怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む
9・俺と結婚してください
静原の件があってから一週間、詩織は仕事帰りに貴也のマンションを訪れていた。
SAIGA精機がKSシステムに今回の混乱に巻き込んだことを正式の謝罪したことで、KSシステムとSAIGA精機の関係は既に解決しているのだけど、神崎テクノとの問題はそんな簡単には進まない。
そのため、詩織と貴也の別居はまだ続いているで、貴也が帰ってくる前に彼の食事の準備をしてから実家に帰る生活を送っている。
動機が撫であれえ、神崎テクノとしては静原がしでかしたことを見逃すわけにはいかない。
全く無関係の他社をも巻き込み、社長令嬢である詩織を犯罪者にでっち上げて、業務提携を解消させようとしたのだ、そのことに対する誠意を持った謝罪と、今後の対策案の表明が必要だ。
そのうえSAIGA精機は、古参社員の横領も発覚した状態なので、貴也にはその対応も求められている。
せめてもの救いは、静原の父が、貴也の説得に応じて自首をしてくれたことくらいだろうか。
静原言い逃れのしようがない状況に観念しただけなのかもしれないけど、それでも貴也の心の負担は多少なりとも解消されたはずだ。
「さて、これでいいかな?」
明日の朝の簡単なおかずも準備し終えた詩織は、料理にラップを掛け、何分ほど暖めてほしいかなどの注意点をメモに書く。
テーブルに両肘を預け「おかえりなさい」の言葉で始まるメモを書き終えた詩織は、姿勢を戻して料理とメモを確認する。
夏のうだるような暑さが解消された季節なので、温め直して食べるものはこのままにしておき、カットしたフルーツや酢の物だけ冷蔵庫にしまって帰ろう。
そんなことを考えていると、ふと背後に人の気配を感じた。
「……っ!」
気配に驚いた詩織が振り返るより早く、たくましい腕に背後から抱きしめられてしまう。
「おかえり」
背中から包み込むようにして詩織を抱きしめる貴也が、耳元で囁く。
スーツ越しでもわかる彼の温もり、詩織の耳元で囁く時だけいつもより甘さを含む低い声。
それを感じただけで、詩織の心に押さえようのない愛おしさがこみ上げてくる。
「おかえりは、私の台詞です。それに、ごめんなさい」
「なにが?」
「だって、問題解決するまで会わない方がいいですよね」
そう思うから、貴也のいない時間を狙って食事を作りに来るようにしていたのだ。
その言葉に、貴也は詩織の首筋に顔を埋めたままそっと息を吐く。
「大丈夫。その件なら、今日話し合いが着いた」
「え?」
驚いた詩織は、彼の腕の中でもがくようにして体の向きを変えてた。
貴也に腰を抱かれたまま振り返ると、自然と彼の胸に顔を埋める姿勢になる。
「そのことを詩織と話したくて、急いで帰って来た」
自分を見上げる詩織を強く抱きしめ、貴也は詩織の頬に口付けをすると詩織をリビングへと誘導した。
リビングのソファーに詩織が座ると、スーツのジャケットを脱いだ際もその隣に腰を下ろす。
「まず、一連の騒動の責任を取って、事態収拾の目処が付いたら、俺には一ヶ月の休職が言い渡されることになっている」
「そんな……」
――貴也さんは何も悪くないのに……
詩織は、悔しさに唇を噛んだ。
でも貴也の話はそれだけでは終わらない。
「それに今回の件を受けて、神崎テクノとSAIGA精機は業務提携を解消することになった」
「――っ!」
その可能性を考えていなかったわけではないけど、それが現実のものになると、胸を殴られたような衝撃を受ける。
一瞬、神崎テクノがSAIGA精機に見捨てられたのだと思ったのに、それに続く貴也の言葉は予想外のものだった。
「これからは、業務提携ではなく、主導権を神崎テクノに持ってもらい、特許技術の利用を承諾するだけの形なる。特許技術の利用に関する諸条件も、神崎テクノにかなり有利なものとなっている」
「え、それって……?」
思わず目を瞬かせる詩織の詩織をのぞき込み、貴也はニヤリと笑う。
「神崎テクノとAIGA精機の間に距離ができる。というかAIGA精機としては、今回の件を表沙汰にすることなく穏便に話を済ませてくれた神崎テクノにとうぶんは頭が上がらないだろうな」
「あれ? それじゃあ?」
