怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む
8・信じている
SAGA精機の社員に案内された部屋は、会議室というより来客との応接用という感じだ。
先ほどまでの会議室とは違い、座り心地の良さそうなソファーとテーブルが設置されていて、開放的な広い窓からは太陽光が差し込んでいる。
「……お前、本当に社長令嬢なの?」
案内してくれた社員が準備してくれたコーヒーを啜り、生駒が聞く。
彼の向かいのソファーに腰掛ける詩織は、コクリと頷いた。
「マジなのか」
黙って頷く詩織を見て生駒が唸る。
「すみません」
やましいことはなにもなにもないのだけど、この状況を招いてしまったことに関しては謝るしかない。
肩を落として視線を下げる詩織を見て、生駒が言う。
「まあ俺だって、大富豪の御曹司だって黙ってるもんな」
「えっ! 本当ですか?」
思いがけない情報に、詩織が驚き顔を上げる。
そんな詩織の反応を見て、生駒がニヤリと笑う。
「嘘だよ。普通にサラリーマン家庭の次男坊だよ」
「なんだ……」
「なんだとはなんだ、失礼な」
そう言って生駒は笑う。
「すみません」
詩織が素直に謝ると、生駒はまたコーヒーを啜って言う。
「バカ、それも冗談に決まってるだろ。世間話のノリでもない限り、一緒に仕事しててもお互いの家族環境についてまで触れないだろ。……それが普通だよ」
だから詩織が家のことを黙っていたことは、気にする必要はないと慰めてくれる。
その言葉に詩織は深く頭を下げた。
「ただここの専務と個人的な面識があるなら、それは事前に報告すべきだったな。正直、それなら引き継ぎの話も受けるべきじゃなかった」
詩織の気持ちが落ち着いたのを見計らって、生駒が叱る。
確かにそのとおりだ。
詩織が最初にそのことを正直に打ち明けていれば、静原の罠に嵌められ、多くの人に迷惑をかけるようなことはまなかったのだろう。
「すみません」
貴也や家族に仕事を頑張っていると認めてほしいった個人的感情が先に出て、そんな基本常識が抜け落ちてしまっていた。
「だけど今回の場合、あの女の人が企んだことなんだろうけど、なにが狙いなんだ……」
先ほどのやり取りで、生駒にもおおよその状況は理解できているのだろう。
でもその動機まではわからないと首をかしげる。
ここまで状況を理解できているのなら、隠す必要はない。
そう考えをまとめた詩織は、静原が自分のスーツにUSBを潜ませたであろう経緯を、その時交わした会話も含めて生駒に話した。
「……なるほど」
詩織の話を聞き終えた生駒は、低く唸って顎をさする。
「完全なる逆恨みじゃないか」
しばらく思考を巡らせた生駒は、そう結論づけた。
「正直、私もそう思っています」
だからこそ、周囲に迷惑をかけていることが辛い。
このまま自分の無実を証明できなければ、会社や家族や貴也、そういった自分が大事に思うもの全てに迷惑をかけることになる。
「まあ、斎賀専務を信じて待つしかないよな」
思考を放り出すように大きく伸びをした生駒は、姿勢を戻すとぼんやりと窓の外を眺める。
「結婚したら仕事を辞めるのか?」
窓の外に視線を向けたまま生駒が聞く。
スマホも書類も全て預けてきたため、暇を持て余して興味本位で質問したという感じだ。
そのくらい肩の力が抜けた質問だからこそ、詩織も難しく考えることなく、素直な気持ちを打ち明ける。
「正直、悩んでいます。今回の件で、貴也さんにも、会社にも迷惑をかけてしまいましたし……」
「俺の個人的な意見としては、仕事の借りは、仕事で返すべきだと思うけどな。二年かけて仕事を教えてやっと形になってきたスタッフに、一度のミスでいちいち仕事を辞められたら企業が回らないだろ」
確かにそのとおりだ。
そういう考え方もあるのかと目を瞬かせる詩織に、生駒は「だけど……」と続ける。
「仕事のために、自分の人生を犠牲にする必要はないとも思う」
「でもそれじゃあ、せっかく生駒さんに色々教えてもらったことが無駄になってしまいます」
驚く詩織に、生駒は「無駄にはならないよ」と返す。
「ていうか、せっかく教えたんだから無駄にするな。……仕事辞めたら神崎の人生が終わるわけじゃないだろ。会社に返せなくてもいいから、その分、社会に返せばいいよ」
「……」
「神崎はそれができると信じている」
生駒の意見になにか言葉を返そうとした時、ノックの音葉響扉が開いた。
「ご同行をお願いできますか?」
この部屋まで案内してくれたスタッフが顔を覗かせ、二人に声をかける。
その声に、詩織も生駒も表情を引き締めて立ち上がった。
スタッフと共に先ほどの会議室に戻ると、先ほどのメンバーの他、SAIGA精機の社長であり、貴也の父である斎賀幸助。
それにあと二人……
「お父さんと悠介君」
思いがけない人の姿に、仕事中であることも忘れて声を漏らしてしまう。
そんな詩織を、篤が視線で嗜める。
どうやら詩織と生駒が別室で待たされている間に、呼び寄せたらしい。
「とりあえずおかけください」
貴也に促され、詩織と生駒は、篤と悠介が並んで腰をかける側の椅子に着席をした。
テーブルを挟んだ向かい側には、SAIGA精機の面々が腰を下ろしている。
当然のように貴也の隣に座る静原の姿に、そんな状況じゃないとわかっていても、どうしても感情がざらついてしまう。
それでも込み上げる感情をどうにか抑え込み、詩織は背筋を伸ばして貴也の言葉を待った。
「お忙しい中みお時間をいただき、申し訳ありません……」
そう切り出した貴也は、篤たちのために、これまでの状況を簡単に説明する。
