絶縁されたので婚約解消するはずが、溺甘御曹司さまが逃してくれません
「……。」
寒々しい秋の夜風の中に放り出された。あっという間にすべてを失った。住む場所も、家族も、これまでの思い出も、これからの未来も、絢子のすべてが突然否定され、全部無くなってしまった。見上げた夜空の闇色と同じく、絢子の心と頭の中もただただ真っ暗だ。
現実に心がついていかない。なにが起こっているのか正確に理解できない。
だからだろうか、絢子は燈子が発した『使用人のくせに』という小夜を下げる言い方ばかり気になり、その後ろに続いた母の香純を蔑む酷い言葉に、最初はまったく気づいていなかった。
本来なら燈子に対してもっと怒ってもいいはずだった。燈子の言葉は、桜城家に嫁いで匠一を支えていた香純に対して放っていい言葉ではなかった。
だが絢子は結局、なにも言い返せなかった。しかしそれは勇気がなかったとか、燈子の逆鱗に触れるのが嫌だったからではない。
香純が亡くなったとき、絢子はまだ二歳という幼さだった。母に関する記憶はほとんどなく、当然自分で真実を見聞きしたわけでもない。ゆえに安易に庇っていいのかどうかすら、絢子には判断できなかったのだ。
「……痛い」
今になって、匠一に叩かれた頬が痛み始める。躾こそ厳しかったものの殴られた経験がなかった絢子は、時間が経過してようやく『追い出された』現実をじわじわ実感しはじめた。