「その交渉をうまく纏めたのは篤さんだから、これであの人の求心力も取り戻せたし、俺と詩織が結婚したところで、AIGA精機が神崎テクノを吸収しようとしているのだという憶測を呼ぶ心配もない」
ということはつまり、貴也と自分の結婚のタイミングを計る必要がなくなったということではないか。
思いがけない展開に詩織がキョトンとしていると、貴也が悪戯っ子の笑みを浮かべる。
「一ヶ月の休職っていうのも、親父として、俺たちの背中を押しているんだよ。さすがに派手に挙式を上げたり、新婚旅行に行くわけには行かないけど、それでも夫婦二人、ゆっくり過ごす時間は作れる」
「あ……」
貴也のその説明で、絶望的に思えていた世界が反転する。
AIGA精機と神崎テクノ力関係を考慮すれば、もうしばらく先になると思っていた貴也との結婚が、目の前に下りてきた。
その突然の朗報に、詩織の瞳からは涙が溢れてくる。
貴也はそんな詩織の頬を両手で包み込むと、指先で涙を拭う。
そしてそのまま詩織の顔を上向かせ、唇を重ねてきた。
「……」
「神崎詩織さん、俺と結婚してください」
短い口付けを交わして、貴也が改まった口調でプロポーズの言葉を口にする。
そのプロポーズを、詩織が断るはずがない。
「はい」
まだ目を潤ませたまま詩織が頷くと、貴也がホッと息を吐く。
一番最初に彼に結婚を申し出たのは詩織の方だし、ずっと婚約していた。それにお互いの思いも伝え合っているのだから、そんなに緊張しなくてもいいのではないかと呆れてしまう。
でもそう思う反面、詩織にも貴也のその緊張の意味は理解できる。
今日自分を愛してくれている彼が、明日も自分を愛してくれている保証はない。
だから誰かに恋をしているとき、人はいつでも不安なのだ。
だかこそ、愛する人と思いを通わし、共に過ごす人生の一分一秒が愛おしい。
「私、結婚したら仕事を辞めようと思います」
「えっ?」
詩織の急な申し出に、貴也が驚きの声を漏らす。
そして詩織と距離を取り、痛ましげな視線を向けて聞く。
「今回の件で、会社にいずらくなった?」
嘘を吐いてもそのうちバレることなので、詩織は曖昧に笑うことでそれを肯定する。
それを見て、貴也の眉尻が下がる。
「俺のせいでゴメン」
「それは違います。悪いのは静原さんと、会社にちゃんと事情を話しておかなかった私です」
今回の件において詩織が被害者だけど、詩織がちゃんと自身の事情を話して担当を外れておけば、KSシステムに迷惑をかけることはなかったのだ。
しかも今後、詩織が貴也と結婚すれば、一段と扱いにくい存在になってしまう。
ちなみにKSシステムの担当は再度選び直すことになったため、生駒の育休は、十日ほど先送りとなってしまった。
そのこと関しても謝るしかないのだけど、生駒は「それも先輩の仕事だから」と笑って許してくれた。
周囲にこれだけ散々迷惑を掛けたのだ、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかない。
そして……
「私、ずっと貴也さんに大人の女性として認めてほしくて、あがいていました」
彼に惹かれていても、かりそめの婚約者でしかない自分には、その思いを口にする資格がないと思っていた。
だから彼に自分の思いを告げるためにも、まずは一人前の大人にならなくちゃいけないと考え、これまでがんばってきたのだ。
だけど……
「実際に働いてみると、人に助けてもらったり、支えてもらったりすることが多くて頼りないままでした。親にもしっかり迷惑かけてたし」
あれこれ思い出すと、そんなことにも気付かず、貴也に社会で働く自分を大人の女性として扱ってほしいと騒いでいた自分が恥ずかしくなる。
そんな思いを抱えつつ、詩織は言葉を続ける。
「たぶん本当は、そういう周囲のフォローに気付けるようになって、感謝できるようなることが、大人になるってことなんだと思います」
――仕事辞めたら神崎の人生が終わるわけじゃない
――会社に返せなくてもいいから、その分、社会に返せばいい。
あの日、SAGAのオフィスで待たされる間に生駒に言われたことも、詩織の背中を押す切っ掛けとなった。
――仕事は、条件に合ったものを探すこともできるけど、旦那さんになる人は、一人しかいないんだから。
仲良しの里美はそう話していた。
仕事は楽しかったし、職場の仲間は大好きだ。
