは違うと首を横に振る。
最初の切っ掛けとしては、確かに詩織の存在があったのかもしれないけど、その後のことは、生駒の努力とKSシステムの確かな品質があってのことだ。
それに貴也だって、そんな公私混同をしたりはしはしない。
「そんなことしませんっ!」
そこだけは譲れないと詩織は反論するが、静原はそれを鼻で笑う。
「どうだか」
静原は赤く艶やかの唇を綺麗に持ち上げて笑う。
「そんな浅ましい女が、専務の婚約者を名乗るなんておこがましいわ。それこそ、専務の恥です。だから貴女こそ、専務との関係を口外しないでいただきたいわ」
鋭い言葉で詩織の心を切りつけた静原は、詩織の全身にくまなく視線を巡らせ勝ち誇ったように笑うとエレベーターを下りていく。
「あの……」
あまりの言葉に、思考が追いつかない詩織が追いかけようとすると、彼女が足を止め、こちらへと言葉を投げかける。
「私も専務も、こんなお使い程度の仕事しかない貴女と違って忙しいんです。そのままお帰りいただいてよろしいでしょうか?」
そう慇懃に頭を下げる静原だが、その声の端々に詩織へ嘲りが滲んでいる。
もともと貴也との関係を黙っていてほしいと頼んだら帰るつもりではあったが、そう言われてしまうと、彼女の言いなりになっているよで悔しい。
「……」
悔しいのに返す言葉が出てこない。
詩織がギュッと拳を握りしめている隙に、エレベーターの扉が再び閉まり出す。
静原は、扉が完全に閉まりきるのを待つことなく、踵を返して歩き出す。
一度閉じた扉を再度開く気になれない詩織は、握りしめた拳を開くと一階の回数指定のボタンを押した。
◇◇◇
「詩織、今日ウチの会社に来たのか?」
夜、貴也と暮らすマンションで夕食の準備をしていた詩織は、彼のその質問に、大きく肩を跳ねさせた。
「な、なんで?」
朝、仕事に行く前につけ込んでおいた鶏肉を焼く詩織は、キッチンと続き間になっているリビングに立つ貴也に聞き返す。
質問に質問で返されると思っていなかったのか、動きを止めた貴也は、不思議そうに首をかしげて言う。
「親父が詩織に会ったって言っていたし、秘書の静原君に、婚約者はどんな人かって聞かれたから」
貴也は、手にしていた鍵を、リビングに設置されているローボードの小物入れにそれを置く。
金属性の小物入れと鍵が触れる硬質な音が小さく響いた。
貴也が小物入れに使っているそれは、詩織がまだ学生だった頃にお土産として贈ったものだ。
形だけとはいえ四年も婚約していれば、互いの生活に互いの存在が侵食していくものなのだと実感する。
大して高価でもないその品を、彼が今も使ってくれていることに引っ越してきてすぐに気付いた。その時の感情を思い出し、詩織はざらつく感情を抑え込む。
「ごめんなさい」
「なにが?」
心底申し訳なさそうに眉尻を下げる詩織の謝罪に、貴也が不思議そうな顔をする。
だけどエレベーターで投げかけられた静原の姿を思い出すと、色々なことが悔やまれる。
「受付で、おじさまに偶然お会いして、中に入れてくださいました。その時の会話で、静原さんには私と貴也さんの関係に気付かれてしまって……」
自分たちの関係は、あくまでかりそめのもの。
それを周囲に知られるのは、貴也にとって迷惑な話だろう。
「静原さんには、口止めをしたので、他の人には言わないと思います」
とは言っても、受付にいた人や、幸助に付き添っていた社員の口止めまではできなかったので、秘密が守られる保証はない。
ちなみに、社長である幸助の態度から、詩織のことを特別な客と認識した受付の社員には、帰る詩織を引き留めタクシーを呼ぼうとした。それをどうにか断ることはできたが、それでも会社を出る際、なにか失礼があってはいけないと緊張した面持ちで、外まで見送られたのでかなり恥ずかしかった。