詩織のスーツのポケットからUSBが出てきたという話には、篤も悠介も露骨に眉根を寄せて渋い顔をする。
「……これが、そのUSBになります」
話のしめくくりに、貴也は件のUSBをテーブルの中央にそれを置く。
そしてチラリと詩織に視線を向けて言う。
「こちらの神崎詩織さんの主張として、このUSBはご自身の物ではなく、身に覚えがないとのことです。その証拠に、自分の指紋など着いていないはずだと主張されました」
その主張で間違いないかと、貴也が視線で確認してくる。
詩織が間違いと頷くと、静原が割って入ってきた。
「指紋なんて、どうとでもなります。状況証拠として、神崎さんを案内した会議室のパソコンがいつの間にか起動していて、彼女のポケットにこのUSBがあったんです」
静原の主張に、貴也や幸助が深く頷き、他の社員達も詩織に疑わしげな眼差しを向けてくる。
「もちろん、それはただの状況証拠の一つにしかすぎません。案内された時点で、偶然何者かがパソコンを起動させており、何かの偶然で他人のUSBが神崎さんのポケットに入った。そういう可能性がなくはない」
「確率論から考えて、そんな偶然、あると思いますか?」
静原が尖った声で難色を示すと、貴也ももっともだと頷く。
「そのとおりだ。しかも確認したところ、このUSBに納められていた情報は、神崎テクノさんに有益な情報ときている」
「おい、斎賀……」
悠介がビジネスパートナーとしてではなく、友人としての口調で抗議しようとするけど、貴也に睨まれ口を噤んだ。
「そこまで状況証拠が揃えば、言い逃れできないんじゃないかしら?」
「それでも私はやっていませんし、父も神崎テクノの人間も、私にそんなことをさせたりしません」
詩織は、意地の悪い笑みを浮かべる静原に毅然とした眼差しを向ける。
結果がどう出るにあれ、その事実までねじ曲げることは許せない。
経営者として多少甘いところはあるが、篤は本当に自慢の父なのだ。
そしてそんな父が守ってきた会社にも、それだけの価値があるというのに……
下唇を噛む詩織の傍らで、篤がスッと手を上げた。
その動きに周囲の視線が集まる。
「貴也君、これはどういう種類の茶番かな?」
「……?」
思いがけない発言に、周囲の視線が集まると、篤は、場の緊張を壊すような朗らかな声で続ける。
「もちろん、状況はわかっている。ただ私も、親の贔屓目抜きにしても、詩織がそんなことをするような人間だとは思っていないよ。そして、その程度の状況証拠だけで、貴也君が犯人を断定するとも思えない」
詩織と貴也、その両方を信じているからこそ、この状況が理解できないと篤が言う。
彼のその言葉に、貴也がそっと口角を持ち上げる。
その表情に、詩織は心中で「あっ!」と感嘆する。
表面上冷静なふうを装ってはいるが、よく見れば彼の瞳の奥では、悪巧みを楽しんでいる時特有の輝きが見える。
突然の自体に混乱してすっかり忘れていたが、この婚約者様は、常識人に見えて、時々とんでもない悪ガキの顔を覗かせるのだ。
そのことに悠介も気付いたらしく、詩織の隣に座る彼から肩の力が抜けるのを感じた。
「茶番もなにも、これだけの状況証拠を見れば、誰が犯人かは明白です」
そのことに気付かない静原が口を開く。
「残念ながら、静原君、君の言うとおりだ」
「……えっ?」
散々詩織を攻撃していた静原が、自分に向けられる貴也の眼差しに気付いてその勢いを失速させる。
「君のことを、秘書として信頼していただけに、本当に残念だよ」
しみじみとしたその言葉に、静原が戸惑いを浮かべて表情で、貴也にぎこちない微笑みを向けた。
だけど貴也が、彼女に微笑み返すことはない。
スッと視線を逸らし、USBを手に取る。
「こちらのUSBには確かに、神崎テクノさんの仕事に有益な情報ばかり詰まっていました。これを盗み出せば、確かに神崎テクノさんに、大きな利益をもたらすことでしょう。ただ婚約者として言わせてもらえば、正直なところ詩織さんの知識力で情報の見極めが付いたとは思えません」
「……ぅっ」
やんわりバカと言われているようで悔しいが、全くその通りである。
文系卒の詩織は、貴也、篤、海斗、悠介といった面々が共通の話題で盛り上がっている時は、彼らの交わす言葉が呪文の羅列にしか聞こえていないのだ。
就職して少しはマシな知識が身についたけど、それでも会話に参加したくて口を挟んだ結果、失笑されることが度々あるので反論できない。
むかつくことに、両隣に座る悠介と生駒も頷いている。
ついでに言えば、向かいにテーブルに座る幸助も視線を落として笑いを堪えている。
その程度の知識しか持ち合わせていない詩織に、産業スパイの真似事などできるはずがない。
「膨大な情報の中から、短時間で必要な情報の抽出をするにはそれなりの知識がいる。例えば、静原君のようにね」
貴也の言葉に、周囲の彼女を見る目がわかる。
「そ、そんなの、なんの証拠にもなりません」
その視線を受けて声を荒げる静原に、貴也がもっともだと頷く。
「だから渡辺君に、USBのログ歴を辿ってもらったよ。ついでに言うのなら、君が詩織さんを案内したという会議室のパソコンのアクセス開始の時間帯と、誰のパスワードでアクセスしたかも調べさせた」
そう話す貴也は、最初に会議室に姿を見せたとき、彼と一緒に部屋に入って来た小柄で恰幅のいい男性へと視線を向けた。
貴也に「渡辺君」と呼ばれた男性は、立ち上がりパソコン画面を幸助に見せながら説明を始める。
「専務がお話しされたとおり、専務承認の下、USBのログ歴を辿を辿らせていただきました」
そう切り出す渡辺は、先ほどの会話で詩織の知識量を察してくれているのか、ログ歴とは、パソコンの利用履歴を辿ることなのだという。