でもそれ以上に大事に思える人に出会えたのだから、詩織の選ぶ道は一つだ。
「忙しい貴也さんを支えられる存在になりたいです。それは、私にしか仕事だから」
「それは、詩織の人生を窮屈なものにすることにはならないか?」
まず最初に詩織ことを気遣ってくれる貴也が愛おしい。
そんな人だからこそ、自分の人生を委ねていいと思えるのだ。
「貴也さん、愛しています。だから一分一秒でも多く、貴方と一緒にいたいんです」
詩織の心を込めた告白に、貴也が相好を崩す。
「やっとその言葉を聞けた」
そして自分の腕の中に詩織がいる喜びを噛み締めるように、彼女の肩抱き寄せ再び唇を重ねる。
先ほどの優しい口付けとは異なる、大人の濃厚な口付けに、詩織の呼吸は簡単に乱れてしまう。
その息苦しさを伝えてたくて、彼の胸を押すのだけど、貴也が詩織の体を解放してくれる気配はない。
それどころかもう一方の手で詩織の背中を支えつつ、肩を抱いていた手に力を入れて詩織をソファーに押し倒してしまう。
そして片腕をつて体重を加減しながら、詩織の上に覆い被さってくる。
「貴也さん……」
あっさりソファーに押し倒され、彼に組み敷かれる体勢になってしまった詩織は、戸惑いつつ貴也を見上げた。
「色々あったから、お前が俺から離れていくんじゃないかって、ずっと不安だったよ」
「そんなこと……」
あるはずがない。
出会った時からずっと、詩織の心は、貴也に囚われているのだから。
詩織は彼の頬を両手で包み込み、自分の方へと引き寄せる。
「……バカな考えです」
彼の額に自分の額を押し付けた詩織が囁くと、貴也が困ったように笑う。
「男は惚れた女の前では、バカになる生き物なんだ」
どこかばつが悪そうな表情で本音を吐露した貴也は、再び詩織の唇を求めてくる。
「ん……ぅ…………っ」
体勢が変わったせいか、久しぶりなせいか、貴也の口付けは濃厚で、無意識に甘い吐息を漏らしてしまう。
そんな詩織の声に男の本能が煽られるのか、貴也は口付けの濃度を増す。
薄く開いた唇の隙間から侵入してきた貴也の舌は、詩織の上顎を撫で、舌を擽る。
ヌルリと動くしたの感覚が、詩織の欲望を誘う。
それでも彼の大きな手が胸の膨らみに触れると、詩織は戸惑いの声を漏らした。
「ここで……今?」
秋に旅行をした際、初めて彼と肌を重ねた。
それ以降、このマンションでもそういうことはしているけど、いつもは寝室だし、恥ずかしいので照明はかなり暗くしてもらっている。
それなのに、明るいリビングで、しかもお互い仕事帰りの着の身着のままの状態で肌を求め合うなんて恥ずかし過ぎる。
「俺に触れられるのはイヤ?」
「……」
その聞き方は、かなりズルイ。
詩織は貴也に触れられるのがイヤなのではなく、明るいリビングのソファーで、そういうった行為に及ぶのが恥ずかしいだけなのに。
「ほら、私も貴也さんも仕事帰りのままだし、着替えとかシャワーとか食事とか……」
この状況でそういった行為に及ぶことを、どうにか思いとどまってもらおうとあれこれ理由を並べる。
すると顔を上げた貴也は、周囲に視線を巡らせてなるほどと頷く。
どうやら、理解してくれたらしい。
彼の仕草にそう理解した詩織だけど、貴也の言葉に頬を引きつらせることになる。
「じゃあ、とりあえずは一緒にシャワーを浴びて、続きはその後でしようか」
「はい?」
想定外の言葉に、頭が白くなる。
詩織がフリーズしている隙に、上体を起こした貴也は、スルリとソファーから立ち上がると、そのまま詩織を抱き上げてしまう。
「キャッ!」
腰と膝裏に腕を回されたと思った次の瞬間には彼に軽々と抱き上げられ、急な浮遊感に驚いた詩織は小さな悲鳴を上げて彼の首筋に腕を絡めた。
「積極的だな」
そんな詩織の反応を見て、貴也がからかってくる。
「違っ!」
「こら、手を離すと危ないぞ」
慌てる詩織をそう窘める。
ついでの体を軽く揺らしてくるので、詩織は慌てて再度彼の首筋に腕を絡めた。
そのままの体勢でチラリと視線を向けると、夜の闇に染まった窓ガラスに、彼にお姫様抱っこされている自分の姿が映し出されていて恥ずかしくなる。
「あの下ろしてください。それと……」
先ほど貴也に、かなり際どいことを言われたが気がするけど、聞き間違えとして流してしまいたい。
――一緒にシャワーを浴びるなんて、冗談ですよね?
