財閥御曹司の独占的な深愛は 〜彼氏に捨てられて貯金をとられて借金まで押し付けられた夜、婚約者に逃げられて未練がましい財閥御曹司と一晩を過ごしたら結婚を申し込まれました〜
 深秋の夜の海は寒い。
 仕事を終えて店を出た入鹿千遥(いるかちはる)は、思った以上の寒さに体を震わせた。
 制服の上に軽く上着を羽織っているだけだ。車通勤だから普段はこれで問題ない。
 だが、今夜は駐車場に向かわず海に向かった。
 彼女の勤めるカフェレストランBlack-tailed gull(ブラックテイルガル)はマリーナにあるから、歩いてすぐに辿り着いた。
 上着を掻き合せて寒さをやりすごそうにも、隙間から容赦なく冷たい空気が入り込む。
 クリスマスを意識したイルミネーションもこの時間では消されていて暗い。
 雲が出ていて月も星も見えなかった。ただどんよりと暗く、海と空との境目もわからなかった。
 潮騒は近くて遠かった。防波堤のせいかもしれず、沈んだ気持ちのせいかもしれず、だが、そんなことはどうでも良かった。
 チャプチャプとボートが揺られている。上下左右になされるがままに揺れるそれは、大波をくらったらひとたまりもないない。
 私は大波をくらったボートね。
 ぼんやりと千遥はそんなことを思った。
 転覆して、今にも沈みそうな船。
 いっそ沈んでしまったら。
 28年生きてきて、こんな目に遭うなんて思いもしなかった。
 暗い海を見つめる。海の底はきっと静かだ。きっと安らかに眠れる。
 千遥がふらっと一歩を踏み出したときだった。
「まゆー!」
 後ろから誰かが抱きついた。
「きゃああああ!」
 千遥は悲鳴を上げた。
「会いたかった、こんなところにいたんだ」
 涙でにじんだ男の声だった。酒臭い息が千遥にかかる。
「離して!」
 叫びを無視して、男は泣きながら彼女にしがみつく。
「まゆさん!?」
 驚いた女の声が響いた。
 そちらを見ると、暗がりにもわかるほど驚愕を貼り付けた若い女がいた。
「違う、まゆさんじゃナい。お兄様、離れて」
 女の声は、ところどころイントネーションがおかしかった。
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