それを調べれば、パソコンを使用した時間帯だけでなく、そのパソコンでどんな作業をしたか、どんな情報を検索したかがわかるのだという。
新雪の上を人が歩けば必ず足跡が残るのと同じで、パソコンを使用すれば、必ず残る痕跡なのだという。
しかもその痕跡は、雪の上に残る足跡とは違い、溶けてなくなるようなことはない。
利用者が意図的に消した履歴でさえ、渡辺のようなその道のプロの手にかかれば、一度は消した履歴も再度復元されてしまうのだという。
そして情報が復元できてしまうからこそ、証拠隠滅したという当事者の悪意まで浮き彫りにすることができる。
「まず先に、情報の抜き取りに使用されたと推測されている会議室のパソコンは、神崎さんが入室される前から起動されています。そしてその起動には、静原さんのアクセスコードが使われています」
「……そ、それは……お客様にお茶をお出しする前に、少し確認したいことがあって、たまたま空いていた会議室のパソコンを使ったからです。それで閉じ忘れて…………」
苦しいが一理ある静原の言い訳に、貴也も渡辺も一応は頷く。
だけど渡辺の話は、それで終わりじゃない。
「そしてこのUSB。こちらも、辿ればどこのパソコンからアクセスしたか調べることが可能ということは承知でしたか?」
「――っ!」
静原もそこまでは知らなかったのか、渡辺の問い掛けに息を呑んだきり黙り込む。
その沈黙こそが証拠となる。
静原の顔を見て、貴也が深いため息を漏らした。
幸助も苦しげな表情で眉間を揉む。
それでも貴也は奥歯を噛みしめ、感情を切り替えて話を続ける。
「このUSBへのデーター移行は、専務のオフィスでおこなわれています。しかも静原さんのデスクのパソコンから、静原さんのパスワードでアクサセスされた上で」
「そんなの、なにかの間違いです。それこそ、渡辺君が私を陥れるために、データーを改ざんした可能性だってあるわっ!」
テーブルに両手を突き、勢いよく立ち上がった静原は、必死に自分の無実を主張する。
だけどもう、その主張に耳を貸すものはこの場にはいない。
「確かに、僕にならそれは可能だ。……だけど情報を改ざんすれば、その痕跡が必ず残る。もし本気で僕がデーターの改ざんをしたと思うのであれば、この情報を別の人に調べてもらえばいい。それで何も見つからなければ、僕は静原さんを訴えるけど」
罪をなすりつけられたことに腹が立ったのか、渡辺が冷ややかな声で言う。
詩織には彼のキャリアがよくわからないけど、SAIGA精機側の人は、彼の知識に絶大なる信頼を寄せているようだ。
言いがかりを付けた静原でさえ、渡辺に訴えると言われたことで口を噤んでしまったのだから。
グッと唇を噛み、それでも自身の罪を認めない彼女に、貴也がとどめを刺す。
「いつも私のオフィスで仕事をする静原君には区別が着かなかったのだろうけど、このUSBに納められている情報には、そもそも私か社長のオフィスのパソコンからしかアクセスできなものが含まれていたんだよ。二人の内どちらかのオフィスにも入ったことのない詩織さんには、もとから盗みようがない情報なんだよ」
「――っ!」
貴也の言葉に観念したのか、静原はストンッと自分の椅子に腰を下ろし、首をもたげる。
自白や謝罪の言葉はなくても、自分の罪を認めたと言っても過言ではない状況に、最初詩織たちを疑っていた社員が慌てて頭を下げる。
「……なんでこんなことをしたんだか」
貴也の発言が正しいと証明するため、その場にいる全員にパソコン画面を見せて回る渡辺が静原に画面を見せる際にポツリと呟く。
「貴方には、わからないわよ」
冷めた声で返す静原は、向かいに座る詩織に憎しみに満ちた眼差しを向けてきた。
敵意に満ちた彼女の視線を正面から受け、詩織は「わからない」のではなく「わかりたくない」のだと首を振る。
詩織だって長居あいだ、自分は貴也に片思い片思いしているのだと思っていて、あれこれ悩んで、よくわからない嫉妬心を持て余したことはある。
でもそういった不安は、誰かの足を引っぱることで解決すべき問題ではない。
自分の弱さや欠点と向き合って、乗り越えていくべき課題なのだ。
「渡辺君、悪いが彼女を頼む。ついでに、彼女のパソコンを徹底的に調べてくれ」
その言葉に俯いたままの静原の肩が一度小さく跳ねたので、今回の件の他にもなにか不都合な情報が納められているのかもしれない。
◇◇◇
その日の夜、詩織は実家に帰って来ていた。
静原のしでかしたことは、詩織の無実を証明できて、めでたしめでたしと終わりにできるようなことではない。
貴也の秘書である静原が、取引先の社員であり、業務提携先の社長令嬢でもある詩織を企業ごと陥れようとしたのだ、それぞれの長での話し合いが必要となる。
それに貴也には、直属の上司としての責任もある。
そういったゴタゴタを含め、神崎テクノとSAIGA精機との話し合いが終わるまで、一度距離を取った方がいいだろうという話になり、詩織が実家に戻ることにした。
貴也と暮らすようになってからも、実家にはちょくちょく遊びには来ていた。でも泊まりがけで帰ってくるのは、これが初めてだ。
「……なんだろう、変な感じ」
久しぶりの自室でベッドに寝転がる詩織は、慣れ親しんでいるはずの自室を見渡して呟く。
つい数ヶ月前までこの部屋で暮らしていたし、今も定期的に掃除をしてくれているらしく、室内は清潔に保たれている。
それなのに、この部屋で過ごすことが妙に落ち着かない。
その理由はもちろん……
「……」
詩織がなんとはなしに視線を向けると、その気持ちに応えるように彼女のスマホが震えた。
スマホ画面には貴也の名前が表示されている。