そんなの言葉にするのも恥ずかしいと、詩織は曖昧に笑って視線で訴える。
詩織のその視線を受け止め、貴也が涼しげな表情で返す。
「先にシャワーを浴びたいって言ったのは、詩織だ。その要望を叶えて一緒にシャワーを浴びよう」
そう言うと、貴也は詩織を抱えたまま歩き出す。
「貴也さん、さっきの私の発言は、そう意味じゃないです」
詩織が言いたいのはそういうことじゃないし、それは貴也だってわかっているはずなのに……
詩織が脚をばたつかせて抗議すと、貴也が脚を止め、こちらへと視線を向ける。
「言い忘れて言いた、男は惚れた女の前ではバカになるし、ついでにかなりズルくなる」
口角を持ちゃ上げ、ニッと勝者の笑みを浮かべる。
その笑い方に、自分の婚約者様の本質的な性格を思い出す。
「……」
赤面して口をパクパクさせる詩織に、貴也は言葉を重ねる。
「やっと会えたんだ。俺は一秒だって詩織と離れたくないというのが本音なんだけど、詩織は違うのか?」
そう問い掛けてくる彼の表情はしおらしいけど、瞳の奥では悪巧みを楽しんでいるときの輝きが見え隠れする。
この持って行き方は、本当にズルイ。
「そうじゃなくて、でも……」
「詩織が本気でイヤなら、もちろんやめておくけど」
そんな言われ方をされて、詩織が彼を拒めるはずがない。
詩織だって恥ずかしいだけで、本気で彼を拒んでいるわけではないのだから。
「ズルイです」
「詩織が魅力的すぎて、俺をズルイ男にさせるんだよ」
形だけなじる詩織の声音で彼女の本音を読み取った貴也は、その頬に口付けをして歩みを再開させる。
これから先もずっと、彼に勝てる気がしない。
「……貴也さんは、ズルイです」
彼の胸に顔を埋めて再度詩織がなじるけど、貴也には褒め言葉にしか聞こえないらしい。
「ごめん。愛してるから許してくれ」
柔らかな声でそう囁き、詩織の髪に口付けをする。
――だから、それがズルいのに……
でもそのズルさも含めて愛おしい。
抗議することを諦めて、詩織は彼の背中に回す手に力を込めた。
◇◇◇
夜、横になった姿勢のまま片腕で頬杖を突く貴也は、自分の隣で眠る詩織の頬をそっと撫でた。
長年一人暮らしをしていたはずなのに、一週間、詩織がいなだけで住み馴れたマンションがやたら広く感じたのは自分でも驚いた。
だからこうやって詩織に触れて、彼女が自分の腕の中にいることを何度も確認してしまう。
会えなかった時間の寂しさを埋めるように、激しく互いを求め合った。
その疲労感で熟睡する詩織だが、貴也の指の動きくすぐったそうに笑う。
無防備なその表情に、愛おしさが増す。
ただそれだけのことに、自分でも驚くほどの充足感を覚えるのは、それほど彼女が自分の人生に欠かせない存在になっているからだ。
愛し合った後で一緒に食事を取ったら、その後ちゃんと実家に送るつもりでいたのに、結局は離れがたくて詩織を引き留めてしまった。
神崎の家でも、彼女から連絡を受けて「もう嫁に出したようなものだから」といってくれたのは嬉しいことだ。
今回、静原がしでかした件で、神崎テクノにも篤にもかなり不快な思いをさせてしまったはずなのに、娘婿として変わらず接してくれる神崎の家族には頭が上がらない。
これまでの話し合いの中で篤に詫びた際にも、彼は鷹揚に許してくれたし、詩織との関係も、二人の間にわだかまりがないのであれば問題ないと言ってくれた。
篤としては、貴也の人柄を信じているからこそ、詩織との結婚を承諾したのだし、その信頼はただ一度の問題で消えてしまうようなものではないと言ってくれた。
その寛容さは、さすが詩織の父親と言える。
そんな彼は最初、静原の件を不問に処すと言ってくれたのだけど、それでは斎賀側の気持ちが収まらない。
結果、詩織との結婚のタイミングが早められたのは嬉しい誤算である。
ただ詩織が仕事を辞めると話したことに関しては、本当にそれでいいのかという思いはある。
「…………貴也さん」
まどろみの中にいる詩織が、自分の名前を呼ぶ。
「どうした?」
そう問い掛けても、相手はただの寝言なので、もちろん返事はない。
それでも貴也の声に多少なり覚醒したのか、嬉しそうに笑う。
――こんなに愛おしい存在、手放せるわけがない。
貴也は、ずれた布団をかけ直すついでに、彼女の薄い肩を抱く。
詩織には自分のそばに居てほしいと思うのと同じくらい、後悔のないよう自由に生きてほしい思う。
