怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む

5・ふたりの時間

 九月の祝日を利用して、詩織は貴也と二人で旅行に出掛けた。
 貴也が詩織を連れて行ってくれたのは、自然豊かな山梨のリゾートホテルだった。
 近くにレストランが併設されたワインセラーがあり、チェックインを済ませた貴也は、昼食をそのレストランで取ろうと詩織を誘った。
 その誘いに喜んで応じた詩織は、散歩がてらそのレストランまでの道のりを貴也と手を繋いで歩いた。
「なんか、変な感じです」
 レストランの帰り道、繋いだ右手を揺らしながら詩織が言う。
「なにが?」
 詩織の歩幅に合わせてゆっくりしたペースで歩く貴也は、軽く腰を曲げ詩織の顔を覗き込んで聞く。
 今日の彼は、ゆったりとしたシルエットのスラックスに半袖のシャツを合わせてサンダルを履いる。強い日差しを遮るために装着しているサングラスもあいまって、夏のリゾート感に溢れている。
 纏う空気もいつもよりゆったりしたものに感じられ、彼がこの旅行を心から楽しんでいるのが伝わってきて嬉しい。
 そんな貴也にも見えるようにと、詩織は自分の左手を高い位置に掲げる。
 その手の薬指で、九月の日差しを浴びたピンクダイヤが輝きを増す。
 今朝、旅行に出掛ける前に、貴也からこの指輪を贈られた。
 貴也の手によって詩織の左手薬指に填められた指輪が、今の二人の心の距離感を表している。
「なんて言うか、最初が最初だけに、貴也さんとこうしていることが……」
 指輪の煌めきに目を細めつつ詩織が言う。
 四年前、大学生だった詩織は、自分の家族が置かれている状況をなんとかしたくて貴也に結婚を申し出た。
 その時はそれが最善の策だと思ったのだけど、この歳になればそれがどれだけバカげた発想で、当時既に十分に大人だった貴也に、勢いだけで突っ走る自分の姿がどう映っていたのか考えると恥ずかしくなる。
 だからそんな自分が、今彼とこうして手を繋いで歩いているのが不思議でならない。
「確かに出会った時の詩織は、周りを確認せずに突っ走る子犬のようで、見ていてヒヤヒヤさせられたよ」
 当時のことを思い出したのか、貴也がクスクスと笑う。
「出来れば、その頃のことは忘れてください」
「でも、あの頃の詩織に出会えてよかったよ。成長した後に出会ってたら、きっと他の男に取られていた」
 旅先のためか、食事を取りながら少しワインを飲んだせいか、今日の彼はやけに饒舌だ。
「……」
 彼の言葉に照れて詩織が視線を落とすと、貴也は繋いでいる手を軽く引いて詩織の視線を自分へと向けさせる。
「本気でそう思ってる」
 詩織が見上げると、貴也は至極真剣な顔でそう告げる。
「ありがとうございます。でも今の私があるのは、あの時、貴也さんが助けてくれたからです」
 彼の言葉にお礼を言った詩織は、そう肩をすくめる。
 そしてあの時自分を子供扱いした貴也に、大人の女性と認めてほしくてこれまで頑張ってきたのだと打ち明けた。
 そんな詩織の話をくすぐったそうにして聞く貴也は、社会に出た詩織の成長に驚き、どんどん自立していくその姿に心引かれると同時に、いつか自分から離れていくのではないかと不安を覚えたのだと打ち明けてくれた。
 そうやって、長い間微妙にすれ違っていた二人の思いを答え合わせしていくのは楽しいのだけど、結果、生駒に心引かれているのではないかと不安になり、突然の同棲に繋がったと言うのだから笑うしかない。
「確かに生駒さんは、頼りになる先輩です。尊敬もしています。だけど、それとこれとは、話が別ですよ」
「本音を言えば、詩織が俺以外の男を頼ったり、尊敬したりするだけでも、面白くないんだけどな」
 詩織の言葉に貴也が恥ずかしそうに胸の内を吐露する。
 彼のその告白を、詩織はクスクスと笑う。
「バカですね」
「男は、惚れた女の前ではバカなんだよ」
 きっと貴也はかなり酔っているのだろう。
 だからこんな甘い台詞を、惜しみなく詩織に向けてくるのだ。
 ――でも酔ったときの方が、人は本音を話すとも言うよね。
 もしそうなら、彼と一緒にワインを少しだけ飲んだ詩織も、酔ッたことにして自分の正直な思いを伝えておきたい。