「もしもし、貴也さん?」
スマホをタップした詩織が話しかけると、スマホの向こうで貴也がそっと息を吐く気配を感じた。
その息遣いだけで、彼がかなり参っていることがわかってしまう。
「疲れてますね」
貴也が簡単に弱音を吐けない性格なのは、承知している。
だからこそ、「疲れてますか?」「大丈夫ですか?」と、問い掛けるのではなく断言してしまう。
誰かが断言してあげないと、貴也自身では、自分が疲れていることに気付けないのだから。
――こういうときは、貴也さんの強さが恨めしい。
なまじ貴也が優秀過ぎるせいで、本人も含めて周囲が彼に期待しすぎる。
とはいえ、どれだけ優れていようが、貴也だって普通の人間なのだ。受け止められるストレスの許容量には限界があるし、無理をすればメタルをやられることだってある。
彼に散々助けられてきた詩織が口にするのはおこがましいことなのかもしれないけど、彼の弱さを見過ごさ図、支えられる存在でありたい。
「……」
無言のまま相手の反応を待っていると、観念したように貴也が、吐息混じりに「ああ、そうだな」と詩織の言葉を受け入れてくれた。
「自分のマンションですか?」
「うん。今帰ってきたところ。……なんとなく、詩織の声が聞きたくなって」
彼が疲れ果てているのであれば、それは少しも喜ぶべきことじゃない。
それがわかっていても、彼にそんなこと言われるとつい喜んでしまう自分はよくないと思う。
スマホをスピーカーモードに切り替えた詩織は、頬をつねって自分を窘めておく。
「貴也さんのご飯、冷蔵庫に作ってあります」
「え?」
貴也が驚きの声を漏らす。
そしてそのまま冷蔵庫をかくにんしたのだろう。
短い足音に続いて冷蔵庫を開閉する音が聞こえる。
「明日の朝の分も。……いつの間に?」
「今日、実家に帰る前にマンションに寄りました」
詩織はスマホをサイドチェアの上に置き、ベッドの上で膝を抱える。
静原が別室に連れて行かれた後、神崎テクノの代表である篤と、とりあえずのKSシステムの代表として生駒は残ることなった。
悠介は片付けたい仕事があるので会社に戻ると言うが、詩織は色々あって就業時間が迫っていたため、生駒が会社に許可を取って直帰していいと言われた。
だから必要な荷物を取りに貴也と暮らすマンションに寄ってから実家に帰るこにして、その際、貴也のために簡単な夕食と朝食を作っておいたのである。
「ありがとう。食事する気分になれなくて何も食べてなかったけど、急にお腹が減ってきたよ」
「そうなると思っていたから、ご飯を作っておいたんです」
詩織のお説教に、貴也が困ったように笑う。
それでも少し元気が出てきたのか、ポツリポツリと詩織が帰った後のことを話してくれた。
「静原君は、全てが自分の犯行だったことを認めたよ。まあ、あの状況じゃ言い逃れのしようもないだろうけど」
そう話を切り出した貴也の話によれば、彼女が盗み出した情報は他にはなかったそうだ。
ただその流れで調べた彼女の父親のパソコンの中には、不透明な金銭の流れを感じさせる痕跡はあり、それはこれから時間を掛けて調べていくことになるのだという。
もしかしたら、静原親子が貴也との縁談に執着したのは、その辺の事情もあってのことなのかもしれない。
もちろん静原が、貴也に強い恋愛感情を抱いていたのは確かなのだろうけど、渡辺にパソコンを調べるよう指示する貴也の言葉に見せた反応から、どうしてもそう考えてしまう。
「詩織や神崎テクノさんに迷惑をかけたし、本来ならすぐにでも法的措置に出るべき問題なのだろうけど、彼女の父親は長くウチで働いてくれていた人で、できれば自主を勧めたい……」
「信じていた人に裏切られるのは、辛いですよね」
「篤さんもそう言ってくれて、しばらく状況を見守ってくれるそうだ」
信じていた人に裏切られる痛みは、詩織も篤も四年前に味わっている。
だからこそ、今彼が抱えている痛みを思うと胸が痛い。
それに貴也は、人を着るのが苦手だ。
こんな状況でも、彼女を処罰することに少なからず胸を痛めていることだろう。
こんな時に、彼に寄り添えない状況が辛い。
「……」
「詩織」
彼の心の痛みを思い、掛ける言葉を探していると、貴也に名前を呼ばれた。
柔らかな声で詩織の名前を呼ぶ貴也は、そのままこう続ける。
「四年前、出会ってくれてありがとう。お前がいてくれたから、俺は救われているよ」
「え……?」
四年前に救われたのは、間違いなく詩織の方だ。
だってあの頃の彼は既に立派な大人の男で、詩織の助けを必要とする場所など何処にもなかったはず。
そう話す詩織に、それは違うと貴也が言う。
「どうしようもなく辛いときでも、詩織がいるから、俺は頑張れるんだよ。お前を守れる人間でありたいと思うから、俺は何処までも強くなれる」
だから今回感じた痛みも、乗り越えていけると貴也は言う。
「貴也さん」
「なんだ?」
「早く家に帰りたいです」
貴也を思って自然と零れたその言葉に、もう自分の居場所はここじゃないのだと、改めて思いする。
生まれ育った実家より、この数ヶ月貴也と暮らしたあのマンションが、すでに自分の暮らす場所なのだ。
電話の向こうで、貴也が一瞬黙り込む。
そしてしみじみた口調で返す。
「そうだな。お前がいないと、この部屋は広すぎる」
長年の一人暮らしをしてきたマンションの広さを、今さらながらに噛みしめているらしい。
彼がそんなふうに思ってしまうくらい、自分の存在が彼の生活の一部に溶け込んでいることが不思議だ。
最初は、かたちだけの婚約者のはずだったのに、気が付けば自分たちは、お互いを掛け替えのない存在として認識している。
「貴也さん……愛しています」