そして自分のその両方の欲求を満たすためになにをすればいいのかと考えれば、詩織に自分を選んだことを後悔させないよう、頑張るしかないのだろう。
自分はもう、詩織なしでは生きていけないのだから。
「愛してる」
そう囁くと、詩織が嬉しそうに笑う。
もしかしたら、自分の夢を見てくれているのかもしれない。
それならいいのにと、貴也は、熟睡する詩織の額に自分の額を寄せる。
そんなことで、一緒の夢を見られるわけではないのだけど、夢の中でも彼女と一緒に居られますようにと願いながら瞼を伏せた。
SAIGA精機がKSシステムに今回の混乱に巻き込んだことを正式の謝罪したことで、KSシステムとSAIGA精機の関係は既に解決しているのだけど、神崎テクノとの問題はそんな簡単には進まない。
そのため、詩織と貴也の別居はまだ続いているで、貴也が帰ってくる前に彼の食事の準備をしてから実家に帰る生活を送っている。
動機が撫であれえ、神崎テクノとしては静原がしでかしたことを見逃すわけにはいかない。
全く無関係の他社をも巻き込み、社長令嬢である詩織を犯罪者にでっち上げて、業務提携を解消させようとしたのだ、そのことに対する誠意を持った謝罪と、今後の対策案の表明が必要だ。
そのうえSAIGA精機は、古参社員の横領も発覚した状態なので、貴也にはその対応も求められている。
せめてもの救いは、静原の父が、貴也の説得に応じて自首をしてくれたことくらいだろうか。
静原言い逃れのしようがない状況に観念しただけなのかもしれないけど、それでも貴也の心の負担は多少なりとも解消されたはずだ。
「さて、これでいいかな?」
明日の朝の簡単なおかずも準備し終えた詩織は、料理にラップを掛け、何分ほど暖めてほしいかなどの注意点をメモに書く。
テーブルに両肘を預け「おかえりなさい」の言葉で始まるメモを書き終えた詩織は、姿勢を戻して料理とメモを確認する。
夏のうだるような暑さが解消された季節なので、温め直して食べるものはこのままにしておき、カットしたフルーツや酢の物だけ冷蔵庫にしまって帰ろう。
そんなことを考えていると、ふと背後に人の気配を感じた。
「……っ!」
気配に驚いた詩織が振り返るより早く、たくましい腕に背後から抱きしめられてしまう。
「おかえり」
背中から包み込むようにして詩織を抱きしめる貴也が、耳元で囁く。
スーツ越しでもわかる彼の温もり、詩織の耳元で囁く時だけいつもより甘さを含む低い声。
それを感じただけで、詩織の心に押さえようのない愛おしさがこみ上げてくる。
「おかえりは、私の台詞です。それに、ごめんなさい」
「なにが?」
「だって、問題解決するまで会わない方がいいですよね」
そう思うから、貴也のいない時間を狙って食事を作りに来るようにしていたのだ。
その言葉に、貴也は詩織の首筋に顔を埋めたままそっと息を吐く。
「大丈夫。その件なら、今日話し合いが着いた」
「え?」
驚いた詩織は、彼の腕の中でもがくようにして体の向きを変えてた。
貴也に腰を抱かれたまま振り返ると、自然と彼の胸に顔を埋める姿勢になる。
「そのことを詩織と話したくて、急いで帰って来た」
自分を見上げる詩織を強く抱きしめ、貴也は詩織の頬に口付けをすると詩織をリビングへと誘導した。
リビングのソファーに詩織が座ると、スーツのジャケットを脱いだ際もその隣に腰を下ろす。
「まず、一連の騒動の責任を取って、事態収拾の目処が付いたら、俺には一ヶ月の休職が言い渡されることになっている」
「そんな……」
――貴也さんは何も悪くないのに……
詩織は、悔しさに唇を噛んだ。
でも貴也の話はそれだけでは終わらない。
「それに今回の件を受けて、神崎テクノとSAIGA精機は業務提携を解消することになった」
「――っ!」
その可能性を考えていなかったわけではないけど、それが現実のものになると、胸を殴られたような衝撃を受ける。
一瞬、神崎テクノがSAIGA精機に見捨てられたのだと思ったのに、それに続く貴也の言葉は予想外のものだった。
「これからは、業務提携ではなく、主導権を神崎テクノに持ってもらい、特許技術の利用を承諾するだけの形なる。特許技術の利用に関する諸条件も、神崎テクノにかなり有利なものとなっている」
「え、それって……?」
思わず目を瞬かせる詩織の詩織をのぞき込み、貴也はニヤリと笑う。