 そう決意した詩織は、脚を止め、繋いでいた手を離すと、弾むような足取りで貴也の前へと回った。
 彼女の不意のに驚く貴也の目を見つめ、心からの思いを込めて告げる。
「こんな素敵な人がそばにいて、他の誰かを好きになるなんてあり得ません。私の心は、出会った時から貴也さんのものです」
「詩織っ」
 貴也が愛おしげにその名前を呼んだとき、二人の間を強い風が吹き抜けていった。
「キャッ」
 その風に驚いた詩織が一瞬首をすくめ、すぐに視線を彼へと戻す。貴也は、そんな彼女に手を伸ばし、風で乱れた髪を整えてくれた。
「詩織は、綺麗な髪をしているな」
 そう話す貴也の手が、髪ではなく詩織の頬を撫でる。
 繊細なもを扱うような彼の触れ方をくすぐったく思いつつ彼を見上げると、貴也がわずかに腰を屈める。
 その動きで彼が求めている物を理解した詩織は、わずかに首を逸らせてそっと瞼を伏せた。
「……」
 遠くで風が梢を揺らす音を聞きながら、そっと唇を重ねると、触れる唇の微かな震えに、彼の緊張を感じた。
 自分に触れることに貴也ほどの人が何故……そんな思いを感じると共に、今日この日を迎えるまでにかけた時間の全てが愛おしくなる。
「今度は、タイミング間違えなかった?」
「バカ……」
 どう答えればいいわからない詩織が、甘えた声でそうなじると、貴也はくすぐったそうに笑い、再びその手を取って歩き出す。
 四年前の自分では、こんな自然なやり取りはとても無理だっただろう。
 自分の家の窮地を救ってほしいと彼に見合いを申し込んだ頃の詩織にとって、年の離れた貴也はただただ見上げるばかりの完璧な御曹司様として映っていた。
 そんな彼と、こうやって自然に語り合い手を取り合って歩くには、この四年間は必要な時間だったのだろう。
 そんな思いを噛みしめながら、詩織は貴也と並んで歩いた。

  ◇◇◇

 その日の夜、二人で食事とワインを楽しんだ詩織は、落ち着かない思いでベッドルームに入った。
 ダウンライトの間接照明だけで照らされるベッドルームは、部屋の中央にキングサイズのベッドが置かれていても狭さを感じさせない。
 天井が高く開放的な空間の向こうには、夜の闇に溶け込んでいる樹木が微かに見える。
 ホテルが所有する山の中に建つこのホテルは、リビングやベッドルームから満点の星空を堪能できるように設計されている。
 そのためベッドルームの向こうに広がる景色には、背の高い木々から伸びた枝以外、視界を遮るものはない。
 だから誰かに見られる心配がないのはわかっているのだけど、これから及ぶ行為を考えると恥ずかしくなる。
 それでとりあえずカーテンを閉めようと歩み寄った詩織は、窓から見える夜空の美しさに息を飲んだ。
 東京の夜とは違う濃い闇の中に、無数の星が瞬いている。
 強く存在を放つ星もあれば、弱く輝く星もあり、その星々が集まって光の帯を作っている。白い靄に包まれるようにして伸びるそれが、天の川というやつなのだろう。
 さっきまで貴也と過ごしていた部屋からも星は見えてはいたが、薄暗いこの部屋から見た方が圧倒的な存在感がある。
 あまりの美しさにカーテンを閉めることも忘れて空を見上げていると、背後で扉が開く音がした。
「なに見てるの?」
 詩織の後でバスルーム使った貴也が、こちらへと歩み寄ってくる。
「星が綺麗で、驚いてました」
 詩織のその言葉の意味を確かめるように空を見上げる貴也は、自然な動きで詩織の肩を抱く。
「バスルームからも見れたのに、詩織、ブラインドを下ろして入っただろ」
 お風呂に入る前に、バスルームから満点の星空を楽しむことができると、貴也から教えられていたのだけど、恥ずかしいので、バスルームのブラインドを全て下ろして入浴した。
 だから今の今まで、この部屋から見る夜空の美しさに気付かなかったのだ。
 ちなみに貴也には一緒に入ろうと誘われたのだけど、それももちろん断った。
「だって、恥ずかしいじゃないですか……」
 拗ねたような口調で詩織が言うと、貴也が優しく笑い彼女の首筋に顔を寄せて囁く。
「これからもっと恥ずかしいことするのに?」
 わざとこちらの羞恥を煽る言葉と共に、まだ湿り気の残る彼の髪が頬に触れる。その感覚に、詩織の心臓が大きく跳ねた。