「その言葉は、会った時に聞かせてくれ」
そう注文を付けてきた貴也は、「でもありがとう」と甘い声で囁いて電話を切った。
先ほどまでの会議室とは違い、座り心地の良さそうなソファーとテーブルが設置されていて、開放的な広い窓からは太陽光が差し込んでいる。
「……お前、本当に社長令嬢なの?」
案内してくれた社員が準備してくれたコーヒーを啜り、生駒が聞く。
彼の向かいのソファーに腰掛ける詩織は、コクリと頷いた。
「マジなのか」
黙って頷く詩織を見て生駒が唸る。
「すみません」
やましいことはなにもなにもないのだけど、この状況を招いてしまったことに関しては謝るしかない。
肩を落として視線を下げる詩織を見て、生駒が言う。
「まあ俺だって、大富豪の御曹司だって黙ってるもんな」
「えっ! 本当ですか?」
思いがけない情報に、詩織が驚き顔を上げる。
そんな詩織の反応を見て、生駒がニヤリと笑う。
「嘘だよ。普通にサラリーマン家庭の次男坊だよ」
「なんだ……」
「なんだとはなんだ、失礼な」
そう言って生駒は笑う。
「すみません」
詩織が素直に謝ると、生駒はまたコーヒーを啜って言う。
「バカ、それも冗談に決まってるだろ。世間話のノリでもない限り、一緒に仕事しててもお互いの家族環境についてまで触れないだろ。……それが普通だよ」
だから詩織が家のことを黙っていたことは、気にする必要はないと慰めてくれる。
その言葉に詩織は深く頭を下げた。
「ただここの専務と個人的な面識があるなら、それは事前に報告すべきだったな。正直、それなら引き継ぎの話も受けるべきじゃなかった」
詩織の気持ちが落ち着いたのを見計らって、生駒が叱る。
確かにそのとおりだ。
詩織が最初にそのことを正直に打ち明けていれば、静原の罠に嵌められ、多くの人に迷惑をかけるようなことはまなかったのだろう。
「すみません」
貴也や家族に仕事を頑張っていると認めてほしいった個人的感情が先に出て、そんな基本常識が抜け落ちてしまっていた。
「だけど今回の場合、あの女の人が企んだことなんだろうけど、なにが狙いなんだ……」
先ほどのやり取りで、生駒にもおおよその状況は理解できているのだろう。
でもその動機まではわからないと首をかしげる。
ここまで状況を理解できているのなら、隠す必要はない。
そう考えをまとめた詩織は、静原が自分のスーツにUSBを潜ませたであろう経緯を、その時交わした会話も含めて生駒に話した。
「……なるほど」
詩織の話を聞き終えた生駒は、低く唸って顎をさする。
「完全なる逆恨みじゃないか」
しばらく思考を巡らせた生駒は、そう結論づけた。
「正直、私もそう思っています」
だからこそ、周囲に迷惑をかけていることが辛い。
このまま自分の無実を証明できなければ、会社や家族や貴也、そういった自分が大事に思うもの全てに迷惑をかけることになる。
「まあ、斎賀専務を信じて待つしかないよな」
思考を放り出すように大きく伸びをした生駒は、姿勢を戻すとぼんやりと窓の外を眺める。
「結婚したら仕事を辞めるのか?」
窓の外に視線を向けたまま生駒が聞く。
スマホも書類も全て預けてきたため、暇を持て余して興味本位で質問したという感じだ。
そのくらい肩の力が抜けた質問だからこそ、詩織も難しく考えることなく、素直な気持ちを打ち明ける。
「正直、悩んでいます。今回の件で、貴也さんにも、会社にも迷惑をかけてしまいましたし……」
「俺の個人的な意見としては、仕事の借りは、仕事で返すべきだと思うけどな。二年かけて仕事を教えてやっと形になってきたスタッフに、一度のミスでいちいち仕事を辞められたら企業が回らないだろ」
確かにそのとおりだ。
そういう考え方もあるのかと目を瞬かせる詩織に、生駒は「だけど……」と続ける。
「仕事のために、自分の人生を犠牲にする必要はないとも思う」
「でもそれじゃあ、せっかく生駒さんに色々教えてもらったことが無駄になってしまいます」
驚く詩織に、生駒は「無駄にはならないよ」と返す。
「ていうか、せっかく教えたんだから無駄にするな。……仕事辞めたら神崎の人生が終わるわけじゃないだろ。会社に返せなくてもいいから、その分、社会に返せばいいよ」
「……」
「神崎はそれができると信じている」
生駒の意見になにか言葉を返そうとした時、ノックの音葉響扉が開いた。
「ご同行をお願いできますか?」
この部屋まで案内してくれたスタッフが顔を覗かせ、二人に声をかける。
その声に、詩織も生駒も表情を引き締めて立ち上がった。
スタッフと共に先ほどの会議室に戻ると、先ほどのメンバーの他、SAIGA精機の社長であり、貴也の父である斎賀幸助。
それにあと二人……
「お父さんと悠介君」
思いがけない人の姿に、仕事中であることも忘れて声を漏らしてしまう。
そんな詩織を、篤が視線で嗜める。
どうやら詩織と生駒が別室で待たされている間に、呼び寄せたらしい。
「とりあえずおかけください」
貴也に促され、詩織と生駒は、篤と悠介が並んで腰をかける側の椅子に着席をした。
テーブルを挟んだ向かい側には、SAIGA精機の面々が腰を下ろしている。
当然のように貴也の隣に座る静原の姿に、そんな状況じゃないとわかっていても、どうしても感情がざらついてしまう。
それでも込み上げる感情をどうにか抑え込み、詩織は背筋を伸ばして貴也の言葉を待った。
「お忙しい中みお時間をいただき、申し訳ありません……」
そう切り出した貴也は、篤たちのために、これまでの状況を簡単に説明する。
詩織のスーツのポケットからUSBが出てきたという話には、篤も悠介も露骨に眉根を寄せて渋い顔をする。
「……これが、そのUSBになります」