「神崎テクノとAIGA精機の間に距離ができる。というかAIGA精機としては、今回の件を表沙汰にすることなく穏便に話を済ませてくれた神崎テクノにとうぶんは頭が上がらないだろうな」
「あれ? それじゃあ?」
「その交渉をうまく纏めたのは篤さんだから、これであの人の求心力も取り戻せたし、俺と詩織が結婚したところで、AIGA精機が神崎テクノを吸収しようとしているのだという憶測を呼ぶ心配もない」
ということはつまり、貴也と自分の結婚のタイミングを計る必要がなくなったということではないか。
思いがけない展開に詩織がキョトンとしていると、貴也が悪戯っ子の笑みを浮かべる。
「一ヶ月の休職っていうのも、親父として、俺たちの背中を押しているんだよ。さすがに派手に挙式を上げたり、新婚旅行に行くわけには行かないけど、それでも夫婦二人、ゆっくり過ごす時間は作れる」
「あ……」
貴也のその説明で、絶望的に思えていた世界が反転する。
AIGA精機と神崎テクノ力関係を考慮すれば、もうしばらく先になると思っていた貴也との結婚が、目の前に下りてきた。
その突然の朗報に、詩織の瞳からは涙が溢れてくる。
貴也はそんな詩織の頬を両手で包み込むと、指先で涙を拭う。
そしてそのまま詩織の顔を上向かせ、唇を重ねてきた。
「……」
「神崎詩織さん、俺と結婚してください」
短い口付けを交わして、貴也が改まった口調でプロポーズの言葉を口にする。
そのプロポーズを、詩織が断るはずがない。
「はい」
まだ目を潤ませたまま詩織が頷くと、貴也がホッと息を吐く。
一番最初に彼に結婚を申し出たのは詩織の方だし、ずっと婚約していた。それにお互いの思いも伝え合っているのだから、そんなに緊張しなくてもいいのではないかと呆れてしまう。
でもそう思う反面、詩織にも貴也のその緊張の意味は理解できる。
今日自分を愛してくれている彼が、明日も自分を愛してくれている保証はない。
だから誰かに恋をしているとき、人はいつでも不安なのだ。
だかこそ、愛する人と思いを通わし、共に過ごす人生の一分一秒が愛おしい。
「私、結婚したら仕事を辞めようと思います」
「えっ?」
詩織の急な申し出に、貴也が驚きの声を漏らす。
そして詩織と距離を取り、痛ましげな視線を向けて聞く。
「今回の件で、会社にいずらくなった?」
嘘を吐いてもそのうちバレることなので、詩織は曖昧に笑うことでそれを肯定する。
それを見て、貴也の眉尻が下がる。
「俺のせいでゴメン」
「それは違います。悪いのは静原さんと、会社にちゃんと事情を話しておかなかった私です」
今回の件において詩織が被害者だけど、詩織がちゃんと自身の事情を話して担当を外れておけば、KSシステムに迷惑をかけることはなかったのだ。
しかも今後、詩織が貴也と結婚すれば、一段と扱いにくい存在になってしまう。
ちなみにKSシステムの担当は再度選び直すことになったため、生駒の育休は、十日ほど先送りとなってしまった。
そのこと関しても謝るしかないのだけど、生駒は「それも先輩の仕事だから」と笑って許してくれた。
周囲にこれだけ散々迷惑を掛けたのだ、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかない。
そして……
「私、ずっと貴也さんに大人の女性として認めてほしくて、あがいていました」
彼に惹かれていても、かりそめの婚約者でしかない自分には、その思いを口にする資格がないと思っていた。
だから彼に自分の思いを告げるためにも、まずは一人前の大人にならなくちゃいけないと考え、これまでがんばってきたのだ。
だけど……
「実際に働いてみると、人に助けてもらったり、支えてもらったりすることが多くて頼りないままでした。親にもしっかり迷惑かけてたし」
あれこれ思い出すと、そんなことにも気付かず、貴也に社会で働く自分を大人の女性として扱ってほしいと騒いでいた自分が恥ずかしくなる。
そんな思いを抱えつつ、詩織は言葉を続ける。
「たぶん本当は、そういう周囲のフォローに気付けるようになって、感謝できるようなることが、大人になるってことなんだと思います」
――仕事辞めたら神崎の人生が終わるわけじゃない
――会社に返せなくてもいいから、その分、社会に返せばいい。
あの日、SAGAのオフィスで待たされる間に生駒に言われたことも、詩織の背中を押す切っ掛けとなった。
――仕事は、条件に合ったものを探すこともできるけど、旦那さんになる人は、一人しかいないんだから。