 それだけで臍の裏に熱が灯るが自分でもわかった。
「キャッ」
 自分の体に起きた反応に戸惑っていると、隣で軽くしゃがんだ貴也が、詩織の膝裏と腰に腕を回して彼女を抱き上げた。
 いわゆるお姫様抱っこの状態にされた詩織が驚いて脚をばたつかせると、貴也が「危ないぞ」と窘めてくる。
 貴也が自分を落としたりしないとわかっていても、突然の浮遊感が怖くて、詩織は彼の首筋に自分の腕を絡めた。
 そうすることで、薄いバスローブ越しに彼の体温を強く感じて体の奥が疼く。
 貴也は緊張して身をこわばらせる詩織の頬に口付けをすると、そのまま彼女をベッドへと運んだ。
 詩織の体をベッドに下ろした貴也は、彼女に寄り添うように自身の体を横たえる。
「詩織っ」
 詩織の傍らに肩肘を突き、体重を調整しながら詩織に覆い被さる貴也は、愛情を濃縮させたような甘い声で名前を囁く。
 そうしながら、もう一方の手で詩織の頬を撫で、彼女の顎を軽く持ち上げると、そのまま唇を重ねてきた。
「……」
 貴也は重ねた唇を押し付けるよう動かし、詩織の唇を割り開くと、その隙間から舌を侵入させてくる。
 そしてそのまま舌をゆっくりと動かし、詩織の口内を舐めていく。
 他者に口内を擽られる初めての感覚に、詩織の体がブルリと震える。
 その初心な反応を、貴也が柔らかな息遣いで笑う。
 もしかして彼に子供だと思われたのではないかと不安になった詩織は、思い切って彼の舌へ自分のそれを絡めた。
「――っ」
 一瞬、詩織の反応に驚いた貴也だが、すぐに彼女の動きを歓迎するように、彼女の髪に指を絡めて口付けの濃度を深めていく。
 息もできないほどの濃厚な口付けに、ただただ翻弄されてしまう。
「あぁ……っ」
 彼の口付けに身を委ねぼんやりとして詩織だけど、髪に指を絡めていた彼の手が首筋を撫でその下へと移動していくのを感じて、詩織は体を跳ねさせ、慌てて彼の手首を掴んだ。
「あの……電気……それとカーテン」
 詩織は消え入りそうな声で訴えた。
 だけど貴也は、何処か意地悪な笑みを浮かべてそのお願いを却下する。
「駄目だ」
「やぁ……恥ずかしい」
 そう訴えても貴也がお願いを聞いてくれる気配はない。
 それどころか詩織の額に自分の額を押し付け「我慢して」と命じてくる。
「俺はずっと詩織に触れるのを我慢していたんだから、今日は詩織が我慢する番だ」
「ズルい……です」
「ズルいのは詩織の方だよ。俺をこんなに夢中にさせて、ずっとこの思いに気付いてくれなかったんだから」
 熱っぽい声でそんなことを囁かれたら、恥ずかしいのに拒めなくなってしまう。
 詩織の訴えを言葉で封じた貴也は、手の動きを再開する。
 胸の膨らみに彼の手が触れただけで体に緊張が走り、詩織はもどかしさから彼の背中に腕を回した。
 貴也はその反応に満足げな息を吐き、彼女の胸を揉みしだく。
 強く柔く貴也の手が動く度、彼の手の動きに合わせて詩織の乳房が形を変えていき、それと同時に、詩織の下腹部では、ジンジンと甘く痺れるような熱が疼き始める。
 その疼きが愛おしくて、彼から与えられる刺激にもっと溺れたくなる。
「貴也っさん」
 鼻にかかる甘い声で彼の名前を呼び、背中に絡める腕に力を込めた。
 その声に応えるように、貴也がバスローブの中へと手を滑り込ませてきた。
 自分の肌に直接触れる彼の手の感触驚いて腰をくねらせると、詩織のバスローブがはだけ、華奢な肩が露出する。
 貴也は露わになった詩織の首筋に舌を這わせる。
「詩織の肌、甘いな」
「……」
 彼にそんな場所を舐められるだけでも緊張するのに、そんなことを囁かれ、詩織は羞恥で息を飲む。
 彼の体温や息遣いをかんじるだけで、肌が甘く痺れて、下腹部が疼く。
 この状況も、そんな自分の反応も恥ずかしくて仕方ないのに、彼を求める気持ちは加速していく。
 こういうときなにをどうすればいいのかわからないはずなのに、貴也が顔を自分の方に寄せてくると、自然とその動きに応じて彼と唇を重ねてしまえるのだから不思議だ。
 ――きっと人間は、愛するという行為を本能で学んでいるんだ。
 互いの存在を確かめるように濃厚な口づけを交わす詩織は、自分を求めてくれる貴也の荒々しい気遣いを感じながらそんなことを考える。
