絶縁されたので婚約解消するはずが、溺甘御曹司さまが逃してくれません

「絢子ちゃん。今日はもう行かなくちゃいけないんだけど、また僕と会ってくれるかな?」

 ふと身を屈めた雪浩が、絢子の顔を覗き込んでそう問いかけてくれる。これまで画面の中で見かけることはあっても、面識は一切なかった男性。科学的根拠に基づいた鑑定の結果、絢子の実の父親だと証明された人。

 その相手が少し切なく、けれど嬉しさも滲ませながら微笑んでくれるので、絢子の心が緊張の音を立てる。まだぼんやりしていて現実感は少ないけれど、雪浩の笑顔が絢子に〝本物の親子愛〟と〝絆〟を知る瞬間を予兆させる。

「昔の香純ちゃんの話を、君にも聞いてほしいんだ」

 雪浩がふわりと微笑んだ瞬間、絢子の目から意図せず涙が零れ落ちた。頬の上を小さな雫が伝っていくことに気づいて慌てて視線を下げるが、ぽろぽろと零れてくる涙を止められない。

 こんな公衆の面前で泣いてしまうなんて、絢子は淑女失格だ。長い間、獅子堂財閥の御曹司の妻として相応しい女性になれと――どんなことがあっても慌てず騒がず動じず、玲良が不利になるような振る舞いは厳に慎み、玲良に尽くすことを最優先で考えろと教えられてきた。

「わ……ご、ごめんね? 僕、変なこと言ったかな?」
「ちが……ちがうんです!」

 だから泣くつもりはなかったのに。早く涙を止めたいのに、溢れる想いを止められない。雪浩の一言をきっかけに時間差でやってきた、溢れ出す喜びと驚きと悲しみと寂しさを抑えられない。

< 60 / 66 >

この作品をシェア

pagetop