仲良しの里美はそう話していた。
仕事は楽しかったし、職場の仲間は大好きだ。
でもそれ以上に大事に思える人に出会えたのだから、詩織の選ぶ道は一つだ。
「忙しい貴也さんを支えられる存在になりたいです。それは、私にしか仕事だから」
「それは、詩織の人生を窮屈なものにすることにはならないか?」
まず最初に詩織ことを気遣ってくれる貴也が愛おしい。
そんな人だからこそ、自分の人生を委ねていいと思えるのだ。
「貴也さん、愛しています。だから一分一秒でも多く、貴方と一緒にいたいんです」
詩織の心を込めた告白に、貴也が相好を崩す。
「やっとその言葉を聞けた」
そして自分の腕の中に詩織がいる喜びを噛み締めるように、彼女の肩抱き寄せ再び唇を重ねる。
先ほどの優しい口付けとは異なる、大人の濃厚な口付けに、詩織の呼吸は簡単に乱れてしまう。
その息苦しさを伝えてたくて、彼の胸を押すのだけど、貴也が詩織の体を解放してくれる気配はない。
それどころかもう一方の手で詩織の背中を支えつつ、肩を抱いていた手に力を入れて詩織をソファーに押し倒してしまう。
そして片腕をつて体重を加減しながら、詩織の上に覆い被さってくる。
「貴也さん……」
あっさりソファーに押し倒され、彼に組み敷かれる体勢になってしまった詩織は、戸惑いつつ貴也を見上げた。
「色々あったから、お前が俺から離れていくんじゃないかって、ずっと不安だったよ」
「そんなこと……」
あるはずがない。
出会った時からずっと、詩織の心は、貴也に囚われているのだから。
詩織は彼の頬を両手で包み込み、自分の方へと引き寄せる。
「……バカな考えです」
彼の額に自分の額を押し付けた詩織が囁くと、貴也が困ったように笑う。
「男は惚れた女の前では、バカになる生き物なんだ」
どこかばつが悪そうな表情で本音を吐露した貴也は、再び詩織の唇を求めてくる。
「ん……ぅ…………っ」
体勢が変わったせいか、久しぶりなせいか、貴也の口付けは濃厚で、無意識に甘い吐息を漏らしてしまう。
そんな詩織の声に男の本能が煽られるのか、貴也は口付けの濃度を増す。
薄く開いた唇の隙間から侵入してきた貴也の舌は、詩織の上顎を撫で、舌を擽る。
ヌルリと動くしたの感覚が、詩織の欲望を誘う。
それでも彼の大きな手が胸の膨らみに触れると、詩織は戸惑いの声を漏らした。
「ここで……今?」
秋に旅行をした際、初めて彼と肌を重ねた。
それ以降、このマンションでもそういうことはしているけど、いつもは寝室だし、恥ずかしいので照明はかなり暗くしてもらっている。
それなのに、明るいリビングで、しかもお互い仕事帰りの着の身着のままの状態で肌を求め合うなんて恥ずかし過ぎる。
「俺に触れられるのはイヤ?」
「……」
その聞き方は、かなりズルイ。
詩織は貴也に触れられるのがイヤなのではなく、明るいリビングのソファーで、そういうった行為に及ぶのが恥ずかしいだけなのに。
「ほら、私も貴也さんも仕事帰りのままだし、着替えとかシャワーとか食事とか……」
この状況でそういった行為に及ぶことを、どうにか思いとどまってもらおうとあれこれ理由を並べる。
すると顔を上げた貴也は、周囲に視線を巡らせてなるほどと頷く。
どうやら、理解してくれたらしい。
彼の仕草にそう理解した詩織だけど、貴也の言葉に頬を引きつらせることになる。
「じゃあ、とりあえずは一緒にシャワーを浴びて、続きはその後でしようか」
「はい?」
想定外の言葉に、頭が白くなる。
詩織がフリーズしている隙に、上体を起こした貴也は、スルリとソファーから立ち上がると、そのまま詩織を抱き上げてしまう。
「キャッ!」
腰と膝裏に腕を回されたと思った次の瞬間には彼に軽々と抱き上げられ、急な浮遊感に驚いた詩織は小さな悲鳴を上げて彼の首筋に腕を絡めた。
「積極的だな」
そんな詩織の反応を見て、貴也がからかってくる。
「違っ!」
「こら、手を離すと危ないぞ」
慌てる詩織をそう窘める。
ついでの体を軽く揺らしてくるので、詩織は慌てて再度彼の首筋に腕を絡めた。
そのままの体勢でチラリと視線を向けると、夜の闇に染まった窓ガラスに、彼にお姫様抱っこされている自分の姿が映し出されていて恥ずかしくなる。
「あの下ろしてください。それと……」
先ほど貴也に、かなり際どいことを言われたが気がするけど、聞き間違えとして流してしまいたい。
――一緒にシャワーを浴びるなんて、冗談ですよね?
