絶縁されたので婚約解消するはずが、溺甘御曹司さまが逃してくれません

「私、ずっと……お母さまの話をすることを、桜城家から禁止されてて……」
「絢子……」
「……絢子ちゃん」
「妹の燈子には母親がいるのに、私には母がいないことが……本当はずっと、寂しくて……」

 そう。物心がついたときすでに実母を失っていた絢子は、数年前に亡くなった匠一の母である祖母と後妻である麻里恵から、香純の名前を口にすることを固く禁じられてきた。

 誤って「お母さま」と口にしようものなら祖母からは手に鞭を打たれ、麻里恵には母娘の出自と躾の悪さを散々に蔑まれ、数日間は二人から無視されるという仕打ちを受けてきた。

 自身が良家の生まれである彼女たちにとって、一般庶民である香純と、匠一がその香純に入れ込んでもうけた絢子という存在がよほど許せなかったらしい。私立大学付属の初等部に入学するよりも前にその歪んだ感情に気づいた絢子だったが、それでも母を恨んだことは一度もなかった。

 その理由は、香純の実際の人となりを知らず正確な判断をできなかったことと、優しかった古参の使用人たちが誰一人として香純を悪く言わなかったことが大きい。

 でも本当は、絢子は寂しかった。押し殺した感情の奥底では、いつも悲しみと苦しみがひしめき合っていた。

「ごめんね。僕が勇気を出して香純ちゃんに会いに行かなかったから、君に苦しい思いをさせてしまった」
「いいえ……! ちがうんです……!」

 多くを語らなくても、絢子が胸の内に秘めた感情を察したのだろう。心底申し訳なさそうな声が聞こえたので慌てて顔を上げると、真剣な表情の雪浩と目が合う。

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