「詩織にとって迷惑じゃないなら、隠す必要はないよ」
その言葉に詩織は「え?」と小さく驚く。
そんな詩織に、貴也はどうかしたのかと視線で問い掛けてくるけど、彼に思いを寄せる身としては、自分からはとても「婚約解消するのにいいの?」とは聞けない。
だから詩織は、料理に集中しているフリをして彼の問いかけを無視する。
その態度にスッキリしないと訝る貴也だが、それでもそれ以上追求することなく話題を変える。
「そういえば、詩織の会社と契約することが正式に決まったよ。明日には、こちらから連絡が入ると思う」
あの後、戻ってきた生駒たちからは「それなりの手応えは感じた」とは聞いていたが、正式な回答をもらえるまでは安心で着ない様子だった。
その不安は社内全体に伝播して、今日のKSシステムは妙な緊張感に包まれていたので、先に答えが知れて嬉しい。
でも一足遅れで、静原の言葉が脳裏に蘇り、弾む心に水を差す。
「ウチに契約を決めたのって、私に気を遣ってだったりしますか?」
「まさか」
貴也はとんでもないと目を丸くする。
「会社の情報を預けるんだ、そんな公私混同するはずがない。そもそもそんなこと、俺の独断で決められるはずがないだろ。今回の件は、純粋にKSシステムのサービス内容に納得がいったからだ」
嘘を感じさせない貴也の言葉に、詩織は表情を明るくする。
「生駒さん喜びます」
詩織は声を弾ませ、焼き色のついた鶏肉をまな板で切り分けると、それを皿に取り分けていく。
「彼の成功が、そんなに嬉しいのか?」
どこか不機嫌そうな貴也の言葉に、詩織は「もちろん」と頷き、そのままの流れで、手際よく肉汁を利用してソースを作る。
「生駒さん来月にはお子さんが生まれるから、育休取る前に大きな契約取っておきたいって張り切ってたからよかったです」
「え?」
何気ない詩織の言葉に、今度は何故か貴也が小さく驚く。
「……?」
「いや……生駒さん、結婚してたの?」
「はい」
貴也はそう呻くと、手のひらで顔を覆って俯く。
「……なんて言わないんだよ」
「なんでって、聞かれなかったからです」
誰が既婚者で誰が独身かなんて、これまでだって説明したことはない。
「えっと……ちなみに動機の里実ちゃんは、独身で恋人もいないです」
そんなことを知って、どうするのだと思いつつ報告すると、貴也はそうじゃないと首を振る。
大きな手の隙間から覗く彼の顔は、やけに赤い。
九月に入ってからも暑い日が続いてはいるけど、デスクワーク中心の貴也が、熱中症にかかっているとは思えない。
なによりさっきまで詩織と普通に話していたのだから、それは違うだろう。
「……貴也さん、どうかしましたか?」
コンロの火を止めた詩織は、貴也へと歩み寄り、その顔を覗き込む。
「生駒さんが既婚者かどうかって、そんなに大事ですか?」
軽く膝を曲げて、俯く彼の顔を見上げると、指の隙間からこちらの様子を窺う貴也と目が合った。
そのままジッと彼を見上げていると、貴也は諦めたように息を吐き、顔を覆っていた手を詩織の頭に乗せる。
「大事だよ」
ぶっきらぼうな口調で返した貴也は、そのまま詩織の髪を乱暴にかき乱す。
「わっちょ、ちょっと……貴也さんっ」
突然のことに驚く詩織は、両手で彼の手首を掴み、どうにか自分の頭から引き離す。
突然なにをするのだと、彼を睨もうとして、赤面する彼の顔に閃くものがあった。
貴也と暮らすようになって、自分もよくこんな顔をしている。
「貴也さん……もしかして、照れていたりしますか?」
そんなことあるはずないと思いつつ聞くと、貴也の頬の赤みが増す。
それで貴也が照れているのだと確信したのだけど、彼がなににそこまで照れているのかがわからない。