そんなの言葉にするのも恥ずかしいと、詩織は曖昧に笑って視線で訴える。
詩織のその視線を受け止め、貴也が涼しげな表情で返す。
「先にシャワーを浴びたいって言ったのは、詩織だ。その要望を叶えて一緒にシャワーを浴びよう」
そう言うと、貴也は詩織を抱えたまま歩き出す。
「貴也さん、さっきの私の発言は、そう意味じゃないです」
詩織が言いたいのはそういうことじゃないし、それは貴也だってわかっているはずなのに……
詩織が脚をばたつかせて抗議すと、貴也が脚を止め、こちらへと視線を向ける。
「言い忘れて言いた、男は惚れた女の前ではバカになるし、ついでにかなりズルくなる」
口角を持ちゃ上げ、ニッと勝者の笑みを浮かべる。
その笑い方に、自分の婚約者様の本質的な性格を思い出す。
「……」
赤面して口をパクパクさせる詩織に、貴也は言葉を重ねる。
「やっと会えたんだ。俺は一秒だって詩織と離れたくないというのが本音なんだけど、詩織は違うのか?」
そう問い掛けてくる彼の表情はしおらしいけど、瞳の奥では悪巧みを楽しんでいるときの輝きが見え隠れする。
この持って行き方は、本当にズルイ。
「そうじゃなくて、でも……」
「詩織が本気でイヤなら、もちろんやめておくけど」
そんな言われ方をされて、詩織が彼を拒めるはずがない。
詩織だって恥ずかしいだけで、本気で彼を拒んでいるわけではないのだから。
「ズルイです」
「詩織が魅力的すぎて、俺をズルイ男にさせるんだよ」
形だけなじる詩織の声音で彼女の本音を読み取った貴也は、その頬に口付けをして歩みを再開させる。
これから先もずっと、彼に勝てる気がしない。
「……貴也さんは、ズルイです」
彼の胸に顔を埋めて再度詩織がなじるけど、貴也には褒め言葉にしか聞こえないらしい。
「ごめん。愛してるから許してくれ」
柔らかな声でそう囁き、詩織の髪に口付けをする。
――だから、それがズルいのに……
でもそのズルさも含めて愛おしい。
抗議することを諦めて、詩織は彼の背中に回す手に力を込めた。
◇◇◇
夜、横になった姿勢のまま片腕で頬杖を突く貴也は、自分の隣で眠る詩織の頬をそっと撫でた。
長年一人暮らしをしていたはずなのに、一週間、詩織がいなだけで住み馴れたマンションがやたら広く感じたのは自分でも驚いた。
だからこうやって詩織に触れて、彼女が自分の腕の中にいることを何度も確認してしまう。
会えなかった時間の寂しさを埋めるように、激しく互いを求め合った。
その疲労感で熟睡する詩織だが、貴也の指の動きくすぐったそうに笑う。
無防備なその表情に、愛おしさが増す。
ただそれだけのことに、自分でも驚くほどの充足感を覚えるのは、それほど彼女が自分の人生に欠かせない存在になっているからだ。
愛し合った後で一緒に食事を取ったら、その後ちゃんと実家に送るつもりでいたのに、結局は離れがたくて詩織を引き留めてしまった。
神崎の家でも、彼女から連絡を受けて「もう嫁に出したようなものだから」といってくれたのは嬉しいことだ。
今回、静原がしでかした件で、神崎テクノにも篤にもかなり不快な思いをさせてしまったはずなのに、娘婿として変わらず接してくれる神崎の家族には頭が上がらない。
これまでの話し合いの中で篤に詫びた際にも、彼は鷹揚に許してくれたし、詩織との関係も、二人の間にわだかまりがないのであれば問題ないと言ってくれた。
篤としては、貴也の人柄を信じているからこそ、詩織との結婚を承諾したのだし、その信頼はただ一度の問題で消えてしまうようなものではないと言ってくれた。
その寛容さは、さすが詩織の父親と言える。
そんな彼は最初、静原の件を不問に処すと言ってくれたのだけど、それでは斎賀側の気持ちが収まらない。
結果、詩織との結婚のタイミングが早められたのは嬉しい誤算である。
ただ詩織が仕事を辞めると話したことに関しては、本当にそれでいいのかという思いはある。
「…………貴也さん」
まどろみの中にいる詩織が、自分の名前を呼ぶ。
「どうした?」
そう問い掛けても、相手はただの寝言なので、もちろん返事はない。
それでも貴也の声に多少なり覚醒したのか、嬉しそうに笑う。
――こんなに愛おしい存在、手放せるわけがない。
貴也は、ずれた布団をかけ直すついでに、彼女の薄い肩を抱く。
詩織には自分のそばに居てほしいと思うのと同じくらい、後悔のないよう自由に生きてほしい思う。
そして自分のその両方の欲求を満たすためになにをすればいいのかと考えれば、詩織に自分を選んだことを後悔させないよう、頑張るしかないのだろう。
自分はもう、詩織なしでは生きていけないのだから。
「愛してる」
そう囁くと、詩織が嬉しそうに笑う。
もしかしたら、自分の夢を見てくれているのかもしれない。
それならいいのにと、貴也は、熟睡する詩織の額に自分の額を寄せる。
そんなことで、一緒の夢を見られるわけではないのだけど、夢の中でも彼女と一緒に居られますようにと願いながら瞼を伏せた。