 だから本能で、彼の求めにどう応じればいい変わるのだろう。
「貴也さん……すごく好きです」
 濃厚な口付けの合間に囁くと、貴也は詩織の首筋に強く唇を押し付けて「愛してる」と囁く。
 そして再び互いの唇を重ねつつ、詩織の肩を撫で、腰のラインをなぞり、バスローブを留めていた帯を解く。
 彼に求められるまま、詩織が軽く腰を浮かしたりして、自分からもバスローブを脱いでいく。
 詩織を一糸まとわぬ姿にした貴也は、一度上半身を起こし、自身もバスローブを脱ぎ去ると再度、詩織に体を重ねる。
 直接触れる彼の体温に、詩織は息を飲む。
「怖い?」
 詩織の緊張を読み取った貴也が聞く。
 その言葉に詩織は首を横に振る。
 まったく怖くないと言えば嘘になる。
 だけど男女が愛し合った先にある当然の営み。それを詩織に教えてくれるのが貴也であるということが素直に嬉しい。
 彼のなら自分の人生の全てを委ねていいと思えるのだから。
「貴也さんだから、怖くないです」
 嘘偽りのない詩織のその言葉に、貴也は大きく息を吐きその額に唇を寄せる。
「出会ってくれてありがとう」
 心からの感謝を込めた彼の言葉に、詩織は、それは自分の台詞だと首を振る。
 こんなに心から愛おしいと思える人に出会えただけでも奇跡だというのに、その相手に愛されという奇跡。
「愛しています」
「俺の方が愛してる」
 変なところで張り合ってくる貴也の瞳には、雄としての劣情が揺らめいている。
 これまで知ることのなかった彼の表情に、詩織の女性としての本能も刺激され、彼に触れられたいと心から願ってしまう。
 自分の中にこんな感情があることも、彼がこんな表情を見せることも、全然知らなかった。
 四年も一緒にいたのに、知らないことだらけだ。
 ――この人をもっと知りたい。
 そして自分を知ってほしい。
 そんな思いを胸に、詩織は貴也と肌を重ねた。

  ◇◇◇

 どこか遠くで獣が鳴く声が消えた気がして、貴也は目を開いた。
 そっと体を起こし周囲を確認すれば、窓の外はまだ暗く、風に揺れる木々の葉が波のような音を立てている。
 自分の傍らに視線を落とせば、窓から差し込む月明かりに、詩織の寝顔が浮かび上がる。
 ぐっすり眠っている様子の彼女の眠りを妨げないよう注意しながら、貴也は彼女の頬にかかる髪を優しい手つきで整える。
「ごめん」
 なんの反応も示さない詩織の寝顔につい謝ってしまうのは、かなり激しく彼女を求めてしまったという自覚があるからだ。
 最初は不慣れな詩織の負担を考えて優しく触れるつもりでいたのに、気が付けば彼女の体に溺れていた。
 壊さないよ、優しく彼女に触れるべきだとわかっていたのに、離れている時でも自分の存在を忘れないよう己の存在を深く刻んでおきたくて、かなり激しく彼女を求めてしまった。
 それで満足したのかと言えば、長年耐えてきた分、枷が外れた男の本能が、より強く彼女を求めてしまうのだから困ったものだ。
 さすがに、疲弊しきっている詩織の眠りを妨げたりはしないが、誰かを愛するということは、自分一人では解消することのできない飢えを抱えることなのだと詩織に触れて初めて知った。
 それは、これまでずっと、斎賀家の御曹司に生まれて充足した人生を送ってきた貴也が知る初めての感覚だ。
 もちろん、斎賀家に生まれたことで得られる恩恵と引き換えに、それ相応の結果が求められたのだが、それに応えられるだけの才覚が貴也には備わっていたので困ることはなにもなかった。
 そんな自分が、ただ一人の女性に溺れ、彼女を失う不安に怯える日がくるなんて想像したこともなかった。
 それでいてその飢えさえ、詩織を愛する故の衝動だと思うと受け入れられてしまうのだから、愛情とは本当に恐ろしい。
「愛してる」
 そう囁いて彼女に触れることが許されると言うだけで、どうしようもない幸福感に満たされるのだから、自分はかなりやばいと思う。
 自分はもう詩織なしでは生きられないのだから、早く彼女と正式な夫婦にになりたい。
 詩織の寝顔を見守りながら、そのためにはなにが必要かと、貴也はあれこれ思考を巡らせる。
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