話のしめくくりに、貴也は件のUSBをテーブルの中央にそれを置く。
そしてチラリと詩織に視線を向けて言う。
「こちらの神崎詩織さんの主張として、このUSBはご自身の物ではなく、身に覚えがないとのことです。その証拠に、自分の指紋など着いていないはずだと主張されました」
その主張で間違いないかと、貴也が視線で確認してくる。
詩織が間違いと頷くと、静原が割って入ってきた。
「指紋なんて、どうとでもなります。状況証拠として、神崎さんを案内した会議室のパソコンがいつの間にか起動していて、彼女のポケットにこのUSBがあったんです」
静原の主張に、貴也や幸助が深く頷き、他の社員達も詩織に疑わしげな眼差しを向けてくる。
「もちろん、それはただの状況証拠の一つにしかすぎません。案内された時点で、偶然何者かがパソコンを起動させており、何かの偶然で他人のUSBが神崎さんのポケットに入った。そういう可能性がなくはない」
「確率論から考えて、そんな偶然、あると思いますか?」
静原が尖った声で難色を示すと、貴也ももっともだと頷く。
「そのとおりだ。しかも確認したところ、このUSBに納められていた情報は、神崎テクノさんに有益な情報ときている」
「おい、斎賀……」
悠介がビジネスパートナーとしてではなく、友人としての口調で抗議しようとするけど、貴也に睨まれ口を噤んだ。
「そこまで状況証拠が揃えば、言い逃れできないんじゃないかしら?」
「それでも私はやっていませんし、父も神崎テクノの人間も、私にそんなことをさせたりしません」
詩織は、意地の悪い笑みを浮かべる静原に毅然とした眼差しを向ける。
結果がどう出るにあれ、その事実までねじ曲げることは許せない。
経営者として多少甘いところはあるが、篤は本当に自慢の父なのだ。
そしてそんな父が守ってきた会社にも、それだけの価値があるというのに……
下唇を噛む詩織の傍らで、篤がスッと手を上げた。
その動きに周囲の視線が集まる。
「貴也君、これはどういう種類の茶番かな?」
「……?」
思いがけない発言に、周囲の視線が集まると、篤は、場の緊張を壊すような朗らかな声で続ける。
「もちろん、状況はわかっている。ただ私も、親の贔屓目抜きにしても、詩織がそんなことをするような人間だとは思っていないよ。そして、その程度の状況証拠だけで、貴也君が犯人を断定するとも思えない」
詩織と貴也、その両方を信じているからこそ、この状況が理解できないと篤が言う。
彼のその言葉に、貴也がそっと口角を持ち上げる。
その表情に、詩織は心中で「あっ!」と感嘆する。
表面上冷静なふうを装ってはいるが、よく見れば彼の瞳の奥では、悪巧みを楽しんでいる時特有の輝きが見える。
突然の自体に混乱してすっかり忘れていたが、この婚約者様は、常識人に見えて、時々とんでもない悪ガキの顔を覗かせるのだ。
そのことに悠介も気付いたらしく、詩織の隣に座る彼から肩の力が抜けるのを感じた。
「茶番もなにも、これだけの状況証拠を見れば、誰が犯人かは明白です」
そのことに気付かない静原が口を開く。
「残念ながら、静原君、君の言うとおりだ」
「……えっ?」
散々詩織を攻撃していた静原が、自分に向けられる貴也の眼差しに気付いてその勢いを失速させる。
「君のことを、秘書として信頼していただけに、本当に残念だよ」
しみじみとしたその言葉に、静原が戸惑いを浮かべて表情で、貴也にぎこちない微笑みを向けた。
だけど貴也が、彼女に微笑み返すことはない。
スッと視線を逸らし、USBを手に取る。
「こちらのUSBには確かに、神崎テクノさんの仕事に有益な情報ばかり詰まっていました。これを盗み出せば、確かに神崎テクノさんに、大きな利益をもたらすことでしょう。ただ婚約者として言わせてもらえば、正直なところ詩織さんの知識力で情報の見極めが付いたとは思えません」
「……ぅっ」
やんわりバカと言われているようで悔しいが、全くその通りである。
文系卒の詩織は、貴也、篤、海斗、悠介といった面々が共通の話題で盛り上がっている時は、彼らの交わす言葉が呪文の羅列にしか聞こえていないのだ。
就職して少しはマシな知識が身についたけど、それでも会話に参加したくて口を挟んだ結果、失笑されることが度々あるので反論できない。
むかつくことに、両隣に座る悠介と生駒も頷いている。
ついでに言えば、向かいにテーブルに座る幸助も視線を落として笑いを堪えている。
その程度の知識しか持ち合わせていない詩織に、産業スパイの真似事などできるはずがない。
「膨大な情報の中から、短時間で必要な情報の抽出をするにはそれなりの知識がいる。例えば、静原君のようにね」
貴也の言葉に、周囲の彼女を見る目がわかる。
「そ、そんなの、なんの証拠にもなりません」
その視線を受けて声を荒げる静原に、貴也がもっともだと頷く。
「だから渡辺君に、USBのログ歴を辿ってもらったよ。ついでに言うのなら、君が詩織さんを案内したという会議室のパソコンのアクセス開始の時間帯と、誰のパスワードでアクセスしたかも調べさせた」
そう話す貴也は、最初に会議室に姿を見せたとき、彼と一緒に部屋に入って来た小柄で恰幅のいい男性へと視線を向けた。
貴也に「渡辺君」と呼ばれた男性は、立ち上がりパソコン画面を幸助に見せながら説明を始める。
「専務がお話しされたとおり、専務承認の下、USBのログ歴を辿を辿らせていただきました」
そう切り出す渡辺は、先ほどの会話で詩織の知識量を察してくれているのか、ログ歴とは、パソコンの利用履歴を辿ることなのだという。
それを調べれば、パソコンを使用した時間帯だけでなく、そのパソコンでどんな作業をしたか、どんな情報を検索したかがわかるのだという。