――それに、照れている貴也さんて、なんかレアかも。
理由がわかれば、そんな好奇心が先に出る。
「なににそんなに照れているんです?」
「察しろよ」
見上げる姿勢のまま彼にそう問い掛けると、貴也は詩織に掴まれていない方の腕を彼女の腰に回して抱き寄せてきた。
「えっ、貴也さんっ」
突然のことに驚き、掴んでいた手を離すと、貴也は両腕で詩織を抱きしめる。
されるがまま彼の胸に頬を寄せると、やけに早い彼の鼓動が耳に着く。
「えっと……」
察しろと言われても、彼に思いを寄せる詩織としては、こんなことされると、自分に都合のいい妄想ばかりしてしまう。
それで彼の腕の中で黙り込んでいると、貴也が諦めたようにため息を吐いて、自分の胸の内を吐露する。
「詩織が、生駒さんに好意を寄せているんじゃないかと思って、焦ってたんだよ。だからお前を他の男に取られるのご怖くて、同棲を提案したんだ」
彼が自分と生駒の間を邪推して嫉妬する。
そんなことがあるだろうか? そうは思うのに、はやる心を抑えられない。
「嬉しいです」
自然とそんな言葉が漏れるのと同時に、重力に引き寄せられるように詩織からも彼の腰に腕を回して体を密着させる。
そうすることで、彼以上に早鐘を打つ自分の鼓動が彼に伝わってしまうのだと思うと恥ずかしくなるけど、彼が愛おしすぎて腕を緩めることが出来ない。
詩織のその思いに応えるように、貴也も彼女を抱きしめる腕に力をこめてくる。
そうやって互いに互いの存在を確かめ合っていると、少しだけ冷静になってきた頭には幾つもの疑問が湧く。
「え……でも…………貴也さん、前に私にキスをしたときに『間違えた』って……」
とりあえず、一番気になっていたことを確認すると、貴也がまた大きくため息を吐く。
「どう考えたって、あのタイミングじゃないだろ」
後悔しているんだから、そのことには触れてほしくないとぼそぼそした口調で話す貴也は、今度は攻撃に回る。
「お前だって、指輪いらないとか、言ってたじゃないか」
「だってそれは……」
貴也が、かりそめの婚約者である自分に、形式として買ってくれるという意味だと思ったからだ。
「気持ちがある指輪なら、ほしいです」
照れながら詩織が素直な気持ちを言葉にすると、貴也は腕に力を込めることで応えてくれる。
「愛してる」
彼のその一言で、長年絡まっていた感情の糸が解けていく。
「私も貴也のことが好きです」
素直な思いが、自然と零れ落ちる。
詩織のその言葉に、貴也は詩織を抱きしめる腕に力を込めた。
息苦しさを感じるほどの強い抱擁に、彼の思いが込められているように思えて、詩織も彼の背中に回す腕に力を込めた。
そうやって互いに互いの存在を確かめること数秒、貴也の長い指が、詩織の顎を持ち上げた。
「詩織っ」
甘く掠れた声で貴也が自分の名前を呼ぶ。
その声に詩織は夢見心地で瞼を伏せ、その時を待った。
でも彼の唇は、詩織の唇ではなく額に触れる。
「……ぇ?」
予想とは違う場所に唇が触れたことに驚き目を開けると、貴也が詩織から逸らして言う。
「これ以上のことをすると、自分を抑えられなくなる」
「……」
「今度は、タイミングを間違えたくなんだよ」
詩織から視線を逸らした貴也は、何処か不機嫌そうな口調で詩織を旅行に行かないかと誘う。
一瞬、唐突な旅行の誘いに驚く詩織だけど、一緒に暮らす貴也が日常生活の延長としてではなく、詩織と特別な時間を用意しようとしてくれているのだと理解した。
「はい」
「色々遠回りになったけど、恋をするところから始めよう」
詩織が輝く表情で頷くと、貴也も照れくさそうにはにかみ、詩織の頬に口付けをすると、着替えをするためにリビングを出て行った。