新雪の上を人が歩けば必ず足跡が残るのと同じで、パソコンを使用すれば、必ず残る痕跡なのだという。
しかもその痕跡は、雪の上に残る足跡とは違い、溶けてなくなるようなことはない。
利用者が意図的に消した履歴でさえ、渡辺のようなその道のプロの手にかかれば、一度は消した履歴も再度復元されてしまうのだという。
そして情報が復元できてしまうからこそ、証拠隠滅したという当事者の悪意まで浮き彫りにすることができる。
「まず先に、情報の抜き取りに使用されたと推測されている会議室のパソコンは、神崎さんが入室される前から起動されています。そしてその起動には、静原さんのアクセスコードが使われています」
「……そ、それは……お客様にお茶をお出しする前に、少し確認したいことがあって、たまたま空いていた会議室のパソコンを使ったからです。それで閉じ忘れて…………」
苦しいが一理ある静原の言い訳に、貴也も渡辺も一応は頷く。
だけど渡辺の話は、それで終わりじゃない。
「そしてこのUSB。こちらも、辿ればどこのパソコンからアクセスしたか調べることが可能ということは承知でしたか?」
「――っ!」
静原もそこまでは知らなかったのか、渡辺の問い掛けに息を呑んだきり黙り込む。
その沈黙こそが証拠となる。
静原の顔を見て、貴也が深いため息を漏らした。
幸助も苦しげな表情で眉間を揉む。
それでも貴也は奥歯を噛みしめ、感情を切り替えて話を続ける。
「このUSBへのデーター移行は、専務のオフィスでおこなわれています。しかも静原さんのデスクのパソコンから、静原さんのパスワードでアクサセスされた上で」
「そんなの、なにかの間違いです。それこそ、渡辺君が私を陥れるために、データーを改ざんした可能性だってあるわっ!」
テーブルに両手を突き、勢いよく立ち上がった静原は、必死に自分の無実を主張する。
だけどもう、その主張に耳を貸すものはこの場にはいない。
「確かに、僕にならそれは可能だ。……だけど情報を改ざんすれば、その痕跡が必ず残る。もし本気で僕がデーターの改ざんをしたと思うのであれば、この情報を別の人に調べてもらえばいい。それで何も見つからなければ、僕は静原さんを訴えるけど」
罪をなすりつけられたことに腹が立ったのか、渡辺が冷ややかな声で言う。
詩織には彼のキャリアがよくわからないけど、SAIGA精機側の人は、彼の知識に絶大なる信頼を寄せているようだ。
言いがかりを付けた静原でさえ、渡辺に訴えると言われたことで口を噤んでしまったのだから。
グッと唇を噛み、それでも自身の罪を認めない彼女に、貴也がとどめを刺す。
「いつも私のオフィスで仕事をする静原君には区別が着かなかったのだろうけど、このUSBに納められている情報には、そもそも私か社長のオフィスのパソコンからしかアクセスできなものが含まれていたんだよ。二人の内どちらかのオフィスにも入ったことのない詩織さんには、もとから盗みようがない情報なんだよ」
「――っ!」
貴也の言葉に観念したのか、静原はストンッと自分の椅子に腰を下ろし、首をもたげる。
自白や謝罪の言葉はなくても、自分の罪を認めたと言っても過言ではない状況に、最初詩織たちを疑っていた社員が慌てて頭を下げる。
「……なんでこんなことをしたんだか」
貴也の発言が正しいと証明するため、その場にいる全員にパソコン画面を見せて回る渡辺が静原に画面を見せる際にポツリと呟く。
「貴方には、わからないわよ」
冷めた声で返す静原は、向かいに座る詩織に憎しみに満ちた眼差しを向けてきた。
敵意に満ちた彼女の視線を正面から受け、詩織は「わからない」のではなく「わかりたくない」のだと首を振る。
詩織だって長居あいだ、自分は貴也に片思い片思いしているのだと思っていて、あれこれ悩んで、よくわからない嫉妬心を持て余したことはある。
でもそういった不安は、誰かの足を引っぱることで解決すべき問題ではない。
自分の弱さや欠点と向き合って、乗り越えていくべき課題なのだ。
「渡辺君、悪いが彼女を頼む。ついでに、彼女のパソコンを徹底的に調べてくれ」
その言葉に俯いたままの静原の肩が一度小さく跳ねたので、今回の件の他にもなにか不都合な情報が納められているのかもしれない。
◇◇◇
その日の夜、詩織は実家に帰って来ていた。
静原のしでかしたことは、詩織の無実を証明できて、めでたしめでたしと終わりにできるようなことではない。
貴也の秘書である静原が、取引先の社員であり、業務提携先の社長令嬢でもある詩織を企業ごと陥れようとしたのだ、それぞれの長での話し合いが必要となる。
それに貴也には、直属の上司としての責任もある。
そういったゴタゴタを含め、神崎テクノとSAIGA精機との話し合いが終わるまで、一度距離を取った方がいいだろうという話になり、詩織が実家に戻ることにした。
貴也と暮らすようになってからも、実家にはちょくちょく遊びには来ていた。でも泊まりがけで帰ってくるのは、これが初めてだ。
「……なんだろう、変な感じ」
久しぶりの自室でベッドに寝転がる詩織は、慣れ親しんでいるはずの自室を見渡して呟く。
つい数ヶ月前までこの部屋で暮らしていたし、今も定期的に掃除をしてくれているらしく、室内は清潔に保たれている。
それなのに、この部屋で過ごすことが妙に落ち着かない。
その理由はもちろん……
「……」
詩織がなんとはなしに視線を向けると、その気持ちに応えるように彼女のスマホが震えた。
スマホ画面には貴也の名前が表示されている。
「もしもし、貴也さん?」
スマホをタップした詩織が話しかけると、スマホの向こうで貴也がそっと息を吐く気配を感じた。
その息遣いだけで、彼がかなり参っていることがわかってしまう。
「疲れてますね」
貴也が簡単に弱音を吐けない性格なのは、承知している。
だからこそ、「疲れてますか?」「大丈夫ですか?」と、問い掛けるのではなく断言してしまう。
誰かが断言してあげないと、貴也自身では、自分が疲れていることに気付けないのだから。
――こういうときは、貴也さんの強さが恨めしい。
なまじ貴也が優秀過ぎるせいで、本人も含めて周囲が彼に期待しすぎる。
とはいえ、どれだけ優れていようが、貴也だって普通の人間なのだ。受け止められるストレスの許容量には限界があるし、無理をすればメタルをやられることだってある。
彼に散々助けられてきた詩織が口にするのはおこがましいことなのかもしれないけど、彼の弱さを見過ごさ図、支えられる存在でありたい。
「……」
無言のまま相手の反応を待っていると、観念したように貴也が、吐息混じりに「ああ、そうだな」と詩織の言葉を受け入れてくれた。
「自分のマンションですか?」
「うん。今帰ってきたところ。……なんとなく、詩織の声が聞きたくなって」
彼が疲れ果てているのであれば、それは少しも喜ぶべきことじゃない。
それがわかっていても、彼にそんなこと言われるとつい喜んでしまう自分はよくないと思う。
スマホをスピーカーモードに切り替えた詩織は、頬をつねって自分を窘めておく。
「貴也さんのご飯、冷蔵庫に作ってあります」
「え?」
貴也が驚きの声を漏らす。
そしてそのまま冷蔵庫をかくにんしたのだろう。
短い足音に続いて冷蔵庫を開閉する音が聞こえる。
「明日の朝の分も。……いつの間に?」
「今日、実家に帰る前にマンションに寄りました」
詩織はスマホをサイドチェアの上に置き、ベッドの上で膝を抱える。
静原が別室に連れて行かれた後、神崎テクノの代表である篤と、とりあえずのKSシステムの代表として生駒は残ることなった。
悠介は片付けたい仕事があるので会社に戻ると言うが、詩織は色々あって就業時間が迫っていたため、生駒が会社に許可を取って直帰していいと言われた。
だから必要な荷物を取りに貴也と暮らすマンションに寄ってから実家に帰るこにして、その際、貴也のために簡単な夕食と朝食を作っておいたのである。
「ありがとう。食事する気分になれなくて何も食べてなかったけど、急にお腹が減ってきたよ」
「そうなると思っていたから、ご飯を作っておいたんです」
詩織のお説教に、貴也が困ったように笑う。
それでも少し元気が出てきたのか、ポツリポツリと詩織が帰った後のことを話してくれた。
「静原君は、全てが自分の犯行だったことを認めたよ。まあ、あの状況じゃ言い逃れのしようもないだろうけど」
そう話を切り出した貴也の話によれば、彼女が盗み出した情報は他にはなかったそうだ。
ただその流れで調べた彼女の父親のパソコンの中には、不透明な金銭の流れを感じさせる痕跡はあり、それはこれから時間を掛けて調べていくことになるのだという。
もしかしたら、静原親子が貴也との縁談に執着したのは、その辺の事情もあってのことなのかもしれない。
もちろん静原が、貴也に強い恋愛感情を抱いていたのは確かなのだろうけど、渡辺にパソコンを調べるよう指示する貴也の言葉に見せた反応から、どうしてもそう考えてしまう。
「詩織や神崎テクノさんに迷惑をかけたし、本来ならすぐにでも法的措置に出るべき問題なのだろうけど、彼女の父親は長くウチで働いてくれていた人で、できれば自主を勧めたい……」
「信じていた人に裏切られるのは、辛いですよね」
「篤さんもそう言ってくれて、しばらく状況を見守ってくれるそうだ」
信じていた人に裏切られる痛みは、詩織も篤も四年前に味わっている。
だからこそ、今彼が抱えている痛みを思うと胸が痛い。
それに貴也は、人を着るのが苦手だ。
こんな状況でも、彼女を処罰することに少なからず胸を痛めていることだろう。
こんな時に、彼に寄り添えない状況が辛い。
「……」
「詩織」
彼の心の痛みを思い、掛ける言葉を探していると、貴也に名前を呼ばれた。
柔らかな声で詩織の名前を呼ぶ貴也は、そのままこう続ける。
「四年前、出会ってくれてありがとう。お前がいてくれたから、俺は救われているよ」
「え……?」
四年前に救われたのは、間違いなく詩織の方だ。
だってあの頃の彼は既に立派な大人の男で、詩織の助けを必要とする場所など何処にもなかったはず。
そう話す詩織に、それは違うと貴也が言う。
「どうしようもなく辛いときでも、詩織がいるから、俺は頑張れるんだよ。お前を守れる人間でありたいと思うから、俺は何処までも強くなれる」
だから今回感じた痛みも、乗り越えていけると貴也は言う。
「貴也さん」
「なんだ?」
「早く家に帰りたいです」
貴也を思って自然と零れたその言葉に、もう自分の居場所はここじゃないのだと、改めて思いする。
生まれ育った実家より、この数ヶ月貴也と暮らしたあのマンションが、すでに自分の暮らす場所なのだ。
電話の向こうで、貴也が一瞬黙り込む。
そしてしみじみた口調で返す。
「そうだな。お前がいないと、この部屋は広すぎる」
長年の一人暮らしをしてきたマンションの広さを、今さらながらに噛みしめているらしい。
彼がそんなふうに思ってしまうくらい、自分の存在が彼の生活の一部に溶け込んでいることが不思議だ。
最初は、かたちだけの婚約者のはずだったのに、気が付けば自分たちは、お互いを掛け替えのない存在として認識している。
「貴也さん……愛しています」
「その言葉は、会った時に聞かせてくれ」
そう注文を付けてきた貴也は、「でもありがとう」と甘い声で囁いて電話を切った。